記憶喪失…。
この二週間、ジョミーに何があったのか分からない。本人にはそんなに長い間姿を消していたという意識はなく、せいぜい2、3時間程度だったと思っていたらしい。おまけに、北の国へ来ていたのは、かつて南の国であった≪グランド・マザー≫の村の全滅の原因を探るためだったという。彼の村は未だに荒れ放題で、手を着けようにも何かの邪魔が入ってどうにもできなかったかららしい。キースが黙ってうなずいていたところを見ると、どうやらそれは本当のようだった。
そこで少しむっとした。
そんな話があるのなら、なぜジョミーは僕に話してくれなかったのだろう。一応、あの村の出だというのに。当事者の近くにいたのだから、真っ先に事情を聞いてもおかしくないではないか。
そう思ったが、すぐに反省した。
…たとえジョミーに訊かれたとしても、話せることなど何もない。それに、ジョミーは優しいから、極力この手の話題は避けていたのかもしれない。いや、そんなことよりも。
ジョミーの記憶喪失は、状況的に外傷性である可能性は高い。倒れる直前まで戦っていたのがその理由だ。でも…それが、特定の人だけを忘れるような記憶喪失を起こすものだろうか…。
そこまで考えて、違う、とどこかで声がしたような気がした。その症状は、外傷性というよりも、心因性だ、と。ということは…。
…ジョミーは…僕のことを忘れたかったのかもしれない…。
今まで認めたくなかったけれど…それしか考えられなかった。一緒にいても、役に立たない。君の重荷になるだけで、何の得もない。
そこまで考えたとき。
『少しいいでしょうか。あなたと話がしたいのですが』
…ジョミー。
ドアが開き、赤いマントに身を包んだジョミーが姿を現した。先の戦いの細かい傷跡が残っている以外は、いつもの彼だ。動きから見ても、もう大丈夫そうだ。
それにしても。
ついむっとしてしまう。
一緒に寝泊まりしていた部屋に入るだけだというのに、あらかじめ思念波で伺いを立てて控えめにドアを開く。
…今までこんなことはなかった。
『…すみません、それは僕の気持ちの問題ですね』
苦く笑って謝罪されるのに、はっとした。
記憶をなくして戸惑っているのはジョミーのほうだというのに…。
『いえ。あなたが自分を責める必要はありません。あなたのことを忘れてしまったのは、僕の責任です』
言いながら、後ろ手でドアを閉め、ジョミーは部屋の真ん中、今ブルーが座っている応接セットの近くまでやってきた。
『キースには、さんざん無責任じゃないかと言われました。当時は僕のほうが積極的で力づくであなたを落としたようなものだったと聞いていますから』
…そんなこともないと思う…。ジョミーがしつこいからといって、いやいや一緒になったわけでもあるまいし、最後のあたりは僕自身がかなり強引だったことだし…。
そんなことを考えていると、ジョミーはブルーの座っているソファの前で腰を落として、『それで…』と話しかけた。
『あなたに頼みがあるんです』
「頼み…?」
『はい。でも、断ってもらっても構いませんから』
断っても…構わない?
何だろうと思っていると、ジョミーはいったん立ち上がると、ブルーの正面の椅子に腰かけた。それにはつい違和感を覚えてしまう。
…いつもなら、隣に座るだろうに…。
そんな些細なことまで気になってしまうのに、自己嫌悪に陥りそうになっていると。
『あなたの記憶を見せてもらえませんか?』
…僕の、記憶…? それを見るって…どういうこと?
不思議に思っていると、ジョミーはかすかに笑った。
…雰囲気が…柔らかい。
今の彼は、記憶があったころよりも表情がある。たぶん、五感を手放したきっかけが、ただの魔物退治だったと思い込んでいるからだろうと、そう思った。それほどまでに、シンに対峙したジョミーが悲壮な覚悟を持っていたのだと分かって、むしろ悲しくなった。
…やはり…彼は記憶をなくしているほうが幸せなのかもしれない。
『恥ずかしいことなのですが』
だが、ジョミーはそんな思いに構わず話しかけてきた。
『実は、僕はこんな身体になっているのに思念波の扱いが不得手でして』
思念波を使わなければ、聞くことも話すこともできないのに、不思議だと思うでしょうけれど。
そう言われるのに、確かに五感を手放す前のジョミーはそんなことを言っていた、と。こっそり思った、のだが。
『あなたが今思ったとおり、テレパシーに頼らざるを得なくなる前は、もっと苦手でしたよ』
そんなことを言い当てられるのに、どきっとした。いや、よくよく考えると、こちらが黙っているというのに、ジョミーは勝手に僕の頭の中をのぞいて、会話を進めていたのだ。
「に…苦手って…! 君はさっきからテレパシーを使って僕の考えを読んでいるじゃないか!」
『そうですね。でも、僕が分かるのは表層部分だけです』
笑いながら返されるのに、ぽかんとした。
『表層部分とは、「ちらりと思った」程度の脳の動きです。それなら、思念波が苦手な僕でもたいていは分かる。でも、もう少し深い部分までは…どうしても分からないときがあります』
ジョミーはそう言ったあと一息ついて、ところで、と話題を変えてきた。
『車の中での会話で分かっているように、どうやら僕の記憶からはあなたという事項が抜け落ちてしまっている。フィシスとも話したのですが…どうにも実感が湧かない。第三者から説明を受けているだけでは、それが自分のことだとはどうしても理解できない。…フィシスからは映像つきで僕たちの今までの説明をもらいましたけど』
やはり…よく分かりませんでした。
そう言われるのに、落胆は隠せなかった。表層が読めるのなら、隠しても仕方のない話だとも思ったし。
でも。
…フィシスの送ってきた映像って…どんなものだったんだろう?
『それで、あなたの記憶を見せてもらえれば、何か思い出すかもしれないと思いまして』
と、突然話が元に戻って、ブルーは顔を上げた。
『ただし、先に言ったように僕は思念波の扱いに長けているわけではない。その上、あなたの深層部分は、鍵でもかかっているかのようにどうしても入り込めない。…深層部分ははっきり分からないまでも、ぼんやりと分かるというパターンは多いのですが』
…鍵…?
『ですから、あなたから僕を受け入れてもらえれば、記憶を見せてもらうことも可能かと思いまして。でも、強要はしません。夫婦であっても立ち入るべきではない部分はあるでしょうから』
深層部分に鍵がかかっている、という表現はよく分からなかったものの、思念波の扱いが苦手だと言っていたジョミーのこと、心の奥底へ入りこむのは難しいのであろうということは理解できた。
分かった、とうなずこうとしたのだが。
『僕が無理強いしないといったのには、理由があります。あなたの同意を得て僕があなたの記憶を辿ることができれば…あくまで辿ることができればという仮定の上でですが…僕はなくした記憶を取り戻せるかもしれない。けれど、あなたは僕にすべてをさらすことになるかもしれません』
「…すべて?」
『あなたの心の深奥部は入りこむ余地がないくらい強固なものです。僕の知る限り、誰よりも強いガードがかかっている。ガードをかけているのは、あなたの生来からの性質によるものなのなのか、それとも…誰にも知られたくないという思いがあるからなのか、それは分かりません』
ガードを…かけている?
そんなつもりは一切なかった。それに、ジョミーは今までそんなこと一言だって言わなかったから、自分の心理状態をそんな風に考えたことなど、なかった。
『あなたには、僕と関わった記憶を見せてもらうだけ。僕にとってはそれだけなのですが、心の底は混沌としていて、望む情報だけを得て終わり、というわけにはいかないと思います。…何度も言いますが、思念波の扱いは不得手なので、どうしても目指す情報に行き着くまでに時間がかかる。その間に…あなたが知られたくない、隠したいと思っている情報に行き着かないとは…限らない』
「隠したいものなど…」
ない、といいかけて。
ふと、ジョミーに会う前の自分を知られたら、と考えてぞっとした。
僕がどんな環境にいたのか、ジョミーだとて言葉では分かっている、でも。実際にその体験をした記憶を見られたら…彼はどう思う? どんな風に責められたか、どこをどうされたのか…。言葉だけでは分からない部分まで…分かってしまう…?
その思いが分かっているのかいないのか、ジョミーはふっと表情を緩めた。
『もちろん、僕があなたの心の壁に弾かれることだってありうる。ただ、一度あなたの中に僕の精神が入り込んでしまえば、こうして向かいに座っているよりは、はるかに読みやすくなることは事実です。だから、決して無理にとは言いません。それはあなたのプライバシー…』
「構わない」
ジョミーは話を途中で遮られて、黙り込んだ。
そうだ。いまさら隠してどうなる? ジョミーの記憶を戻すほうが僕の過去よりもよほど大切なのだから。
「それで、どうすればいい?」
どうすれば、君の精神を僕の中に導ける?
それに対してしばらく黙っていたジョミーだったが、ふっと息を吐いてから左手を差し伸べた。
『では、手を』
「手…?」
『指を絡めて、心を委ねて』
言いながら、ジョミーはブルーに微笑みかけた。
…こんな穏やかなジョミーの表情を見るのは、何日ぶりだろう。いや、もしかすると、一月くらいは経っているのか? ジョミーは五感をなくしてからというもの、ほとんど無表情で過ごしていたのだから。
なんとなく夢見心地でジョミーの手に自分のそれを重ねようとして…はっと我に返った。
…僕の…記憶…。
どきん、と胸が鳴った。
僕は、ジョミーと会う前のことはあまりよく覚えていない。何があったかは覚えているけれど、細かい部分を忘れてしまっている。けれど。
…自分では、あまり覚えていないと思っている記憶も、実際には委細漏らすことなくきちんと脳に蓄積されているらしい。忘却は人間の能力のひとつだという。思い出さないようにして心を守るための…。
『気を楽にして』
君は…すべてを知っても、僕を嫌わないでいてくれる…? どんなに生々しく、おぞましい記録を見ても? 僕自身が忘れたいとさえ望む記憶を見ても…?
不安が膨れ上がり、手と手が触れ合いそうになった、そのときだった。
「…やっ!」
『…!!』
パンっと乾いた音がした。瞬間的に、ブルーの手がジョミーの手を払ってしまったらしい。静かな室内に響いた意外なほど大きな音にびっくりして、ブルーはもとより、ジョミーも凍りついたように動けなくなった。
気まずい空気の中、部屋に備え付けられたからくり時計が真夜中の12時を知らせる。
「あ…」
君を…拒否するつもりじゃなかった。でも、どうしても…怖くて…。
ジョミーはといえば、黙ってブルーを見下ろしていた。呆然としているように見える。その払われた手の甲に赤い筋ができているのが見えた。今日の戦いのあとではない、新しい傷。どうやら、さっき手を払ったときに、爪で引っかいてしまったらしい。
「ジョミー、血が…」
『え? ああ』
そう言われて初めて気がついたらしい。その部分を見て今度はくすっと笑う。
『もともと傷だらけですから、たいしたことはありません。それよりも、焦ってしまってあなたに無理強いをしてしまったようです。すみません』
「え…」
『あなたとのことを思い出せないのがもどかしくて、つい無茶なお願いをしてしまいましたが…。まだ方法はあるでしょうし、自然に思い出すかもしれませんから』
そう言われるのに…ひどく罪悪感を覚えた。けれど、ジョミーはすぐに首を振った。
『あなたは自分を責める必要なんてありません。じゃ、お休みなさい』
「え…ジョミー、どこへ…?」
だが。謝罪とともに、さっさと部屋を出ようとするジョミーの姿に慌ててしまう。
やっと帰ってきてくれたというのに、君はいったいどこへ…。
『ああ』
戸口に向かうジョミーが、くるりと振り返った。表情は柔らかい。けれど…距離を置かれているような気になる。
『シロエがここに来るらしいので、話を聞いてきます。結婚式のときのことを語ってやる、と言われましたので、何か思い出せるかもしれないと思って。彼が着くまでに寄りたい場所もありますし。でも、あなたは僕に付き合う必要はありませんから』
ジョミーは微笑みながらそう言ったあと、少し困ったような表情を作った。
『あなたは身重なのでしょう? しっかりと休養をとってくださいね。では』
「ジョ…」
パタン、とドアが閉まる。同時に、ジョミーに向かって伸ばしかけたブルーの手も止まって。…その手が力なく下ろされた。
…ジョミーは…手を振り払われたとき、どう思っただろう。
落ち込んでいた様子はなかった。ましてや怒った様子も。ただただ優しくて…。
しかし、それが指導者としての反応だったのではないかと考えて、唖然とした。広く民を愛し、見守り導くものとしての態度だったと思い当たって…。
会ってからこれまで、自分がジョミーの特別だったと実感できることは何度もあった。それが迷惑だと思った時期もあったが、今のは完全に逆だ。ジョミーに僕の記憶がないというのは、出会ったときも同じ。では、ほかに何が前と違っているのだろうと思って…。
…ああ、あのときは、紅い目を気に入ってくれていたんだな…。
そう考えれば、合点がいった。
31へ
と、いうわけでやっぱりすれ違うふたり♪ まあ、ジョミー自身も余裕というものがほとんどないので…。(彼も必死なのであります〜vv
連続更新、大変失礼いたしました。日記は2,3日後に更新となります〜! |
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