「…シン、どうしてあなたはそこにいる…?」
『どうしてといわれても困るが。強いて言えば、君が気になったから、とでも言っておこう』
そう言われるのに、ついめまいがした。いや、気分も悪くなった気がする。でも、これは断じてつわりなどといったものではない。
『貧血ではないのか?』
「違う!」
そう怒鳴った途端…くらりと上体が傾いだのを感じた。幸い、廊下の壁に手をつき、倒れはしなかったものの…。
『…とにかく、休養を取ることだ。君は無理をしすぎている』
今度は意外なほど静かに語りかける声。それとともに、腹部からふわりとぬくもりが広がっていくのを感じる。
「シ…ン?」
『すまない。今の僕はこのくらいのことしかしてやれない』
おそらく、癒しの効果のあるサイオンなのだろう。あたたかさがゆっくりと全身に広がっていくのを感じた。
やはり…頼りないか…。
シンの力を感じながら…つい、そんなことを考えた。
ジョミーを探す力がないどころか、一人で立っていることさえできない。死んだはずの先代が出張って来ざるを得ないくらいに…。
『また考えすぎているな』
今度は呆れたような声が聞こえた。
『君がそんなことでは、ジョミーを救うなど夢のまた夢だ、と言ったはずだ。ジョミーは放っておいても大丈夫だ。すぐに見つかる』
「…見つかる?」
本当に?
『その後のジョミーを支えるのが、君の役目だ。今、ジョミーはすぐに見つかるといったが、それは君の知るジョミーではないかもしれない』
…シンの言うことが、よく分からない。ジョミーはすぐ見つかる? でも、それは…。
「僕の知る…ジョミーではないって…?」
『…ここまでが限界か…』
苦々しい思念波。けれど、シンはすぐに口調を変えて話しかけてきた。…それがひどく遠くから聞こえてくるような感じはしたものの。
『すぐに分かる。君は鷹揚に構えて、決して考えすぎないようにすることだ』
そう言ったっきり、シンの声は途絶え、腹部に感じていたぬくもりも収まった。
ブルーは壁から離れ、一人で立ってみた。今度はめまいも立ちくらみもなく、立っていることができる。
…限界と言っていたが…こんな力を使うこと自体、無理だったんじゃないだろうか。だけど…。
今度はそっと足を踏み出してみる。難なく歩くことができた。
これは、胎児に亡霊がとりついている、という状況なんだろうか。しかも、あまり質のよくない亡霊である。
…結果的に助けてもらっているのは認めるが…。
ちらりと考えて、しかし、ふと嫌な考えに行きついた。
想像もしたくないが、赤ん坊のシンを育てることにならないとも限らないのだ。どんな赤子になるか、想像もつかないことだし。
「…いい加減に出て行ってもらわなければいけない」
今夜はもう寝よう。
そう思って、部屋へ向かって歩き出した。
翌日、ブルーはキースとともに車の中にいた。目的地は、≪グランド・マザー≫の屋敷跡地である。
「すまないな、結局あなたに来てもらうことになってしまった」
「君に謝ってもらう筋合いじゃない。もともとこちらから申し出ていたことだ」
あれから二週間近く。いくらなんでも行方不明としては長すぎる。しかも、他国の指導者が失踪とあっては、北の国としてもまずい状況らしく、この際可能性のある事は何でもやってみようと思ったらしい。キースは今朝早く、ブルーの部屋にやってきて、今日の計画を説明したということである。
『ジョミーはすぐに見つかる』
シンの予告どおり、すぐに見つかるのだろうか…。でも、気になるのはそのあとの台詞だ。
『それは君の知るジョミーではないかもしれない』
僕の知るジョミーじゃないって…どういうことだろう。
そうこうしているうちに、見覚えのあるみすぼらしい村に着いた。避難勧告にも耳を貸さず、居座っている住人がいるらしいが、相変わらず人の気配がない。
「さて。すっかり景色は変わっているが、あの丘の上が件の屋敷跡だ」
そう言われて正面を見る。まるですり鉢状に抉られた地面は、さながらクレーターのようだ。
…いる…。
車が止まった途端、ブルーはキースの許可も得ずにドアを開けた。
ジョミーの気配が、する。あの抉られた中心部に…。
そのとき、クレーターの真ん中に黒い何かが見えた。それが何か確認する暇もなく、その黒い球体がぶわっと膨張し、中から大きな蛇が勢いよく飛び出してきた。
「危ない…!」
ブルーを狙っていただろう大蛇は、キースの剣によって頭から尻尾まで真っ二つにされて地面に転がり…そして黒い煙を上げて消えた。
「とにかく、あなたは車に戻れ。マツカ、ついていてやれ」
「はっ」
ふと見ると、キースの額に何かの紋章が刻まれている。その中央にあるのは、黒い水晶だ。
…ジョミーが言っていたのは、これか。
初めて北の国に来たときに、ジョミーはブルーに指導者の証の話をした。ジョミーにおける翼、キースにおける額の黒い水晶。それが指導者としての証明なのだ、と。
…こんな場面で見ることになるとは…。
「セルジュ、右だ! 他のものは左、私は中央から行く!」
「はいっ」
黒い球体からは何匹もの魔物が飛び出してきている。巨大な蜂のようなもの、猿のようなもの。ひとつひとつはあまり強くなさそうだが、いかんせん数が多い。
「…っ、一気に片をつける…! 全員いったん下がれ」
みなが持つ銃器ではらちが明かないと見たのだろう。キースは自分の持つ剣をゆっくりと構えた。どういった理屈なのかよく分からなかったが…この場所からも剣が脈打つのを感じた。
彼の持つ剣は、生きているのだろうか。
場違いにもそんなことを考えた。
だが、そのとき。
轟音が響いて、黒い球体の中から一筋の光が空に向かって伸びて行くのが見えた。それはまごうことなき南の指導者の持つサイオンの波動だった。
ジョミー…!
黒い球体は爆発し、中にいただろう魔物たちはすべて光に吸収されるように消えた。そして、球体のあった場所には翼を広げたジョミーが立っていた。
神々しい、天使の降臨のような光景に、ブルーは最初に出会ったときのことを思い出していた。
ああ、あのときのジョミーもこんな風に神々しく見えていた…。
だが、魔物のただなかにいたらしい彼は満身創痍で、結局立っていられずに倒れ伏した。
「ジョミー、大丈夫か!?」
慌ててキースが大きなすり鉢状の穴の底に降りて行く。近くで見れば、裂傷や擦過傷などは多いが、大きなけがはなさそうで、キースはほっと息をついた。
『キースか…』
親友の姿に安心したのか、ジョミーの顔にわずかな安堵が見えた。
「無理するな」
ジョミーはキースの助けを借りて起き上がると、ガラス玉のような目を向けた。
『…面倒をかけてしまったようだな』
「気にするな、慣れている」
そう言うと、ジョミーはわずかに笑ったらしい。それに微笑み返すと、キースはジョミーに肩を貸して立ち上がった。
「それよりも、早く無事な姿を見せてやれ。お前がいなくなって愛妻がどれだけ心配したか」
『…愛妻?』
「ああ。とにかく、はた迷惑なくらいの心配ぶりだったぞ」
そんな軽口をたたきながら、キースはジョミーとともにブルーの前までやってきた。
…ジョミー…。
無事な姿にほっとしていたブルーだったが…そのジョミーの様子に、何か違和感を覚えた。表情をなくしているのはいつものこと、でも。
『キース…』
しばらくブルーを眺めていたジョミーだったが、すぐに隣のキースに注意を移した。
「何だ?」
『僕はまだ結婚していない。愛妻とは…誰のことだ?』
その言葉に。
全員が言葉を失って黙り込んだ。ブルーも例外ではなかった。
「…本当に…覚えてないのか?」
やがてキースが眉に縦じわを寄せて、ジョミーを見つめて問いかけた。
『何を?』
その言葉に、キースは二の句がつなげず、また黙らざるを得なかった。
どういう…ことだ? 目の前にいるのはジョミー本人に違いないのに、でも。
…ジョミーの中には、僕は存在していない…?
「…とにかく、いったん北の指導者の館に戻ろう。頭でも打って混乱しているのかもしれないしな」
そう言われるのには、ジョミーは反論せず『分かった』とだけ言った。
しかし、北の指導者の館へ戻る道すがら、ブルーとジョミーはキースとともに同じ車に同乗していたが、その会話からは記憶の錯綜というものがほとんど見られなかった。ブルーという要素が完全に除かれているほかは、正常そのものだ。自分が南の指導者であるという自覚もあるし、ジョミーが認識している対人関係も、妻の存在を除けばそのままだ。
「南の国の≪グランド・マザー≫の屋敷が崩壊したときのことは覚えているか?」
キースは救急箱の薬を出しながら、ジョミーを伺った。傷の手当をしようとしているらしい。ジョミーはと言うと、無表情ではあったが、『なぜそんなことを?』と返してきた。
「いいから答えろ」
苛立ったようにそういうと、ジョミーは逆らう様子は見せず、神妙に答えてきた。
『もちろん覚えている。ひどい惨状だった』
「その生き残りのことは?」
『生き残りはいなかった。…僕たちが着いたのが遅すぎたせいもあったが…』
本当に自分を責めているらしいジョミーの沈痛な面持ちに、キースは思案顔でそれなら…と続けた。
「お前が光や音を失ったのはなぜか分かるか?」
『魔物との戦いのためだ。どうしても力が足りず、更なる力を得るために五感を手放した』
先の質問の生き残りとはブルーのことであり、次の質問の原因は、先代の指導者であるシンからブルーを取り戻すため、だったはずだ。
「…完全に記憶が塗り替えられているな」
憎々しげに吐きすてて、キースはジョミーの腕を取った。
「…お前ならすぐに治りそうだが、手当てはしておく」
『すまない』
言いながら、今度はブルーに向き合った。
『あなたが僕の妻…なんですよね?』
その他人行儀な響きに…何も返せなかった。表情がないから余計にだ。
『忘れてしまっていて、すみません』
ジョミー…。
頭を下げるジョミーに、ブルーは声をかけることができなかった。
そんな台詞が欲しいんじゃない。欲しいのは…欲しかったのは…。
30へ
とゆーわけで記憶喪失。自分だけ忘れられちゃってる記憶喪失ってどんな感じ〜??
「胸焼けするくらいいちゃいちゃしてたくせに忘れてるだとぉ!?」「それって無茶苦茶無責任!」と思いますよね! |
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