この村に入って数十分経ったが、人っ子一人見かけない。村人はいるはずなのに、と思ったが、キースはいつもこうなのだ、と苦笑いして言った。だから、その村人から話を聞いたというスウェナ・ダールトンはたいしたものだ、とも。
そして。
崩れかけた土壁に、ほこりまみれのすすけた室内。それでも、かつて禁断の実験が行われたという館は、崖の上に立っていた。
「…こいつはいつ崩れてもおかしくない」
キースは玄関の前に立って、ため息交じりにつぶやいた。そのくらい、ひどい惨状だった。加えてガラスは割れ、焼け焦げた家具の類は散乱していて足の踏み場もないくらいである。
「ここが、≪グランド・マザー≫の生家らしいな。こんな状態になってまだ残っているなんて、奇跡に近いが」
言いながらキースは一歩家の中に踏み出した。玄関はすでにドアが外れてしまっている状態だ。その足元で、ガラスの砕ける音がする。
嫌な、気配…。
この館が近づくにつれ、強く感じてきた、それ。ちりちりとした焦燥感が、身体を這ってくるような感覚。その気配は、≪グランド・マザー≫に似ているが、それとは明らかに違う。
それでも、先に進まなければ…。そう思って足を踏み出そうとしたとき。
『ブルー』
「え…?」
声をかけられて振り返ったと同時に、ひょいと抱き上げられる。
「ジョミー、一体何を…!」
『危ないから僕が抱いていきます。あなたは、ただでさえ歩くのが苦手なんですから、転んでけがでもしたら、大変だ』
「そ…そんなに間抜けじゃない…!」
『間抜けとは思ってません。歩くのが苦手だ、と言っただけです』
表情が乏しいので仕方のないことだが…妙にまじめな顔つきでそんなことを言われると、ついかっとしてしまう。
「同じことだ!」
『違います』
「違わない!」
そんなやり取りを、キースは呆れたように見やった。
「…まったく…。少しの間くらい大人しくできないのか。何度も何度も同じようなのろけばかり聞かされるこっちの身にもなれ」
「のろけじゃない!」
そうは言い返したが…確かにのろけには違いないだろう。
「閣下、2階へあがる階段は完全に外れています」
「2階はいい。それよりも地下室だ、地下に降りる階段を探せ」
「はい」
キースと側近であるマツカは、そう言って別れて館の中を探し出した。この館は、地下貯蔵庫の爆発によって焼け落ちた。今残っているのは、金属製の骨格部分や土塀くらいのもの。その爆発は、表向きは地下にある燃料タンクの引火事故と言うことになっているが、スウェナに寄れば、怪しげな実験による結果ではないかと。
…そっちじゃ…ない。
ブルーはジョミーに抱かれながら、ある一点を見つめていた。そこから、冷たい風が吹き付けてくるようだ。いや、実際には風など吹いてはいないのだが。
でも…地下室の入り口は、多分…。
『…この壁の向こう、ですか?』
突然、ジョミーの思念波が響いた。慌てて顔を上げると、ジョミーは今さっきまで自分が見つめていた土壁に盲いた瞳を向けていた。
「…ジョミー…」
『確かに、何かありそうだ』
ジョミーはブルーの身体をそっと下ろすと、自分はゆっくりと壁に近づいて、すっと手をかざした。ぼんやりと青白い光があたりを照らし出したそのとき。
どくん、とこめかみが脈打った。同時に、肌があわ立つのを感じ、ブルーは自分の身体をかき抱いた。
『? 何か、聞こえる…?』
何かの気配を感じたのか、ジョミーは様子を見るべくサイオンの放出を止めた。でも、それ以上は分からないらしい。
ジョミーには…分からないのか…? この禍々しい気配に、立ち上る腐敗臭が…。地下でうごめく、おぞましい存在が…。
何かがいると感じてはいるようだが、はっきりとその気配を掴むことができないようだ。
…いくらジョミーが人の思いに鈍感だとはいえ、魔物の気配には人一倍敏感なはずなのに。それなのに、なぜ…。
「ジョミー…」
歩み寄って注意を促そうとして。突然足が動かなくなった。下を見ると、白い触手のようなものが這い出してきて、足に絡みついているのが分かった。あまりの出来事におぞましさを感じながらも愕然とする。
『ブルー…!』
振り返ったジョミーの顔が驚きの表情を浮かべたが、すぐに表情を引き締める。同時に青白い光がジョミーの身体が覆った。目に見えない力が、足元に絡んでいるものを払い落とす。
『ブルー、早く家の外へ…!』
ジョミーの切羽詰った思念波が頭に響いたが、それどころではなかった。燐光を放つジョミーの身体を、さっきと同じ触手のようなものが取り巻いている様子に、慌てた。
「ジョミー! 君こそ早く!!」
『僕のことはいい…! あなたが…』
「無事か、ジョミー!」
そのとき、この騒ぎに気がついたらしいキースが駆けつけてきた。そして、ジョミーの様子に一瞬眉をひそめる。床から這い出てきているものに、戸惑っている様子だ。
『キース、ブルーを連れて逃げろ…!』
自らは正体不明の触手のようなものに絡みつかれながらも、どうやら防壁を張っているらしい。こちらへ向かってこようとする触手が、何かに阻まれるように力を失い、消えていく。
「…分かった!」
キースはそうつぶやくと、ブルーの細い身体をひょいと抱き上げ、方向を変えた。
「なっ、何を…!」
「あなたがあの場にいても、何もできまい!」
そういうと、散らかった家具を長い脚でまたいで、振り返りもせずに出口を目指した。
「マツカ、手近な出口から外に出ろ!」
そういうと同時に、館の地下部分からドォンと何かが爆発したかのような音が響き渡った。館の残った柱や壁が壊れそうな音を立てて揺れる。キースはそのまま全速力で走ると、寸でのところで家の外に飛び出した。
ジョミーは!?
必死に首をめぐらせて見たその光景に、ブルーは驚愕のあまり目を見開いた。
すっかりガラスの外れた窓から見える、ジョミーの姿。それに絡みついている、白い蔓のようなものが、完全にジョミーの身体を覆い隠したと思った途端、それは彼の身体ごとふっと消えた。そして、地をえぐるような轟音が鳴り響いたと時を同じくして。
…≪グランド・マザー≫の生家が…消えた。しかも、あったはずの地下室の深さまで地面はえぐれてしまい、建物どころかジョミーの姿もない。あまりの出来事に…何もなくなった場所を見つめた。
「…ジョミー?」
どこかで倒れていないかと、キースの腕から慌てて降りてあたりを見渡してみたものの…ジョミーの姿は見えない。数歩歩いて、すぐに途方に暮れて立ち止まってしまう。
まさか…。
ジョミーが消えてしまう寸前。自分を襲おうとしていたあの白い触手のようなものにからめとられたジョミーの身体が脳裏に浮かぶ。
まさか…このまま…。
「…!?」
そのとき、下腹部に鋭い痛みが走った。立っていられないほどの激痛に、その場でうずくまる。
一体、なん…だろう…。
「これは…」
いつの間にか、キースがそばに来ていたらしい。耳元で舌打ちが聞こえた。
「マツカ、車を回せ…! それから、ここから一番近い医者を探せ。産婦人科医だ」
「はいっ!」
産婦人科…? それは女性がかかるものじゃないかと思いかけて。
ああ、これは流産の兆しなのか、と他人事のように思った。というよりも、痛みで他に気を回せないということもあるのだが、つい変なことを考えてしまうようだ。
…せっかくジョミーが認めてくれたのに…と。
そう思ったのを最後に、ブルーは意識を飛ばした。
次に目が覚めたのは、見たことのある部屋だった。
「目が覚めたか」
その声に枕元を見ると、北の指導者が椅子に座ってこちらを見下ろしていた。
「…僕…は…」
「流産は免れた。しばらくは安静が必要だが、数日様子を見て問題ないようならば、動いても大丈夫だそうだ」
ほっとすると同時に、何か忘れているような気がすると思いかけて。はっとして起き上がろうとした。しかし、予測できていたのだろう、キースはブルーの肩を押さえ、動きを止めた。
「ジョミーは!?」
「安静が必要だと言っただろう」
「そんなことを言ってる場合じゃない…! ジョミーは…!」
「行方不明だ」
この場にジョミーがいないことで予想はできていたが…その言葉には愕然としてキースを見つめた。
「あのダイナミックな力の使い方は、まさにジョミーのものだろう。奴はあの館と自分とをどこかに転送したのだろうな」
まったく、相変わらずやることが派手だ、とつぶやく。
「しかし、あの家には魔物が…!」
「魔物はいなかった。だから、奴の身辺にはさしたる危険はないだろう」
そう、はっきりと断言されるのにはむっとした。じゃあ、自分の見たものは一体何だったのだ?
「僕は、ジョミーにまとわりつく魔物の姿を見た。危険がないなどと言えるはずがない…!」
だが、キースはちらりとこちらを見てから窓の外へ視線を向けた。いつの間にか雪が降り出し、しんしんと窓枠に積もっている。
「この額には、北の指導者の証がある。ジョミーにおける翼のようなものだ」
額に…?
そう言われて彼の顔を見るが、そんなものはまったく見えない。
「…ジョミーのサイオンとは違うが…指導者としての力を発揮するとき。そして、魔物を感じたときに浮き出てくる証だ。だが、あの館の中を歩いていたときには、まったく反応しなかった。ジョミーもそうだったのだろう、奴は魔物には誰よりも敏感だ。そばにそんな気配を感じれば、すぐに分かったはず」
言われてみれば、ジョミーはあの白い触手には何の関心も払っていなかった。目視できて、初めて気がついたようだった。
「つまり、あれは魔物ではなかった、と言うことになる」
「そんな馬鹿な…!」
そんなはずはない、あれが魔物でないとすると、一体なんだというのだ!?
「そんなことよりも、だ」
キースはにっと笑った。こんな場面にそぐわない、物騒な笑みだ。
「指導者は、死なない限りは次の指導者が出てくることはない。そしてジョミーは生きている。それは、あなたの国の占術師に確認してもらえればすぐに分かることだ。ならば」
キースはそこで一呼吸置いて、にやりと笑った。
「今の指導者としての職務は、あなたにあるということになる」
…一体、何を言い出すのだ…?
キースが何を言おうとしているのか、ブルーにはさっぱり分からなかった。
「あなたは、ジョミーよりもこの私に近い。一見してそうは見えないが、計算高く、腹芸も得意だ」
その言葉にはむっとする。
だったら、どうだというのだ…? 計算高いことが事実だったとしても、それとジョミーの行方不明と、どう関係するというのだ?
「ジョミーは素直な気持ちのいい男ではあったが、私にとっては扱いにくい部分がないではなかった。だが、あなたの考えていることなら、分からなくもない」
その台詞に、心の中で警報が鳴り響くのを感じた。
どういう…ことだ? この男はジョミーの親友ではなかったのか…?
だが、それだけ言うとキースは立ち上がった。
「来客があるので、これで失礼する。では、御身を大切に」
ドアの向こうに消えていくその後姿を見送りながら、ブルーは信じられないという思いにとらわれていた。
まさか…この男はジョミーが邪魔だった…のか?
26へ
うーん、ブルーとキースを絡ませようと思っているだけなのに、なぜにこうなる…? ついでにブルーの勇姿とキースの活躍も…♪ と思っているだけなのにぃ!
で、ジョミーには申しわけありませんが、も少し行方不明と言うことで…。(笑) |
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