偽りの太陽が沈む。ブルーは窓辺に立って、その様子を眺めた。
ここはシンの結界に守られた世界。現実世界に身の置き場のない今の自分には、ふさわしい場所なのかもしれない。
『…困ったものだ。現実逃避させるためにここに連れてきたつもりはないのだがな。』
背後から苦い笑いを含んだ声がした。振り返ると、予想にたがわず冷たい端正な面持ちのソルジャー・シンの姿があった。
「…邪魔になるなら、追い出せばいい。」
『誰も邪魔などとは言っていない。』
言いながら、こちらに歩み寄ってきた。
『君が望むなら、ずっとここにいてもいいと言ったはずだ。君がジョミーと暮らすことに未練はないというのなら。』
…未練も何も…。
そんなものがあったところで、僕がジョミーの傍にいられるわけもない。もし、彼がそう望んでくれたとしても、状況が許さない。
そう考えていると、後ろから両腕を回されて緩く抱かれる感覚に、ふと何かが重なった。
…ああ、そうだ。ジョミーが一度死んだとき、精神体となってこうして声をかけてくれたときに、同じように抱いてくれた。あのときは、ジョミーを取り戻そうと必死で、みっともなく取りすがってワガママを言い続けたな、と。
こんなシンの些細な仕草にジョミーのことを思い出してしまう自分に、嫌気が差した。
…いっそのこと、ジョミーを忘れてしまえれば…。
どんなにか楽だろう。そう考えると、いい思い出のひとつもないあの屋敷の暗い部屋が、妙に懐かしくなった。あのときは何も考えていなかった。いや、考えないようにしていたというのが正解だが、それでも今のように胸が痛んだり、張り裂けそうな思いに自分を持て余したりすることなどなかった。
『…なるほどな。記憶の操作というものは、個人的に好きではないのだが、どうしてもと言われれば考えなくはない。』
心を読まれたらしいが、そんなことさえどうでもいいと思えてしまう。いや、それよりも。
「…あなたには記憶の消去ができるのか?」
首を後ろに回してシンの顔を見つめた。
『あまりしたくないことのひとつだけどね。君が望むのなら考えよう。それに、君がジョミーのことを忘れたいくらいなら、そのお腹の子にも思い残すことは何もないだろう。』
突然そんな話をされて、慌てた。そういえば、ここに来たばかりのときにそういう話をされていたのだったと、今更ながらに思い出す。
「それとこれとは…。」
『そういう事実があったということも含めて忘れてしまえれば、まったく問題ないな。』
いいことを思いついたとばかりに微笑むシンの表情に、焦った。
『ジョミーのことを忘れさせるついでだ、大したことはない。』
「待って、それは…!」
抗議の意味を込めて振り返り、シンの腕を掴んだそのとき。地響きのような音が聞こえてきた。
な、何だろう…? こんな場所で地震と言うわけでもないだろうに…。
『…なるほど、そうきたか…。』
一体何が起こっているんだろうとまわりを見渡していると、シンが軽く舌打ちした。目を上げると、シンの表情には驚いたような、嬉しそうなものが見える。彼には似つかわしくない、笑みがこぼれそうな瞳がこちらに向けられた。
『愛されているな、君は。』
え…っ?
その言葉の意味を考えていると、この世界の一角が歪むのが見えた。だが、次の瞬間にはガラスが砕けるような音がして、美しい景色に大きくひびが入った。
『ブルー!!』
その声とともに、ひびが入った部分が崩れ落ちた。 声の主は、忘れたくても忘れられないほど愛おしい…。
「ジョミー…!?」
そんな馬鹿な…。ジョミーがここに来ることができるのは、10年後ではなかったのか…?
結界の壁が破れたその向こう、虚無の空間から手を伸ばしたジョミーが目に映った。その透けている姿に、今のジョミーが実体ではなく、あのときと同じ精神体のようだと分かった。それでも真剣な表情でブルーを見つめ、こちらに手を伸ばしてくる。
この結界を破るまでに10年かかると。そう先代指導者に宣言されたジョミーが、どうやってここまでやってきたのかは分からない。
…それだけ、僕のことを心配してくれたと。そう思ってもいいのだろうか…。
ジョミーの伸ばされた手に一歩近づきかけて。しかし、ブルーはその動作を止めてしまった。
「ダメ…。」
首を振って、戻らないと伝える。それでも、ジョミーは手を伸ばしたままだ。
この手を取ってしまったら…、また君に迷惑がかかる。君のためを思うなら僕は…。
ごうという音とともに、結界内に風が吹き荒れた。
「僕は、君の傍にいないほうがいい――!」
シンの腕を握る手に力が入る。
早く戻って、と。君のいるべき場所に戻って、もうここには来ないでと。そう強く念じて、シンの腕に顔を伏せた。その直前、ジョミーの真剣な表情が驚愕のそれに変わるのが目の端に映った。
『――!!』
ジョミーの声にならない絶叫が響き渡った。無理を押して結界内に入って、さらに壁のようなものに阻まれただろうジョミーの痛みが伝わってきた。
それでも…ジョミーの手を取ろうなどとは思えなかった。
…君には君のいるべき場所がある。君は僕なんかに構っていてはいけないんだから…。
顔を伏せた状態で、ぎゅっと目を閉じる。でも、君の驚いた中に落胆したような表情は、目に焼きついて離れない。ほんの少し見ないうちに大人っぽくなった顔立ちが、妙に印象に残った。
どのくらいときが過ぎたのだろう。風は止み、結界の中は静けさを取り戻した。
ふっと目を開ければ、何事もなかったかのように沈む夕日に照らされた室内が目に入ってくる。あれほどの風が吹き荒れたのに、調度品が倒れている様子も家具が傷ついている様子もない。
『…驚いたな。エネルギー原理を利用して結界を破ってくるとは思わなかった。いや、まったく考えなかったわけじゃないが…。』
まさか本当にこの方法を使うとは…と感心したようにつぶやいてから、こちらに目を向けてきた。
『君は、あれでよかったのか。あのとき君がジョミーに手を伸ばせば、現実世界に帰ることができたはずだぞ。』
しかし、それには首を振るだけだった。
「僕はジョミーの傍にいないほうがいいから…。」
『…そうか。』
伸ばされた手に、必至の形相。おそらく僕を迎えに来てくれたのだろうに、その手を取るどころかジョミーを追い返したような形になってしまったことに、ひどく動揺した。
『君にはよく分からなかっただろうが、ジョミーが使ったのは僕が使う精霊魔法とは対極にある方術だ。おそらく、君が僕にさらわれたと知って、フィシスから最も僕の結界に効果のある方術を聞きだしたんだろうな、半ば脅して。』
くす、と笑うシンが珍しくて、目を瞠ってしまう。いや、それよりも…。
「脅し…?」
フィシスを脅して…とは一体どういうことだろう?
『…そうでなければ、あんな危険なものの存在など知るまい。ましてやそれを扱おうなどと。』
「危険…?」
その言葉に、胸騒ぎがした。指導者が扱う方術で危険なものとは一体何だろう?
『ジョミーが使ったのは、僕が力の源としている精霊を殺すことのできる方術だ。今回ジョミーはそこまで強いものを使ったわけではないが…。何を代償として差し出したのやら。』
「…代償…!?」
その言葉には驚いた。代償…が要るような方術、だったのか…?
『そこまでして僕の結界を破ってみれば、君は僕に、というか自分の夫以外のものにすがって戻らないとばかりに拒絶するし。』
今回ばかりはジョミーに同情するな、と楽しそうに微笑んだ。
…とりすがって? しかも夫以外って…?
「そんなことはしていない…!」
だから、真剣に抗議したのだが。
『では、今の状況をどう思う?』
そういわれて、シンの腕を掴んだままだったことに気がつき、慌てて手を離してシンから離れた。ジョミーと相対している間中、ずっとこの格好でいたことに、今更ながら慌てた。
…まさか、ジョミーに誤解されたんじゃ…。
まぶたに浮かぶ、ジョミーの驚いた中に垣間見えた傷ついたような表情…。シンの腕をしっかり握った格好でジョミーを拒絶した、ということがひどく気になった。
いや、違う…! シンと僕とは何もない。キスはされたが、それは単にシンにからかわれただけで…。今だって別に会話の中で何となくシンに触れたのであって、別に他意があるわけじゃない。そもそも自分からシンに触れたのは今が初めてで…!
『さっきから、何をごちゃごちゃ考えている…?』
その声にはたと気がつくと、シンがこちらを見ていた。面白がるような色が浮かんでいるのは気のせいではないだろう。
『君はもうジョミーのことは忘れたいほど嫌いなんだろう。君と僕がデキていると見えたのなら、ジョミーだってもう諦めるかもしれないな。そうなれば、願ったりかなったりだ。』
「だ、誰も嫌いだなんて…!」
『ほう?』
「僕はただ…ジョミーの傍にはいられないと思っただけで…。」
『ならば、君の心残りを断ち切るためにも、僕と既成事実でも作るとするか。』
「な…。」
なんで? どうしてそういう話になる…?
『心配しなくても、僕が上手いのはキスだけじゃない。』
「誰も聞いてない…!」
『ジョミーと比べてくれても構わないぞ…?』
この人は人の話を訊いてない…!
心底楽しそうに言うシンから離れようと、じりじりと後退する。話が妙な方向にねじ曲がってきて、困惑してしまう。
『まあ、それも焦ることはないか。どうせジョミーは君に振られたんだしな。』
「…振って…ない。」
『君にその気がなくても、そう見えただろうな。だが。』
シンは面白そうな中に、ふと残酷な色を覗かせた。
『ジョミーが素直に負けを認めて諦めてくれればいいが、僕から君を取り返そうと躍起になった場合には、なおのこと厄介だ。今度はもっと強い方術を使ってくるだろうし、今のような精神体では太刀打ちできないと実体を伴って現れるかもしれないしな。それに見合う代償は…想像するだけでも恐ろしい。』
本当に恐ろしいと思っているのか、楽しそうに『自分の妻を寝取られたと思えば嫉妬に狂ってもおかしくはない』とつぶやいている。
「…僕にそんな価値はない…!」
代償、ということは何かを犠牲にするということだ。そんなことをジョミーにさせるわけにはいかない…!
『それは君が決めることじゃない。』
面白がるような表情はそのままに、シンはこちらに視線を向けてきた。だが、その目はすでに笑っていなかった。
『では、次は完全に諦めさせる方法でも考えておきたまえ。下手に期待を持たせてはかわいそうだからな。』
…シンのその言葉に…ひどく自分の心が揺れるのを感じた。
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意地悪シン様でした〜♪ しかしいつも誤解ばかりしている人が、誤解された(と思い込む)なんて何となく面白いですね〜。でも、連続更新、すんませんです…。 |
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