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    目の前に広がるモノトーンの色彩。これこそが、ここが現実世界でないと感じさせてくれるものだ。ブルーは灰色の草むらに座ってまわりを見渡す。
 シンの結界は不思議な空間で、館の外に出ることができるし、木々や花に触れることもできる。ただ…、それに生き物の息吹を感じることはできないけれど…。
 『自然に触れたいのか?』
 ふと気がつくと、傍らにこの世界にいるもう一人の気配があった。
 「…別に…。」
 『隠さなくてもいい。この世界は僕の意のままになるんだから。』
 そう言ってからシンは表情も変えずに手を振ると、この偽りの世界が突然色鮮やかなものに変わった。
 木々は緑を取り戻し、鳥のさえずりが聞こえ、花は鮮やかに咲き乱れ、蝶が戯れるように飛ぶ。遠くでは湖の魚が跳ねる音さえ聞こえてくる。
 …でも…ここには彼がいない。
 この世界がどんなに鮮やかな美しいものに変わろうと、ここにはジョミーがいない。その事実だけで、さっきのモノトーンの景色とまったく変わらない印象を受ける。
 『まだ不満そうだな。』
 その言葉の意味とは反対に、シンに咎めるような響きはない。どちらかと言うと、ブルーの反応を予測し、それが予想通りだっただけといった感じだ。
 『退屈だろう、少し話でもしようか。』
 そういいながら、シンはブルーの隣に座った。
 『もし君が、ジョミーを待っているのなら。』
 その抑揚のない言葉にどきっとして肩が揺れた。今まさに、ジョミーは今頃何をしているのだろうか、と考えていたのだ。
 『それは無駄なことだといっておこう。ジョミーがひとりで僕の結界を破ることができるようになるまで、10年の歳月は必要だ。それも最短でだ。』
 …10年…。
 それだけの月日があれば、人の考え方など変わってしまうだろう。ゆえに、そこに至るまで、ジョミーが自分のことを覚えている可能性は薄い。いや。
 再婚…するだろうな。
 ブルーの脳裏に、スウェナの強気な微笑みが浮かぶ。
 それがジョミーのためだ。そう思いながらも、ジョミーが自分から離れていくということが…悲しい。
 でも…それは僕の感傷だ。僕だけの、偏った思いに過ぎない。
 そんな風に考えていたら、不意にシンの指が頤に触れてきて、そのまま上を向かせられる。シンの冷たい端正な顔立ちがそこにあった。
 『なぜ、ジョミーに会いたいなら会いたいと言わない…?』
 しかし、その言い草には腹が立った。
 「あなたが今言ったんだろう。ジョミーはこの結界を破ることができないと。」
 『では、ジョミーのところへ返せとは言わないのか?』
 …戻らないほうがいい。
 動揺しているだろう表情を見られているのが嫌で、シンの手を払って下を向いた。
 ジョミーにとってはそのほうがいいだろうし、僕も…ジョミーに関わるのは疲れた。彼の重荷になっていないだろうか、いつ彼に見捨てられることになるのだろうかと、神経をすり減らしてばかりいたような気がする。
 彼の傍にいたいという気持ちは変わらない。だけど、それはただの僕の希望に過ぎない。僕がそばにいることによって、彼の邪魔になるくらいなら、そばにいられなくてもいい。ずっと離れていても…彼が生きていると感じられれば、それでいい…。
 そう思っていたら、今度は肩を掴まれて身体ごとシンに引き寄せられた。
 「な…っ。」
 『ならば、僕が君をもらっても構わないな。』
 わずかに苦く告げられたその台詞に、目が丸くなる。
 「何を考えて…!」
 『何を? 君のことに決まっている。』
 「ま…っ、ん!」
 突然シンに口付けられて、ブルーは慌ててその腕から逃れようともがいた。しかし。今度ばかりはシンの腕は簡単に外れなかった。
 「んん…っ、ふ…。」
 舌を差し込まれ、荒々しく口内を犯されるのに、息がつけなくなる。外そうと躍起になっていた腕からも力が抜けた。自分は、誰にでもこんな反応を返してしまうのかと、呆れると同時に悲しくなった。
 やっぱり…僕は君にはふさわしくない。過去は気にしないと君は言ってくれたけれど、僕は誰にでも同じように腰を振るのだろう。触れ合った唇を、離すどころか、そこから感じる熱を振り払うことすらできない。
 …これでは…君に嫌われても仕方ない…。
 忙しなく熱い息をつく、火照っているだろう顔。完全に力の抜けた身体。こんな反応は君にだけじゃない…。
 ブルーはシンの力強い腕の中で、自己嫌悪に陥って目を閉じた。
 …好きなようにすればいい。どうせ…抵抗はできない。
 『…やれやれ。僕ともあろうものが、本気になりかけたな。』
 そのとき聞こえた苦い声に、ふっと目を開けた。シンの、苦笑いを浮かべた端整な目鼻立ちを呆然と見つめるよりほかがない。
 いつの間にか、口付けは終わりを告げていた。それすら分からないほど、前後不覚になっていたのだ。
 『すまない、君の匂いが心地よかったものだから、つい度を越えてしまったらしい。』
 悪かった、と。そういわれるのに、どうやらからかわれただけらしいとは分かったが。
 …でも、だからどうだというのだろう? シンがこのままことに及んでも、僕はおそらく拒むことはしなかったと思う。それが証拠に、今も身体に力が入らない。
 『ジョミーはさぞかし大慌てだろう。』
 こんな君を僕に盗られて。
 含みのある笑いを浮かべ、シンは未だに力が抜けたままのブルーを抱いて空を仰ぐ。陽光がシンの金の髪に反射して、まるでジョミーと一緒にいるかのような感覚に陥る。
 「…それはない。」
 いい厄介払いができたと。そう思われていても不思議ではない。ジョミーはそんなことは言わなかったが、僕がいなくなれば、すべては丸く収まったのだから。
 『なぜそう思う?』
 「…なぜって…。」
 それしかないじゃないか。
 「…僕の存在は、ジョミーの邪魔になる。僕さえいなければ、ジョミーは悪く言われるようなことはない。」
 それを聞くと、シンは面白そうに目を細めて。
 『…困った後継者だ。』
 そうつぶやきながら、詰めが甘いな、と楽しそうに口元を歪めるシンを、不思議な気分で見守った。冷徹だと、そう思っていたシンはジョミーのことになると嬉しそうな表情をする。
 『まっすぐで筋はいいが、まだ若いせいかいまひとつ素材を生かしきれていない感がある。だから、今回のことはいい勉強になったはずだ。このあとジョミーがどう出てくるか、楽しみだな。』
 シンとジョミーは師と弟子といった関係なのだろう。
 それはそれでいいのだが…どう出るか、とは何だろう? ジョミーがここに来ることができるのは10年後だろう。それだけの時間があれば、年端のいかぬ幼子でも大人の仲間入りをするような時期になる。それとも、今や身体を持たないシンにとっては、10年の歳月などたいした期間ではないと思っているのだろうか。いや、それよりも。
 「…ジョミーはここには来ない。」
 10年かけて、シンの結界を破ることができるようになったとしても、そのころになればジョミーには新しい妻も子どももいて、幸せな家庭を築いていることだろう。
 僕を気にかける余地など、まず、ない。
 『10年、とは言ったが。』
 シンは目を細めて空を見つめている。その先に、己が後継者の姿があるのは想像に難くない。
 『それはジョミーが一人で僕の結界を破ることができるようになるための時間だ。』
 …つまり、誰かの助けを借りるなら、それだけの期間は必要ない、ということか。でも…そんなことをしてもらうだけの価値は、自分にはない。
 そう考えていたら、シンは面白そうに笑う。
 『賢いかと思えば、意外に頭が悪いな、君は。それとも、君の癖なのか? 自分のことになると途端に客観性を失うのは。』
 「…意味が分からない。」
 馬鹿にされたようだが、シンが何を指してそう言っているのかよく分からなかったから、むっとして相手をにらんだ。しかし、それさえシンにとっては面白かったらしい。
 『どうやら癖のようだな。これは、ジョミーに同情の余地があるのか。』
 言いながら、一人で笑っている。
 さすがに腹が立って、シンの腕を振り払って立ち上がる。そんなことを言われながら、みっともない格好でシンにしなだれかかっているのは嫌だった。
 「わけの分からないことをいって人を馬鹿にするのもいい加減に…!」
 『馬鹿になどしていない。』
 シンの腕からは離れたのだが、彼の視線の鋭さに身体が動けなくなった。
 『君が、手を貸してやればいいだろう。』
 その言葉に、ブルーは怪訝そうに目を眇めた。
 『ジョミー一人の力では、僕の結界を破ることは不可能。ならば、君がジョミーを呼べばいい。』
 真剣な表情でそう告げられるのに、しばらくシンの顔をじっと見つめていたが、やがて目を逸らした。
 「…ジョミーは僕のことなどもう気にしない。」
 『では、君は?』
 シンの問いに答えに詰まり、沈黙してしまう。
 『ジョミーがどう思っているかよりも、君がどう思うかだろう。君はジョミーにどうしてほしい?』
 …どうして…ほしい…? 僕が、ジョミーに?
 『君はジョミーに何を望む?』
 なぜこの人はそんなことを訊くんだろう?
 「僕…は…。」
 ジョミーには幸せな家庭を築いて、立派な指導者になってほしい。優しく強いジョミーなら、家庭の中にあっては優しくおおらかな夫、または父親として、指導者としては包容力のある頼もしい守手となって、皆を守り導くことができるだろう。
 それが、今僕が彼に望むことだ。けれど…その言葉はのどにひっかかったように言葉になって出てこない。
 『さて。子どもでも自分のほしいものは答えられるというのにな。君は自分の望みさえ素直に口にすることができないのか。』
 そう言ってから、シンは立ち上がってこちらを見つめた。
 金の髪、緑の瞳。その姿を見ていると、切なくなる…。今愛しい彼の名を呼べば、さらに悲しくなりそうで…。
 『それから、さっきのことは気にすることはない。僕のキスは上手い、といわれていたからね。』
 君が夢中になっても無理のないことだと、からかうように言われるのに。
 最初は呆気に取られ、次には例えようもないくらいの羞恥と怒りに駆られた。
 「…誰も気になどしていない…!」
 一瞬でも、この人がジョミーに似ているなんて思った自分が馬鹿だった…!!
 怒鳴った勢いそのままに、シンに背を向けて歩き出した。背後で吹き出しそうになっているらしいシンの笑いを殺す気配がしたが、無視して館に戻った。
 
 
 
 
 
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        | シン様、それではただのたらしでは…。かなり羽目を外しているご様子の先代指導者でございました…。シン様ってばホントーにブルーをさらいたかっただけかもしれません…。 |   |