『…呼べ…。』
瘴気渦巻く部屋の中。身じろぎもせず、こちらに向かってくる魔物の動きを見つめていたブルーは、はっと顔を上げた。
何か聞こえたような気がしたけれど…。
しかし、まわりには人の気配がしない。
『…我が名を呼べ。』
空耳じゃ…ない?
低く、しかしはっきりと聞こえるその声に、心当たりはない。それに。
…名前を呼べって言われても…。
この声に、心当たりはまったくない。名前など分かろうはずもないのに。
ふと気がつくと、まわりの魔物たちは何かを警戒しているかのように動きを止めてしまっていた。
『このままでは、君は自分の夫を手にかけることになる。それでもいいのか?』
「え…っ?」
…ジョミーを…、手にかける?
謎の声にとんでもないことを言われて、慌ててかぶりを振った。
そんなこと、できるわけがない。あの笑顔を前にしては、たとえ彼を心底憎んでいたとしても、その憎しみの心など萎えてしまうだろう。
『信じないのなら結構だ。魔物に身体を乗っ取られようが、傀儡にされようが、勝手にするがいい。君は指導者の妻だ、それだけで、魔物にとっては利用価値が高い。幸い。』
声が冷ややかさを帯びた。
『我が後継者は馬鹿がつくくらい人がいいから、もし君が操られていたとしても、喜んでその命を差し出すだろう。それが過去に実証済みであることは、知っているはずだな?』
身体を乗っ取る? 傀儡にされる…?
急に、どうしようという思いが強くなった。確かに、ジョミーは一度ブルーの形をした魔物相手に死にかけている。
でも…、指導者の妻と言うものが名ばかりのものとなった今は…。
「ジョミーは…、もう僕には興味を示さないから…。」
そう口に出して、さらに落ち込んだのだが。それに何か応えてくれると思った声は、今度は沈黙したままだった。
「それに…もし僕がジョミーを殺そうとしたところで、そんなこと現実にできるわけがない。」
おそらくかよわい女性よりもさらに下回っているだろう自分の体力では、ジョミーを殺すなんてことはできない。
『そう思うのなら、好きにしたまえ。』
突き放したような謎の声に、焦りは増す一方だった。
…僕が、ジョミーを、殺す…?
ざわり、と動き出した魔物の群れに無意識に一歩下がった。
現実的にはありえない。ジョミーと僕とでは、力の差がありすぎる。増してや彼はここの指導者で、サイオンという強大な力を持っている。だから、僕なんかに負けるはずが…。
確かに…、魔物だと分かってはいたのですが、あなたの姿を持つものにこのまま殺されるのもいいかと思ってしまったくらいでしたから。
不意に。かつて死にかけたときの真相を語ったときのジョミーの言葉が蘇った。
…そんなことはない、あのときと今とでは状況が違う…!
でも。
もし、ジョミーが何の抵抗もしなかったら…? たとえば寝ているときとか。無防備で、何の準備もできていないときだったら…?
そう思うと、急に恐ろしくなった。
胸から血を流し、事切れた君の姿を前にしたら…。僕は正気ではいられない。
慌ててまわりを見渡すが、やはり誰もいない。
一体、あの声は誰なんだ? 魔物に詳しいようだったけれど。
そう考えて、謎の声が言った一言が引っかかった。
…『後継者』?
話の流れから、それはジョミーのことに違いない。ジョミーのことを、『我が後継者』と呼ぶのは…。
「ソルジャー…シン…?」
そう口に出した途端。まわりの魔物が、強い風を受けたかのように吹き飛ばされた。そして、いつの間にかブルーの前には、緋色のマントがたなびいている。さらに、その背にある白い翼が目に入った。
「ジョ…!」
呼びかけようと思ったが、服装は同じでも発する気配がまったく違う。何よりも決定的に違うのは、その羽根だろう。大きな純白の白い翼は右だけしかなく、左の羽根はどういうわけか、まったく見えない。
ふと、目の前の彼がゆっくりとこちらを振り返った。
ジョミーと同じ金髪で、同じ緑の瞳であっても、受ける印象が正反対だ。冴え冴えとした美貌と、冷ややかな瞳。その彼が、口元に苦笑いのような微笑みを刻む。
『なるほど。一筋縄ではいかないな。』
自分のことを言われているのだと気がつくのに、しばらくかかった。いや、それよりも。
この人が…、ソルジャー・シン?
精霊魔法に秀で、歴代一、二を争うサイオンの持ち主といわれる、伝説の指導者。そんな人がなぜここにいるのか、そもそもこの人は死んだはずではなかったのか?
『そのとおり、僕は死んだ。もうこの世にはいない。』
心の中を読まれたことに、不快感はなく、じゃあどうして?という思いが先に立った。だが、シンはそれには応えなかった。
『さて、おしゃべりはここまでだ。来たまえ。』
すっと手を差し出されるのに、不思議な気分でシンを見上げる。その様子をどう取ったのか、シンは不敵に笑った。
『魔物にやるくらいなら、僕がもらう。どうせジョミーには愛想が尽きたんだろう?』
「な…っ、なんで…!?」
一体、どういう発想だ!? 僕がジョミーに愛想を尽かしたのではなく、反対にジョミーが僕に愛想を尽かしたのだと言っているのに…!
しかし、シンは差し出した手でそのままブルーの腕を掴むと、抵抗する暇もなくさっさと抱き上げてしまった。
「待…って!」
「ブルー!!」
そのときドアが開き、フィシスが慌てて駆け込んできて。
部屋の中に立つ人影の前にひざまずいた。
「ソルジャー・シン、彼はジョミーの妻です。どうか無体なことだけは…。」
『フィシス。』
冷たい響きに目をやると、シンの表情から笑みは完全に消えていた。
『我が後継者に伝えよ。自分の妻さえ守ることのできぬような指導者では、心もとない。ゆえに、僕が彼を預かろう。』
「な…っ。」
あまりの言い分に、ブルーは頭が沸騰しそうな気分に襲われた。
『それでも、取り返す気になったらいつでも来い。ただし、僕の結界を破ることができるのなら、な。』
それだけ言うと、シンはフィシスの返事も聞かずにふわりとマントを翻した。
「待って…!」
その動作ひとつで、二人の姿は現実世界から消えうせてしまったのだ。
フィシスはしばらくその場に座ったまま、戸惑いを隠せない様子だった。
16へ
うわー、シン様が現れた目的を書けなかったー!(短すぎだって!)すみません、次早めにあげます!! |
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