峠の大きな木の下に来たとき、ジョミーの言ったとおり眼下に今や自分の家のようになっている館が見えてきた。
ここまでは上り坂でひどく息が切れたが、あのままジョミーを放っておくわけにはいかない。休んでいる時間も惜しい。
後ろを振り返ったが、ここからはジョミーの姿は見えない。あんなに元気だったのに、毒にでも冒されたかのように急に倒れてしまうなんて。
その自分の考えにどきりとした。
毒…?
もう一度後ろを振り返ったが、やはりジョミーの様子は分からない。
…考えないでおこう、今は前に進むしかない。万が一ジョミーの倒れた原因がそれなら、なおさら急がなくてはいけない。
しかし。
下り坂は上り以上に大変なものだと理解するのに、そう長くはかからなかった。急斜面は特に、いつひざが崩れるかとひやひやした。
…少しはジョミーの言うことを聞いて、食べたほうがいいのか…。
ここまで体力のなさが災いすると、さすがに反省せざるを得ない。
でも、食べたら食べたらで、『やけに素直ですね』とか『何かあったんですか』と白々しく笑顔で聞いてくるだろうが。
ようやくあと百メートルといった距離に来たとき、館から数人の男が走り出してきて、ブルーの脇を抜けて行った。
どうしたんだろうと思っていると、自分を呼ぶ声が聞こえた。
フィシス…?
見ると、フィシスが玄関先でひどく心配そうな顔で待っているのが見えた。
「大丈夫ですか?ひどい顔色ですわ、早く館の中にお入りになって。」
「フィシス、それどころではない。ジョミーが…。」
「ジョミーなら、今彼らに迎えに行ってもらいましたわ。」
今すれ違った彼らがそうだったのかと、フィシスの言葉に力が抜けるのを感じた。
一瞬、なぜ分かったんだろうと考えたが、彼女は感が鋭いから何かを感じたのかもしれないと思った。
「あなただけでも無事でよかった…。
大丈夫ですわ、ジョミーもすぐに帰ってきますから。」
だから休んで、と言われるのに、急にめまいを感じる。
フィシスの言葉に引っかかるものを感じながらも、異空間にいた疲労感も手伝ってか意識が遠ざかるのが分かった。
『あなただけでも無事で』?
僕だけじゃないはずなのに…。
ふと目が覚めると、そこはいつも自分が使っている部屋だった。
一体、あれからどのくらいの時間が経っているのだろう?どうも正午は過ぎているようだが、ほんの数時間眠っただけという気もしない。
…ジョミーにすぐに戻ると言って来たのに…。
そうだ、ジョミーは大丈夫だろうか…?大分具合が悪そうだったけれど、この間のように、生死を心配されるようなことになっているようなことがなければいいが。
そう思ったら、居ても立ってもいられなかった。ベッドから降りると、まためまいがしたが今度は訳なく無視できた。そのままドアを開けて廊下に出る。
だが、廊下を歩きながらおかしなことに気がつく。いつもはある程度人の行き来がある館内なのに、今日はまったく人気がない。
不思議に思いながらも、指導者執務室にたどり着く。
しかし、ジョミーはいなかった。それどころか、そこは生活感のない無機質な部屋となっていた。その最たる原因はベッドだろう。寝具の類の一切が撤去されているのだ。
…どういうことだろう。怪我の状態が重くて、別室で寝ているのだろうか…。
誰かに聞きたいと思っても、誰もいない。執務室を出たが、やはり誰もおらず、途方に暮れる。
しばらく歩いていても、誰にも会うことがなく、ジョミーの状態どころか、この館が今どうなっているのかさえ分からない。2階にあるフィシスの部屋へ向かおうと思ったとき、外から聞きなれない音が聞こえてきた。
…鐘の音…?
そんなものは今まで聞いたことがない。一体どこから聞こえてくるのだろうと廊下から窓の外を見たとき、はるか向こうに小さい礼拝堂らしきものがあることに気がついた。今まで鐘が鳴ったこともないから、そんなものがあるなんて気がつきもしなかった。
もしかしたら、あそこになら人がいるかもしれないと。そう考えて礼拝堂へ向かうことにした。
礼拝堂の付近には、思ったとおり人が大勢いた。が、誰もが別のことに気を取られているようで、誰も話をしようとしない。皆神妙な面持ちで黙り込んでいる。話しかけるのもはばかられるほどだ。
結局、誰にも話しかけられないまま礼拝堂に入ってみる。やはりそんなに広くはないし、おまけに誰もいなかった。
しかし、強い花の香りがするのに前方を見ると、大輪の百合の花が数本飾られているのに気がついた。そして、その花によって装飾された一段高い場所に。
…やっと見つけた…。
安らかな顔をして眠っているジョミーがいた。
よかった…。あのときは、随分と苦しそうだったから。
その表情に苦悶の色がないことにほっとする。
近づいてみると、まわりに飾られた花のせいだろうか、ジョミーが随分と幼く、綺麗な顔立ちをしていると思った。
短気で少年っぽいイメージが強かったせいだろうか、こんなにジョミーの顔が少女のようにかわいらしいと言っても差し支えない容貌であるとはまったく気がつかなかった。
それにしても、なぜ…。
「ブルー!」
その声に振り返ると、フィシスが礼拝堂の出入り口から歩いてくるところだった。随分と慌てている。
「今、あなたの部屋に使いをやらせようと思っていたところなのです。」
言いながら、フィシスはここまで歩み寄ってじっとこちらを伺う。何をしているのだろうと思っていると、彼女はほっとしたように笑顔を浮かべた。
「よかった、落ち着いていますね。」
ここに来るなり倒れてしまったから、気を遣っているのだろうかと思った。
「僕は、長く眠っていたのだろうか?」
「そう長いわけではありませんが…、昨日の早朝に戻ってから今までですから、1日と少し、といったところでしょうか。」
そんなに眠っていたなんて。
それよりも、これは何かの儀式かだろうか?一族の秘儀ならば、訊くのは差し控えたほうがよさそうだが。
「明日には…、出棺の儀となります。…あなたもどうかご出席を。」
悩んでいる間に、フィシスは淡々と告げる。しかし…。
…出棺…?
「葬法は火葬となります。
本来私たちの葬法では、鳥葬が一般的なのです。飛ぶものを統べる一族ですから、遺骸は鳥に食べさせるという習慣があるのですが、今回は特別なので。」
急にそんなことを言われても…。
フィシスの言葉にさらに困惑する。
…話が見えない。今まで眠っていたせいだろうが、何がどうなっているのか…。そもそも。
「…誰か、亡くなったのか…?」
それに、フィシスははじかれたように顔を上げ、沈黙する。その様子に、首を傾げてしまう。
また何か、おかしなことを言ってしまったのだろうか…?
彼女は目を伏せているのでよく分からないが、閉口しているようだ。それでも彼女は息を吐いて、そうですわね、とつぶやいた。
「誰もあなたに説明していなかったんですもの。急にこんな話をされて、さぞかし困ったでしょう。ごめんなさい。」
フィシスは沈黙の後に軽く頭を下げると、ジョミーを振り返った。
「亡くなったのは私たちの指導者です。」
その言葉に。
外から聞こえる鳥の声、人々の気配、強く香る花の匂い、そういった一切が感じられなくなった。
「あなたが見間違えても仕方がありません。
ジョミーは眠っているようにしか思えませんし、本当に幸せそうな顔をしていますから。 あなたを守り切って死ねたことが、嬉しかったのでしょう。」
言いながら、フィシスはジョミーの顔を覗き込む。
「それに、亡くなって一日以上経つとは思えないほどジョミーの顔は綺麗ですわ。心残りはないのでしょうね。むしろこちらが救われます。」
嘘、だ。
微笑むフィシスの言葉を聞きながら、心の中では否定の言葉だけが渦巻いている。
そんなはずはない。
だって、あのときジョミーは死なないと約束して。
いや、それ以前にジョミーが自分よりも早く亡くなるなど想像だにしていなかったのに。
「直接の死因は、肩の傷口から入った毒素による中毒死です。即効性のある毒ですから…、苦しんだ時間もそう長くなかったと思います。
ジョミーを迎えに行った彼らが言うには、到着したときにはすでにジョミーの息はなく、冷たくなっていたそうなので、あなたを見送ってすぐに亡くなったものと思います。」
フィシスがそう言うのに、呆然として聞いているよりほかがない。
そんなブルーの様子に、フィシスは申し訳なさそうに頭を下げる。
「明日の出棺は延期するわけにはいかないのです。
ジョミーの身体は言ってみれば指導者の器、この中に魔物でも入られようものなら、恐ろしいことになります。指導者の力を魔物に利用されるわけにはいきません。
先ほど、火葬にするといった理由がここにあります。彼の遺体は…、残すわけにはいかないのです…。」
十分な時間もありませんが、どうか最後のお別れを、と言われるのが現実のことと思えない。
今ここにあるのがジョミーの遺体で、彼がもうこの世のものではないという事実を突きつけられたというのに。
我ながら、なんて薄情なことだろうと思う。
自分のためにジョミーが死んでしまったと知っても。
彼と過ごした日々は、今まで生きてきた中のどんな出来事よりも色鮮やかにこの胸にあるというのに。
それなのに。
…涙ひとつ出てこないなんて。
20へ
告別式と言ってましたが、告別式が終わった直後、が正しかったですね〜。それでも告別のときはまだまだ続きます!今回、死体に見えないジョミーを書いてみたかったんです…。ゴメンナサイ…。 |
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