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    「…あれ?」ジョミーが突然声を上げる。
 何だろうと思ってジョミーの目を向けた方向に視線をやる。
 一瞬。わずかな切れ目ができたような気がした。
 「…やはり、あなたに反応しているようですね。」
 そうなのだろうか。よく分からないけど。
 「それにしては、あなた自身が出られないのはおかしいけど…。あ…!」
 何かを思いついたように、ジョミーは手を叩く。
 何だろうと思っていたそのとき。
 ぐん、と空気の質量が増したような気がした。
 何だろうと思ってジョミーを伺うと、ジョミーも同じように感じているらしい。警戒心をむき出しにして、一点を凝視していた。
 『愚かなことだ…。』
 聞き覚えのある声に、びくりとする。
 それは先ほど聞こえた声。
 「その声…?」
 ジョミーがつぶやくのに、そういえば面識があると言っていたかと思い出した。
 「あなたは死んだものと思っていましたが。」
 それは当然だろう。あの場で死体だって見たのだから。
 『災いを呼ぶものを妻になど…。守役としての立場にあるもののすることと思えぬ。
 貴様の力で殺してやるのが親切というものだ。』
 怨嗟に満ちた声。
 生前と変わらぬその声に、ぞっとする。
 『もう一度言う。そのものは殺してしまうがよい。それができなくば、捨て置け。』
 この人には、僕は不要なもの。いや、いてはならぬもの…。
 「…それは僕に対する忠告ですか?あなたがそんなにお節介だったとは知りませんでした、【グランド・マザー】。」
 慇懃無礼、とでも言うのだろうか。
 ジョミーが言うにしては珍しく、まったく気持ちのこもらない素っ気ない言葉だと感じた。言葉遣いが丁寧なだけに、余計に。
 【グランド・マザー】とは、この人の通称。本当の名は知らない。恐ろしいほどの影響力を持つ、あの家の当主であった女性。
 「できれば、人として相対していたときに、そんな親切心を発揮していただきたかったですね。」
 この人の声を聞いているだけで底冷えがして、ほとんど何も考えられない。この人の支配は、未だに身体に染み付いている。手が震えているのが分かったが、止められない。
 『忠告ではない、警告だ。』
 「そうですか。それは無駄な気遣いをさせました。」
 ジョミーが軽く頭を下げる様さえ、嫌味に映るらしい。【グランド・マザー】は声を荒げた。
 『後悔するぞ。そのものにかかわる限り、お前は長生きできん…!』
 「僕の寿命まで心配してくれなくても結構です。」
 『では、ことはお前だけでは済まぬと言ったら。』
 それに対しては、ジョミーは沈黙を守った。
 『常々長としての自覚がない若者だと思ってはいたが、ここまで浅はかだったとは。
 そやつの色香に誑かされたか。人間を守るはずの役を担うお前が、魔性に魅入られて骨抜きになったなど、愚の骨頂としか言いようがない。』
 「こういうときには、僕の立場を認めてくれるわけですね。」
 『そやつと寝たのか?よかったか?』
 「心配には及びません。あなたが気にするようなことは何もありませんから。」
 『ならば、さっさと殺してしまうことだな。まわりに無用な災いを招く前に。』
 「さっきから聞いていれば、表現が穏やかではないようですが。」
 この空しい言い合いに、苛立ちを覚えてか、ジョミーは少々強い語調で言う。
 「あなただってブルーを殺してなどいないでしょう?」
 『殺さなかったのではない、殺せなかったのだ。』
 それはどういう意味なのか、ジョミーはその言葉の意味するものをはかりかねているようだった。
 『そやつは化け物だ。魔物に愛され、魔物の力を借りることのできる魔性のもの。魔物に守られたそやつを、どんな手を使っても亡きものにすることはできなかった。
 しかし、お前にはその力がある。』
 「そんなもののための力ではありません。」
 『ほう、魔性を狩るための力ではないと?』
 「ブルーは魔性なんかじゃない。」
 ジョミーの右腕が、力をこめてブルーの身体を抱きこむ。
 …震えが止まる。
 ジョミーの抱擁が、こんなに安心できるなんて…。
 このまま、抱かれていたい。抱かれていても、いいのだろうか…?
 『それを魔性に魅入られて、惑わされたというのだ。』
 「あなたは家族なのにご存じないようですが、ブルーは誑かすだの惑わすだのという単語とは縁のない人です。」
 『どうかな?お前の前では大人しく清楚なふりをしているだけだとしたら…?
 お前はそれに騙されてるだけだかもしれんぞ。』
 違う、と言いたかったが、声が出なかった。
 「…そんなに大人しくも清楚でもないですよ。」
 緊張したのもつかの間。ジョミーの呆れたような言葉に、むしろ力が抜けた。
 「やたらと思い込みは激しいし、問題発言は多いし。」
 そんなにひどいのだろうか。それにしたって…。
 「そんなことを今言わなくても…。」
 抗議したくなったとしても仕方がないだろう。
 『では、お前の知らぬそやつの過去を聞かせてやる。』
 しかし、【グランド・マザー】は、楽しそうに言う。その言葉には、背筋が凍るような気がした。何を言い出すのか、大体の見当はついたからだ。
 「過去…?」
 ジョミーが怪訝そうに首を傾げる。
 『そやつの母親は、出産以降病気になり死んだ。』
 …それは初耳だった。誰も教えてはくれなかったから、知りようがなかっただけだが。
 「難産で亡くなることもあるでしょうに。」
 『精神を病んで、だ。』
 それに対して、ジョミーは押し黙った。
 その沈黙が…、怖い。ジョミーが今どんな気持ちで【グランド・マザー】の言葉を聞いているのか、自分の過去に対してどんな感情を抱いているのか。
 『最期まで、紅い目が恐ろしいとつぶやいておったな。
 それから、そやつがまだほんの子供だったときに、それの姉が結婚したが、夫となった男は、そやつの色香に迷いおった。』
 …吐き気がする。
 否応なくよみがえる記憶。
 部屋に入ってきた男を、初めて見る顔だと思うや否や突然押し倒されて、彼のモノを突き立てられ…。
 思わず目を閉じ、耳を塞ぐ。
 『姉は、ひどいショックを受けて、結局自殺した。』
 『この泥棒!』
 そう叫んで掴みかかってきた鬼のような形相の女。それも鮮やかに思い出す。
 自分の過去を知る人は誰もいなくなった。だから、ジョミーに対しても黙っていれば分からないんじゃないか。
 そんな卑怯な思いすら、知られてしまったような気がする。
 『そやつの色香に惑い、劣情を催したものは長生きできなかった。
 事実、そやつと性交中、腹上死したものもおる。まだ若かったのだがな。』
 その言葉に。
 突然、動かなくなった男を思い出す。
 最初は死んだなどと思わなくて、じっとしていたのに。
 『お前が殺した』と、叫ばれて呆然としたことも。
 …昨日のことのように、頭に浮かぶ。
 
 もう…、言わないで。
 これ以上、己の過去を暴かれたら。
 軽蔑されて、嫌われる、から…。
 もう、彼と一緒にいたいとは言わないから。
 二度と会えなくても、我慢する。
 だから、もう…。
 
 「…あなたは…、を…。」
 低い響きに。
 はじめのうち、誰の声か分からなくて、どこから聞こえたのだろうとふと思った。
 その途端、ジョミーがぐいっと彼の両腕で自分の身体をきつく抱き込んだ。
 「…あなたは…。
 あなたは、子供だったブルーになんて思いをさせてたんだ!!」
 …ジョミー…?
 顔さえ上げられないほど強く抱かれているから、ジョミーの顔は見えなけれど、声の調子から今まで見たことのないような怒りの表情をしているだろうとは推測できた。
 今や、表面上だけ取っていた丁寧さすら、消え失せている。
 『ふん。だから、かわいそうに思って殺してやろうと思ったのだが、あいにくと邪魔が入って殺せなかった。
 一度目は剣を折られ、二度目は毒の入った杯を割られた。すべて魔物の仕業よ。』
 「黙れ!!」
 その言葉と同時に、蒼い光がジョミーの身体を包んだ。
 何らかの力が発せられ、【グランド・マザー】ははるか後方に弾き飛ばされた。
 『ぐあ…っ!』
 「それ以上、ブルーを貶めるつもりなら容赦はしない…!
 あなたはもう死んだんだ、【グランド・マザー】。さっさと死者の領域へ帰れ!」
 弾き飛ばされ、磔にされた状態の彼女は、それでも不敵に笑った。
 『後悔するぞ、そやつを側に置いたことを…!
 そやつのためにお前は死を迎える。さらに累はお前だけでなく、お前の周囲にも及び、お前の国は滅ぶだろう。』
 死ぬ?ジョミーが…?
 その言葉に寒気がした。
 もし、自分のためにジョミーを死に追いやるようなことになったら、きっと僕は自分自身を許せない。なぜその前に、自害して果てなかったのかと悔やむだろう。
 しかし彼はそれを聞くと、今度は哀れむような声で語りかける。
 「これでも手加減しているんですよ、【グランド・マザー】。あなたはブルーの身内だから手荒なことはしたくない。」
 『相変わらず甘いことだ…!』
 「それは僕の勝手です。」
 言いながら、ジョミーは腕の力を緩めて腰を落とし、こちらの顔を覗き込んでくる。
 でも、顔を上げられない。ジョミーの目を、見られない。
 「ブルー、まさか僕が彼女の言葉をそのまま鵜呑みにしたなんてことは考えてないでしょうね?」
 笑みを含んだ声音に、ゆっくりと目を上げると、ジョミーの優しい緑の瞳にぶつかった。
 「だが…。」
 「『結果的にそうなった』でしょ?
 あなたは何もしていませんよ。大体、あなたが人を色香で誑かしたり、惑わしたりできるようなら、僕はこんなに苦労してないんですから。」
 そんな風に笑いかけてくれるのが嬉しくて。落ち着いて考えれば、随分と失礼なことを言われたと思ったけれど、まったく気にならなかった。
 でも、【グランド・マザー】の言葉は小さな棘となって心に刺さったままで。
 「…ジョミー、約束してほしい。君は死んだりしないと。」
 ジョミーはそれに対して、ああ、とつぶやいておかしそうに笑う。【グランド・マザー】の言うことを真に受けて、とでも思っているのだろう。
 「これでも今まで死んだことなんかないんですけどね。
 いいですよ、僕は死にません。少なくとも、この先あなたと一緒にいる限りは。」
 ふと、それは求婚を受け入れることができれば、という条件なのかとも思ったが、今は深く考えないことにした。
 それで、とジョミーが続けるのに何だろうと思う。
 「ここから出なきゃいけないんですが。
 あなたが出たいと強く思ってくれなければ、出られそうにない。」
 「僕が…?」
 「この空間はあなたそのもののように見えますよ。
 この空気がではなくて、自分自身を閉じ込めてしまっているのに、それを破ることのできないところが。」
 …そんなことを言われても、どうすればいいかなんて…。
 「じゃあ、ここを出て僕と一緒に生きようと思ってくれませんか?」
 くすっと笑うジョミーの顔が。
 急に強張った。
 何だろうと思っていると、突然ジョミーに抱き込まれ、呆気に取られる。そのジョミーの身体が、何かの衝撃を受けたかのように、びくっと緊張する。
 同時に【グランド・マザー】の哄笑が響いた。
 「ジョミー!?」
 「大丈夫、かすり傷ですから!」
 見ると、肩から腕にかけて血が滴り落ちている。
 「ブルー、僕を助けたいと思ってください!」
 「え…。」
 真剣な顔で言われるのに、呆然とする。
 「思うだけで結構です、後は僕が何とかしますから!」
 確かに、いくらかすり傷といっても放置してよいものではない。
 ジョミーの手当てはしなきゃいけない。そのためには、ここを出なければ…。
 すうっと、亀裂が大きく入る。今までとは比べ物にならないほどに。
 「行きますからね!」
 ばさり。
 ジョミーの背中の翼が大きく羽ばたく。
 「…!」
 急に抱き上げられて慌てたが、空を駆けるように飛ぶその速さは、まるで天馬が天上界へ進むがごとく。息をするのも忘れて、その光のごとき速さに目を瞠った。
 亀裂が閉じる前にそこを通過し、外の世界にようやく出ることができた。目に入るのはまぶしい朝日。すでに夜が明けているらしい。
 しかし。
 ここはどこだろう?
 ジョミーや自分がかつていた世界には違いなさそうだが、現在地が分からない。
 「ジョミー…?」
 話しかけようとしたときに、ジョミーの異変に気がついた。
 真っ青な顔をして冷や汗をかきながら、がくりとひざをつく。
 慌ててジョミーの腕から降りたが、ジョミーはそのままその場に座り込んでしまった。
 「…力を使いすぎました。しばらく…、動けそうにないですね…。」
 笑ってはいるが、かなり辛いらしく、肩で息をしている。
 「大丈夫か…?君が動けないなら、僕が背負って…。」
 言いかけて、そんなことができるはずもないと口を閉ざす。
 「気持ちだけ受け取っておきますよ。
 じゃあ、助けを呼んできてくれませんか?」
 ジョミーは笑いながら言う。
 その辛そうな様子に、今更ながら自分の体力のなさを情けなく思った。
 「ここを上って、あの木のところまで行けば、下のほうに館が見えます。
 この距離と上り下りは、あなたには辛いかもしれませんが…。」
 「分かった、行ってくる。」
 それしか方法がないのなら、仕方ない。
 そう思って、歩きかけて。
 もう一度ジョミーの元に戻った。
 「ブルー…?」
 「すぐに戻る。」
 待っていて、という意味を込めて。
 初めて。自分からジョミーに口付けた。
 ジョミーがびっくりして緑の目を大きく開いている様子に、してやったり、と思った。
 しかし、ジョミーから余計なことを言われる前にと思って、そのまま背を向けて歩き出す。案の定、後ろから笑う気配がする。振り返るときっとろくなことを言われないから、後ろを見ようとはまったく思わなかった。
 
 
  「参った…。」ブルーの姿が見えなくなって、そんなつぶやきとともに、座っていたジョミーの身体が完全に崩れて、横倒しになった。
 その声は、完璧に困り果てているようで、先ほどのキスの余韻など、まったくない。
 「さっき、約束したばっかりなのに…。」
 それっきり。
 小鳥のさえずる鳴き声以外、何も聞こえなくなった。
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