気がついたらあたりは暗かったという状態だろう。
今朝、ジョミーを見送って、部屋に戻った後は特にすることもなく、ぼんやりしていた。本に集中しようにも、気がそがれて内容などまったく頭に入ってこない。かといって、どこかに出かけるような気分にもなれない。
それで、結局のところ、ぼんやりと考え事にふけってしまう。
頭に浮かぶのは、ジョミーの将来像。そして、それに伴う自分の身の振り方について。
最初のうちは、ジョミーの側にいるのが楽しくて、彼の屈託のない笑顔を見るのが嬉しくて、彼を間近で感じていたいという漠然とした願望だけだったと思う。
それなのに。
いつの間にかそれは形を変えて、ジョミーを独占したいと感じるようになって。彼が、求婚したのを境にそれはさらに強まったようで、ジョミーを取り巻くものすべてに嫉妬に似た感情を抱くようになった。
だから。
女性ジャーナリストの彼女と一緒に出かけると言ったときに、引き止めてしまったのだろうと今ごろ気がつく始末だ。
さらに、あんな年端の行かぬ子供たちにまで似たような感情を向けてしまうとは。…浅ましい限りだと、認めざるを得ない。
それでも。そんな見苦しい感情を抱きながらも、彼の求婚は受け入れるわけにいかない。彼と僕では考え方も物事に対する感じ方も違いすぎる。増してや。
自分の過去を振り返れば、自分が彼に相応しいか否か。
…考えるまでもない…。
分かっているのに、そんな卑しい感情を制御することができない。
それに気づいて、愕然とした。これでは、ジョミーの側になど到底いることができない。ジョミーが美しい女性と、家庭を築いていく様を見守ることなど…、できようはずもない。
独占欲だと自覚したときから、困ったとは思っていたが、ここまで自分の意思を無視して感情が走ってしまうものだとは。…正直思わなかった。
こんな激情が、自分のどこから溢れてくるのかさっぱり分からない。そんなものは、元々ないものだと思っていた。あったとしても、無視することは、造作もなくできる自信はあったのに。
そう、今までは。
それなのに。ジョミーに限っては、なぜ感情を抑えることができないのか。
窓の外には暗闇が広がり、すでに皆寝静まってしまっているらしい。物音ひとつしない。日付が変わるような時間帯に違いないだろう。
ジョミーはまだ帰らないらしい。今ごろは彼女と一緒に何をしているのだろうかと考えてしまう自分が疎ましい。ジョミーにとっては魔物を退治するため、命さえかけて戦いを挑んでいるに違いないだろう。それなのに。
そのことにさえ、嫉妬を覚える。
息を吐いて気分を入れ替えようとするが、まったく役に立たない。
考えすぎたせいだろうか、頭痛がする。もう眠ったほうがいいのだろうが、眠れる自信もない。
気分転換にすらならなかった本を閉じて、テーブルの上に戻す。朝から1ページだって進んでいないのに、ずっとひざの上に抱えていたなんて、笑い話だろう。
でも、笑えない。
笑い方が分からないし、それに…。
ずきん。
「…っ。」
頭痛がさらにひどくなる。両手で軽くこめかみを押さえるが、効果はない。心臓が脈打つ音にあわせて、頭痛の波が襲う。
…何だろう、これは…。
今まで感じたことのないひどい頭痛に戸惑った。
ずきんずきんずきんずきんずきん…。
ふっと頭痛が止む。あまりの唐突な治り方に、むしろ疑問が湧いた。
今のは一体なんだったんだろう…?
呆然としていたそのとき。
何か聞こえたような気がして、慌てて回りを見渡す。それと同時に、ぞくっとする寒気に襲われた。
一瞬、ジョミーが怪我をしたときのことを思い出したが、それとは明らかに違う。あのときのように一瞬では終わらない。それどころか、気温が徐々に下がっているような、そんな気さえする。いや。
これは気のせいではない。
しかも、どこからか風さえ吹き付けている。不気味な黒い風が、徐々に音を立てて吹き荒れる。
『…させぬ…。』
この声は…。
聞き覚えのある声に驚愕し、ぞっとする。
そんな馬鹿な…。
彼はすでに亡くなっている。あのとき死体だって見たのに。
『…自由には…、させぬ…。』
その声音と、言葉が意味するものに寒気が走った。
そんなはずはない、彼は死んだはずだ。空耳に決まっている…。
黒く染まったねっとりとした空気が、部屋の一点から流れ、それがぽかっと大きな穴を開けた。無意識に後退っていたらしく、とん、と背中に壁が当たる。
逃れられない運命の輪が、再び軋みをあげて回り始めるのを感じた。心の中では、声にならない悲鳴が木霊する。
いやだ。
戻りたくない。
あの場所には、あの人のところには絶対。
話すこともなく、話しかけられることもなく。
ただ、そこにいるだけの日々。
誰かが来るときには、目的は決まっていて。
逆らうこともできず、抗うことも許されず。
すべてを諦めざるを得なかった、あの世界には。
黒い、すべてを飲み込むような異空間を、絶望に似た思いで見つめる。いまや黒い穴からは、すべてを吸い込むかのような強い黒い風が濁流のごとく流れている。テーブルに置いた本がばらばらという音を立てて落下し、吸い込まれて行く。息をするのも困難な風圧が襲う。
忌まわしい空間。だが、これは自分自身で呼び出してしまったものだと確信できた。それほど自分の感情が下劣で、深い怨嗟に満ちていたということか。
しかし、そんな思いに浸っている暇もない。
身体が風に絡めとられ、引き込まれるほどの強い力を前に、前にのめりになる。
もう立っていられない…。
吸い込まれたら。
二度と君には会えないだろう。せめて、最後に君の顔を見たかったのに。
…ジョミー…。
「ブルー!?」
そのとき。
勢いよくドアが開いて、ジョミーが姿を現した。部屋の有様を見て、驚いている様子がよく分かった。
吸い込まれる刹那、ほとんど無意識にジョミーに向かって手を伸ばした。その腕をジョミーの手が掴んだ瞬間。二人の姿は黒い穴に吸い込まれてしまった。
その途端風は止み、黒く開いた穴は収束し。後には何事もなかったかのような静寂が訪れた。
「ここは…。」
ジョミーは周りを見渡しながら唖然としている。上も下もないような、不安定な黒い世界。ねっとりとした風は吹いているが、今はあまり感じないことにほっとした。
もう、あの声は聞こえてこない。やはり気のせいだったに違いないと、自分に言い聞かせた。
それよりも、未だにしっかりジョミーに握られている腕を見て、困った事態になったと思った。うっかり手を伸ばしてしまったがために、ジョミーまで巻き込んでしまった。
多分、これは自分が呼び起こしてしまった空間だ。こんな禍々しいものを呼び出せることに驚くが、間違いない。
しかし、ジョミーはというと申し訳なさそうに頭を下げてくる。
「すみません、ここは安全だと言ったのにこんな目に合わせて…。
大丈夫ですか?どこか怪我は…?」
「君のせいじゃない。」
「でも、僕の結界の中です。
こんな綻びができていたなんて、まったく気づきませんでした。とんだ失態です。」
失態どころか、君はきちんと指導者としての役割を果たしている。君に失態があったとすれば、僕を側に置いたことだろう。
「君は…、一人ならここから出られるか?」
「は?何言って…。」
憮然とした表情になるジョミーを無視して、さらに言葉を継ぐ。
「出られるなら、一人で脱出してくれ。そうでなければ、二人ともここで死ぬことになる。」
そう言えば、ジョミーはむっとした表情になる。
「だから、何で僕一人なんですか!?」
「…君を巻き込んですまないと思っている。
おそらく、これは僕が呼び出してしまった場だ。」
「そんな、普通の人間にこんなものを呼び出せるはずが…。」
言いかけて、ジョミーはふっと真顔になる。
「…何を、していたんですか?」
「何もしていない。…ずっと考え事をしていただけだ。」
「…何を考えていたのか、聞いていいですか…?」
…それはさすがに、言いにくい。
ずっと君のことを考え、君に関することに対し、嫉妬の感情を持て余していたなどとは。
「…言えば、軽蔑するだろう。」
「そんなにすごいこと、考えていたんですか?」
ジョミーは驚いたように目を見開いて言う。
微妙に、ジョミーの考えていることがズレているような気はしたが、気にしないことにした。
「言いたくなければ言わなくても結構ですが、一人で脱出しろはないでしょう?」
「君は巻き込まれただけなんだから…。」
「…まったく進歩のない人ですね…。
あなた、最初に出会ったときも同じようなこといいましたよ?」
『置いていってくれればいい。』
そういえば、そうだったか。
初めて会ったときのことを思い出して、随分と懐かしく思うが、ジョミーにとってはそれどころではないらしい。むっとした表情のままさらに言い募る。
「それに、さっきあなたは僕に手を伸ばしたでしょうに!あれは頭で考えない咄嗟の行動でしょ?
ああいうときのあなたのほうがよほど素直ですよ。後になって変に気を回さないでください。」
「だから、それはすまないと思っていると…!」
「残念ながら!」
再度の謝罪を遮るように、ジョミーは声を張り上げる。
「一人だろうが二人だろうが、ここから脱出する方法は皆目見当もつきません!今から考えます。」
…大声で言うようなことでもないような気がするが。
しかし、ジョミーにもお手上げならどうしようもない。最悪、この空間を死ぬまで彷徨うことになるかもしれない。
そう考えていると、ジョミーは急にしゅんとなって頭を下げる。
「…すみません、多分僕を信頼して手を伸ばしてくれたと思うのに、役に立たなくて。
だから、僕に力を貸してください。一人ではどうにもできなくても、二人なら何とかなるでしょう。」
その言葉に首を傾げる。
「僕に何ができる…?」
指導者である君ならばともかく。
「お互い何ができるかは、やってみなければ分かりませんが。
でも、初めての共同作業になりますね。ウェディングケーキの入刀よりは難しいかもしれませんけど。」
にっこり笑うジョミーに。
「こんなときに、何をふざけて…。そんな場合じゃないだろう。」
そんな軽口を叩いている場合ではないと、言外に伝えたつもりだったが。
内容のわりに言葉に力のない台詞だと、自分で思った。
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波乱の幕開け〜♪でも、まだ本番じゃないですよ♪長くなりそうだったので、ちょん切りました! |
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