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      暗い室内、唯一天井近くにある嵌め殺しの小さな窓からわずかな明かりが漏れてくる。目の前には本棚が立ち並び、いつも見ている代わり映えのしない日常の風景がそこにある。…ああ、眠ってしまっていたのか…。
 瞬きを数回して、ようやく頭がはっきりしたようだ。
 幸せな夢を見ていたような気がする。ここではないどこか別の世界。そこは天使がいて、優しくて穏やかなときが流れている、楽園のようなところ。
 でも、それは夢だ。
 この暗く澱んだ世界が自分のすべて。幼いころからずっといた場所。
 背後の扉が重い音を立てて開く。
 またか、と思う。目的は分かっているし、誰が来たかと確認するのも億劫だ。することはいつもと同じ。
 緩慢な動作でゆっくりと振り返るが、逆光で誰だかわからない。
 ぐずぐずしていたら、叩かれるだろう。そのくらいならさっさと終わらせて…。
 と、ふと、視界に白いものが映る。慌てて顔を上げると、こんなところには似つかわしくない、まぶしい金の髪と輝く白く翼が目に入った。
 なぜ、と問う前に、彼が冷笑を浮かべる。
 『また、娼婦の真似事ですか?』
   …ジョミー…!!   そこで目が覚めた。あたりは真っ暗で、朝にはまだ遠いらしい。汗でじっとりとした肌が、寒気を訴える、いや、これは汗のせいではなく…。
 「…夢、か…。」
 口に出せば、今ここで見ているものこそが現実なのだと実感できて、少し安心する。夢を見たのは随分と久しぶりだ。
 そう思いながら起き上がろうとしたとき、ずきりと右腕が痛んだ。手首に近い部分。見ると、言い争っていたときにジョミーに腕を掴まれた、その部分が腫れている。この腫れ方では、骨には異常はないと思うから、時間が経てば治るだろう。
 それにしても、腫れを誘発するほどの強い力で握られていたなんて。ジョミーの怒りのほどがよく分かって暗澹たる気分に囚われる。元々自分はジョミーに相応しくないと思っていたが、ここまで不釣合いだったのかと愕然とした。
 「…無理もない。」
 ジョミーが怒るのも、呆れ果てるのも。
 そんなことを考えていると、外で大きな水音がした。
 この近くには湖があるらしいから、魚が跳ねた音かもしれない。それにしては大きいような気がするが。
 何となく気になって、窓辺に寄って外を眺める。最初は何の変化もない、静かな暗闇が広がるだけだった。
 そこに、何かが動いた気がした。
 目を凝らすまでもなく、白いものが目に入る。こんな暗闇にあっても自ら光を放ち、存在を示す、大きな純白の翼…。
 その羽根を伸ばした神々しい姿に、しばし見とれた。
 こんな夜中に、こんなところで何をしているのか、それさえ考えられない。髪や身体が濡れているところを見ると、今の水音は、ジョミーが湖から上がったときの音だったのかもしれないが。
 それも、後で考えて思い至ったこと。
 ズボンだけは着けていたが、上半身は裸で、その均整の取れた体格に目を奪われる。自分とは違う、筋肉のついた身体。決して貧弱ではないが太ってもいない、無駄のない身体つき。
 と、そのとき。
 不意にジョミーがこちらに目を向けた。
 どきりとする。
 視線が絡み合って、そこから動けなくなる。しばらく見つめあった後、ふっとジョミーの表情が緩んだ。
 『あなたも眠れないんですか?』
 ジョミーが発しただろう、『声』。
 でもここまでは距離があるし、声が届くはずはない。いや。
 今の『声』は耳で聞いたわけじゃない…?
 ジョミーは少しの間目を閉じると、背中の翼を消した。そして上半身が濡れた状態のまま、小脇に抱えていた衣服とマントを着けるとこちらに近づいてきた。
 どうしよう、と思う。言い争ってから数時間しか経っていないだろう、さすがに気まずい。
 そんな風に考えている間に、ジョミーは窓のすぐ外までやってきた。
 「入っても、いいですか?」
 微笑みながら言うジョミーには、先ほどの怒りようは毛ほども感じられない。
 無意識にうなずくと、嬉しそうに笑う。その笑顔を見て、ほっとした。もう二度と笑いかけてくれないかもしれないと思っていたから。
 「じゃあ、ここ、開けてもらえます?」
 コンコン、と軽く窓を叩くのに、はたと我に返って窓を開く。
 「フィシスには内緒ですよ?こんなところから出入りすると怒るんですから。」
 窓の枠に手をかけながら、いたずらっ子のような笑みを浮かべるジョミーは、いつもの優しい彼だった。
 跳躍ひとつで窓枠を乗り越える。身のこなしはしなやかで、マントのような装飾具をつけているとは思えないほどだ。
 そうして音もなく降り立ったジョミーは、こちらを見て目を丸くした。
 「あ…!」
 突然、声を上げるから何だろうとびっくりする。
 「すみません!こんなに腫れてるなんて気がつかなくて…!痛いでしょう?」
 さっき言い争いをしていたときに掴まれた腕の腫れをさしているのだと気がつくのに、しばらくかかった。
 「…痛くはない。」
 それは嘘だが、この程度の痛みなど無視できる。
 「そんなことないでしょう。」
 言いながら、ジョミーは慌てて洗面所に入ると、ハンドタオルを水に浸して出てきた。それを腕の腫れた部分にあてがう。
 最初は触れられた痛みが走ったが、次第に冷えた感覚に気持ちがよくなってくる。
 「とにかく、冷やしておいてください。今、薬を取ってきます。」
 椅子にでも座っていて、と言いながら身体を翻す。
 …行ってしまう…!?
 理由のない焦燥感が自分を襲う。戸口に向かうジョミーに慌てて手を伸ばし、彼の身体の動きに合わせてひらりと舞うマントの端を、空いている左手で掴む。ほとんど無意識に近い行動だった。
 「あの…?」
 部屋を出て行こうとしていたジョミーは、驚いて動作を止める。驚いたのはジョミーだけでない。自分も今の行動に戸惑い、うろたえる。
 「あ…。」
 どうして、ジョミーを引き止めようとなんて…。
 でも、今彼が離れてしまうと、もう会えないような気がした。目を覚ますと、またあの暗い部屋に戻っているような気がして…。
 そんな思いを分かっているのかいないのか、ジョミーはにっこり笑うとマントを握って硬直している手を優しく解く。
 「すぐに戻りますよ。」
 そして、唇に軽く口付けた。
 いきなりのことで、何が起こったのかよく分からない。先日の深い口付けとは違う、触れるだけのもの。それでも、茫然としてしまうには十分な熱を残す。
 ジョミーは呆気に取られているブルーに微笑みかけると、今度こそ戸口に向かう。ドアの開閉する音を、ぼんやりとした感覚の中で聞く。
 軽く触れただけなのに。それなのに、今の一瞬の感触が…、忘れられない。なぜ、と自分の中に問うてみるが、答えはなかった。
 「その、どうもすみませんでした…。
 こんな手荒なことをするつもりじゃなかったんです。」
 言ったとおり、ものの1分ほどで戻ったジョミーは、薬を塗りながら、申し訳なさそうに謝罪した。痛みがないように、優しく丁寧に薬を塗る姿に、先ほどの荒っぽい彼とのギャップが感じられて、不思議な気がする。
 「君は悪くない。悪いのは僕なんだから。」
 ジョミーはそれを聞くと、今度は困ったように笑う。
 「あなたが悪いわけじゃありません。
 それに、どんな理由であれ、暴力を振るってしまったのは僕なんですから。」
 こんなものは、暴力のうちには入らないと思うけれど。
 「明日、というか今日の夕方もう一度腫れの具合を見ますね。多分、ひどくなることはないとは思いますが。」
 「気にしなくてもいい。」
 「そのくらいはさせてください。」
 お願いします、と頭を下げるジョミーに、それ以上は言えず、分かった、とだけ答えた。器用に手早く包帯を巻く彼を見ながら、なぜこんな時間にこんなところにいたのだろうという疑問が、改めて頭をよぎる。
 「こんな夜中に、君は何をしていたんだ…?」
 すると、ジョミーは苦笑いする。
 「頭と身体の熱を冷まそうと思って、泳いでました。…ちょっと自己嫌悪にも陥ってしまいまして、じっとしていられませんでした。」
 あなたは?と問い返されるのに、口籠る。
 悪夢を見て目を覚ましたなどとは、とても言えない。悪夢の内容を問われると、答えられないし。というか、答えたくない。
 返事がないのを不快に思った様子もなく、ジョミーは続ける。
 「さっきは頭に血が昇ってしまって、あなたにひどいことを言ってしまいました。すみません。」
 愛人などお断りだと言った言葉だろう。
 「…気にしていない。」
 「いえ、娼婦などと言ってしまったところは、間違いなく言いすぎです。…すみません。」
 ちょっと理性を試されているような気がして…とか、しとやかなイメージが…とか、もごもごつぶやいている。
 何のことだろうと思いつつ、そんなジョミーを伺う。
 「やはり…、ダメだろうか。」
 「え?何が?」
 独り言をつぶやいていたジョミーは、きょとんとして顔を上げた。
 「…愛人…。」
 小さい声でつぶやくと、ジョミーは「は?」と素っ頓狂な声を上げる。
 愛人にすらなれないのなら。僕はどうすれば君の側にいられる?
 「ダメ。」
 しかし、ジョミーは容赦なくはっきりと言う。
 「そっちの方面では、全然まったく期待できないと分かりましたので。」
 それはまたひどい言い草だ。そこまで否定しなくても。
 「そんなに、ひどかったのか…?」
 「あなたは愛人としては失格ですよ。」
 さっくりと鋭利なナイフで切るがごとく。いとも簡単に言われて、傷つくよりも先に、呆気に取られてしまう。
 「僕だって経験はあまりないし、上手だとは言えませんが、あなたよりはまだマシかと思えるくらいですしね。僕は愛人に対して、そこまで仕込むつもりはありませんよ。」
 仕込まなければならないほど、役に立たないのだろうか…。
 「失格…なのか…?」
 そう、つぶやくように言うと、ジョミーは顔をしかめてため息をつく。
 「だから、どうしてそこでショックを受けるんですか?
 そんなことを考えているくらいなら、僕の妻になるという提案についてもっと前向きに考えてくださいよ。」
 その台詞にこちらの頭の中が疑問符だらけになる。
 「…君はまだそんなことを言っているのか…?」
 「まだって、僕がいつ取り消しました?」
 むっとしたように、唇を尖らせる。
 「大体ですね、僕はあなたには妻になってくださいと申し込んでいるんですよ?それなのに、どうしてそれを愛人なんかに格下げできるんですか。」
 「僕はそれでいいのだが。」
 「ダメです。
 ああそうでしたね、あなたは僕から妻にと望まれるから、仕方なしに愛人になってやろうという奇特な方でしたね。」
 ジョミーは澄ました顔で、そんな風に言う。
 そんな嫌味を言わなくても…。
 「だから、仕方ないついでに、妻になっていただけると嬉しいんですけど。」
 これまた澄まして言った後、自分でおかしかったのか、ジョミーはすぐに破顔した。
 話している内容はともかく。そんな彼の様子に安堵した。
 でも、そんなこちらの思いを気取られるわけにはいかない。憮然とした表情を浮かべてみたが、どこまで彼に通用するだろう。
 「仕方ないでなれるわけがない。」
 「愛人にはなるって言ってくれたのに。」
 「だが、妻にはなれない。」
 「あなたも強情ですね…。」
 どちらが強情なんだか。
 けれど、ジョミーの楽しそうな表情を見ていると、自然と和む。
 二度と口を利いてくれないどころか、顔さえ合わせてくれなかったら。そんな強迫観念にとらわれていたようで、自分がひどく緊張していたことを知る。
 こんなときが長く続けばいいのに。
 つい、そんな風に願ってしまっていた。
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        | 仲直り編でした!天使、連続更新ですみません〜。これで気分的に一段落!別の連載にもかかりますね〜♪ |   |