グランド・マザーが愉しそうに笑う。
『これはこれは…。ヒトである貴様が、こんな大海原のど真ん中で私に勝てると思うてか?』
腹は立つが、その言葉は的を得ている。海の上では人間は浮いていることが精一杯のはず。しかも、海の底でも絶大なる力を持つグランド・マザーを相手に、この状況で勝てるはずもない。
ジョミーは慌ててブルーの腕から逃れてグランド・マザーに向き合った。
…この人を傷つける気なら、ただでは置かない…!
今や人間となり、何の力も持たない自分が彼女に勝てる見込みなどない。だが、自分の命と引き換えにしてでも、ブルーを守る…! と。ジョミーはそう心に決めて、グランド・マザーをにらみつけたのだが。
「まともにあなたの相手をする気などない。」
その声に、ジョミーは驚いて振り返り、ぽかんとしてブルーの秀麗な顔を見つめた。その顔には、余裕の笑みが浮かんでいる。
まともに…? ってどういうこと?
呆気にとられていると、陸地の方向から地響きのような恐ろしい音が聞こえてきた。何だろうと音のする方向を見ると、波がさざめいている様子が見て取れた。
『おのれ…! あの下劣な術士を呼んだのか…!』
心なしか、グランド・マザーの顔が青ざめた。先ほどまで嗤いさえ浮かべてこちらを見下ろしていたというのに、音のする方向を見つめ、苛立たしげに吐き捨てる。
それにしても。
グランド・マザーのような魔女が恐れる相手とは、一体誰だろう…?
「あなたも言ったとおり、僕はただの人間だ。あなたのような海の大妖怪にとっては、僕を殺すことなど赤子の手をひねるようなものだろうからね。」
ブルーは涼しい声でそう続けると、グランド・マザーはぎろりとこちらをにらみつけた。
『この…卑怯者…!!』
「僕たちを陸地でなく、海に引きずり込んで殺そうとした魔女には言われたくないな。」
音はだんだんと大きくなる。よく見ると、海が大きくふたつに割れているのが分かって、ジョミーは目を剥いた。
…こんなすごいことができるなんて…。
はるか大昔に、そんな偉業をやってのけた聖人がいたと聞くが、その光景はまさにこれそのものであっただろう。干潮により、海の中に道ができるといった自然現象は多々あるが、これは本当に海水が高い壁となり、その下に一本の道ができて、こちらに向かってきているのだ。
「そこまでです、グランド・マザー。我が王国に手出しはさせません…!」
「フィシス…!」
凛と響いた透き通った声に、ジョミーはその海の中の道を歩いてきた人影に気がついた。
同時に海割れは自分たちの浮いているところまで到達し、二人の身体は何かに支えられているようにゆっくりと海の中の砂地に降下した。そして、地に足が着く直前、ジョミーはブルーに抱きかかえられた。ジョミーは呆気にとられてしまい、されるがままになっている。
「遅くなりまして、申し訳ございません。」
グランド・マザーの前だと言うのに、フィシスはにっこりと微笑みながら、二人の前まできて優雅にお辞儀をした。
「いや、いいタイミングだったよ。では、あとは任せていいのかな?」
「はい、帰りの馬車はありませんので、この道を歩いてお戻りいただくよりほかはありませんが。」
「無論、そのつもりだ。そんな贅沢は言わない。」
「待て…! 逃げる気か、この惰弱者が! 一国の王なら、剣を交えてでも勝とうという気にならないのか…!」
そこで、グランド・マザーの悔しげな叫びが聞こえてきた。しかし、そう詰られたブルーはというと、怒るどころか微笑みさえ浮かべた。
「残念だったな。僕はそんな挑発には乗るほど、青くはない。大体、そんなことをしても僕が負けるのは火を見るよりも明らかだ。せっかくジョミーが助けに来てくれたというのに。」
それだけ言うと、ブルーはグランド・マザーに背を向けた。
「では、フィシス。先に戻っている。」
「はい。」
お気をつけて、とささやく声が、この場に相応しくない悠然とした雰囲気をかもし出す。
…あのグランド・マザー前にしても、これだけのゆとりがあるなんて…。それが、フィシスの力量そのものを表しているのだろう、と思った。
『忌々しい売卜風情が…!』
反対に、怒りと焦りをあらわにするグランド・マザーに、それは確信へと変わる。
フィシスは優雅な仕草でグランド・マザーを振り返った。そして、華のような笑みを浮かべ。
「その言葉。後悔させてさしあげましょう。」
…ひどく優しげな響きに、ぞっとした。
その言葉とともに、フィシスと自分たちとの間に、波の壁が立ちはだかった。
「フィシス…!」
抱きかかえられたままだったジョミーは、張られた波の結界に慌てて見えなくなった巫女姫を探そうとブルーの腕から降り立った。だが、そそり立った大きく高い海の壁を眺めるほかには、もうできることは何もなかった。
壁に触れれば、確かに感じられる水の質感。だが、完全に重力に逆らっているこの状況に、フィシスの力の強大さを改めて実感できる。今はそれを信じるよりほかがないのだろうが…。
「フィシス!」
今や完全にフィシスとグランド・マザーの姿は見えない。どのような状況かは想像もできないが、二人は今まさに戦いの真っ最中だろう。
「フィシス、返事して! フィシス!!」
「心配は要らないよ、ジョミー。おっとりとした上品な彼女からは想像もつかないだろうが、フィシスは並外れた力を持ったなんだ。」
だが、ブルーはというと慌てた様子もなくジョミーを抱き寄せた。
「でも…っ!」
「ここにいても、彼女の邪魔になるだけだ。僕たちの国に戻ろう。」
そうは言われたが、ジョミーは今頃グランド・マザーと戦っているフィシスのことが気になって仕方がなかった。
そう…かもしれないけど…。相手はグランド・マザーなんだから、心配するなと言うほうに無理が…。
そう思いかけて、自分を抱くブルーの腕から流れてくる血の匂いにはっとした。
「ブルー…! 怪我してるの!?」
さっきは海水の中にいたので気がつかなかったらしい。ブルーの右上腕部が赤く染まっている。しかし、当の本人はといえば痛みすら感じていないかのようで、そう指摘されてようやくその事実に気づいたらしい。
「ああ…。でもたいしたことはない。それよりも、君に怪我はないのかい?」
反対にそう訊かれて、ブルーの腕に抱かれている自分の身体を改めて見下ろした。だが、それらしいものはまったくない。あれだけの勢いで流されたというのに、擦り傷ひとつ負っていなかった。
…もしかして、ブルーが守ってくれたんだろうか…?
そう考えると、こそばゆいような、照れくさいような気分になる。けれど、海水を吸って少しばかり透けている服やふっくらとした胸元を見ていると、高揚する気持ちとは逆に落ち込みそうになってしまう。
「…ジョミー…?」
「怪我は…ありません…。」
女性化を固定させるためには、28日間の宮篭りが必要…。
フィシスの言いつけを破った以上、遅かれ早かれこの身体は元の男のものに戻ってしまうだろう。
それに…ブルーが僕を好きだといってくれたことは嬉しいけれど…どう考えても僕がブルーと結ばれるなんてことはありえない。以前フィシスが言ったとおり、国王が男と結婚するなど、国民が許すはずがない。
ならば…いずれはこの身も海の泡と化してしまうのだ。
「早く…お城に戻ってください。きっとお城の人たちは必死になってブルーのことを探しています。」
僕はここにいるから…あなたはあなたの世界に戻って…。
「君のこともね。」
その声とともに、さらにきつく身体を抱き寄せられた。そのまま、ジョミーの金の髪に口付ける。
「あの…ブルー…?」
「君のいない王城は、火の消えたように活気を失ってしまった。だから、君をこうして手にした以上、僕は空手で帰るつもりなんかないよ。」
「…え…?」
見上げるブルーは、いつもの優しい彼とは違うように見えた。その美しい瞳がひどく恐ろしいものに感じられて仕方ない。言ってみれば、肉食獣のような獰猛な瞳、とでもいうのだろうか。
「この一件が落ち着いたら、すぐに結婚式を挙げよう。」
「ええっ?」
その彼から、今度はこんな場に相応しくないような言葉が飛び出した。
「なるべく派手に、諸外国にまで広まるように。いや、海の底まで伝わるように。」
「え、ええええーーっ!」
こんな場合だというのに、こんな事態だというのに…。なのに…なのに、こんなところでプロポーズ…!?
嬉しいと思うよりも先に、ブルーの神経を疑ってしまう。おかげで、今の言葉にびっくりしてそれ以上は何も感じられなかった。
「だって…だってフィシスは今戦っている最中だし…!」
「そうだね。でも、僕は彼女があの海の魔女に負けるとは思わないよ。」
「それに! きっと、シャングリラは今の大津波で大騒ぎだと思いますし…っ。」
「そうだろうね。漁業にも農業にもとんでもない被害を被ったことだろう。その復旧に手を抜くつもりはない。」
「ほかの国々だって、弱ったシャングリラを攻めてこないとも限らないし…。」
「反対に、この国にはこんな災害など補って余りある力というものを見せ付けてやろう。そうすれば、そんな馬鹿なことを考える輩などいなくなる。」
何を言っても笑顔で返される。しかも、目は決して笑ってなどいない。
でも…それに…。
ジョミーは悲しげに視線を落とした。
「…僕は、結婚できるカラダじゃありませんから…。」
今はまだ女性化を保っている様子のこの身体…。いつまで続くのかは分からないが、おそらくすぐにでも元の少年のものに戻ってしまうのだろう。
「身体…?」
対するブルーは不思議そうにつぶやいたあと、ああ、とジョミーを改めて見やった。
「…そういえば、さっきその身体は男に戻ると言っていたね。」
説明してくれるかい? と言われるのに。
ジョミーは意を決して口を開いた。
19へ
あれ? また続いてしまったり〜…。次回で間違いなく最終回です。(汗) |
|