恐ろしいほどの波がうねる音が聞こえる。
『ブルー…! 早く逃げて…!』
声は出ないが、ジョミーは必死の形相で訴えかけた。だが、国王は国王で、厳しい顔をしてジョミーをにらみつけている。
「なぜ君がここにいる!? どうして神殿を離れたりしたんだ!」
いつもの穏やかな姿からは想像もつかないような剣幕である。しかし、ジョミーも負けてはいなかった。
『グランド・マザーの狙いはあなたなんです…! あなたのその目を奪おうとして…!』
だが、皆まで言い切れなかった。
津波は間近まで迫っている。この人を守らなければ…! 僕の命に代えたって絶対に彼女の好きになんかさせない…!!
王城は高台にあるにもかかわらず、異様に高くなった波が向かってくる。通常の津波ならありえない。
ジョミーは地面を蹴ると、ブルーの胸に飛び込んだ。その途端、王城の中庭は生き物のようにうねる波に飲み込まれてしまった。
早く波の上に出なければ…!
ここに来るまでの十数年間、ジョミーは海の中で過ごしてきた。泳ぎ方は身体が覚えている。ジョミーはブルーを抱いたまま海の中を上に向かった。
ざばっという音とともに、海面に顔を出す。どうやら一瞬にして大海原へ流されてしまったらしい。王城がはるか向こうに見える。
『ブルー! 大丈夫!?』
ジョミーは慌てて目の前の国王に怪我がないかと目を走らせた。しかし、ブルーはと言うとしばらくむせていたが、次にはそんなジョミーを呆気にとられたように見下ろした。
『ブルー…?』
「ジョミー、君…。」
波にもまれながらも、ブルーはぐいっとジョミーを抱き寄せた。
『え…?』
「君、少し…太った?」
太った…?
ジョミーはその言葉にぽかんとした。
…確かに、神殿ではあまり動いてはいないけれど…。でも、特別太ったとかそんな意識はまったくなかった。いや、そうだったとしても…!
『今、そんなこと言ってる場合じゃ…!』
ジョミーは首を振ってそれどころじゃないと訴えたが、対するブルーは困ったようにため息をついた。
「いや、その…君の身体が…ふくよかになったような気がしたものだから…。」
そういいながら、ブルーはジョミーの胸元に目を落とした。
はたと気がつくと、羽織っていた外套はいつの間にか脱げてしまったらしく、神殿で与えられていた白っぽい薄い服が、水を吸って半ば透けている。その透けている胸元に…。
『…!!』
二つの大きな乳房があった。
…太っただのふくよかになっただの、ブルーが随分と控えめな表現を使っていたので気がつくのが遅れたジョミーも、さすがに凍りついた。
このことを、ジョミーが女性の身体になるために祈祷をしたということは、フィシスとキース、そしてジョミーだけしか知らないことで、ブルーには秘密だったのだ。
…でも。
だが、ジョミーは内心首を傾げた。
こうして国王様の前に出てしまったのに、なぜまだこんな身体なんだろう…?
「おやおや…。どこかで見た顔だと思ったら。」
そのとき、笑いを含んだぞっとするような声が聞こえた。
…グランド・マザー…!
ジョミーは声のした方向を振り返り、波の上に立つ海の女怪をにらみつけた。禍々しいほどの暗い光を宿した目が、ジョミーとブルーを見つめている。その顔は、美しいともいえるのだろうが、見るものにとっては寒気すらする恐ろしい表情だ。
「お前がヒトに恋して人間になったというのは本当だったのかえ?」
くくく、とのどの奥で笑うと、グランド・マザーは改めて威嚇するように自分をにらみつけるジョミーをじろじろと眺めた。
「おまけに、あの占い師の力を借りて、その身体を女のものに変えようなどと…。泣かせるのう。」
「あなたなどに同情されるいわれは…。え…!?」
「…ジョミー!?」
声が…出た? 人魚から人間になる代償のために失った声が…。
慌てて足元を見るが、足はそのまま。人魚に戻ったということはない。
「お前が哀れだからのう。好きな男のために人魚であることを捨て、男であることを捨て。その挙句、愛しい男を失って水の泡と消えてしまう運命なのだから。言いたいことくらい言わせてやろうと思うてな。」
「余計なお世話だ…! ブルーは絶対に渡さない、紅い瞳だって絶対に…!」
楽しげに言う彼女に対し、ジョミーがかっとして叫びかけたとき。ぐいっとブルーがジョミーの肩を掴んだ。
「…どういうことだ…?」
その紅の瞳に動けなくなった。ジョミーにとってみれば、グランド・マザーの眼光よりも、ブルーの瞳のほうがはるかに畏怖に値する。
「ジョミー。君が人魚だったとは…一体どういうことなんだ?」
ブルーの瞳は真剣そのものだ。初めて垣間見るジョミーの過去に、信じられないという思いが強いのだろう。
「…ブルー…。僕、は…。」
だが、ジョミーはというと、説明どころか言葉さえ出てこない。
「何だ、貴様は知らなかったのかえ? 美しきシャングリラの王よ。どこの馬の骨とも知らぬ娘を傍に置いていたとは…はて、聡明で知られる王とも思えぬ。」
これは面白い、とグランド・マザーは高らかに笑った。
「いいだろう、教えてやる。貴様の目の前にいるのは、まがいもなく海の底に住まう生臭い人魚よ。元気だけが取り得のそそっかしいじゃじゃ馬のような小魚だったがな。それが数ヶ月前から姿が見えなくなった。風の便りに聞いてみれば、海魔を使役する魔法使いに人間に変えてもらい、好きな男のもとに走ったと。そうか、あれは本当のことだったのだな。そして、好きな男とはシャングリラの国王、この私の獲物だったわけだ。」
「グランド・マザー…!」
楽しげに語られる、自分の過去。ブルーに会いにきた経緯。
ずっと秘密にしておきたかった…。生まれが海の底なんて知られたら…本当は人魚だったなんて知られたら、気味悪がられて王城から遠ざけられてしまう。そうなったら…国王様を見守ることすらできなくなってしまう…。
「どうした…?『自分は人魚だ』と公言すれば、不老長寿の妙薬と重宝されるのではないのか…? それとも、見世物として大事にしてもらえるかもしれんぞ?」
…グランド・マザーの言っていることは、表現は悪いが事実だ。
それは、海の底で教えられたこと。人魚にしてきた、人間の仕打ちだった。
人魚など、人間にとってはその程度の価値しかない。増してや、人間に恋して姿を変えるなど…気持ち悪い以外の何者でもない…。
ジョミーはうつむいて唇をかみ締めた。
「…ジョミー…。」
大好きな、ブルーの声が聞こえた。本当なのか?と訝しんでいる様子がよく分かる。
でも…。
しかし、ジョミーはきっと顔を挙げ、グランド・マザーを見上げた。
「ブルーは絶対あなたには渡さない…! 僕の命に代えても守ってみせるっ。」
人間が人魚にしてきたことなど、今はどうだっていい…! 僕はこの人が大切で、この人が幸せであればそれでいいんだ…!
だが…。
くす。
ジョミーが怒鳴った横から、笑い声が聞こえた。ジョミーは驚いて、ブルーを振り返る。場違いな、というよりも、ひどく楽しげな微笑みを浮かべたブルーに、ジョミーはにわかに心配になってきた。
そ、傍にいるのが元人魚の僕だから…あまりの事実に、国王様は気が違ってしまったんじゃ…。
「あの…ブルー…?」
ブルーの瞳がジョミーを見つめた。
「ジョミー、それは僕の台詞だよ…? 美しくも優しい姫を守るのは、王たる僕の務めだ。勇ましい姫君というのも悪くはないが、その役は僕に譲ってほしい。」
え…?
ジョミーはぽかんと口を開けたまま、ブルーを見つめた。ブルーはと言うと、微笑みながらジョミーを抱きしめた。
「知らなかったこととはいえ、君の気持ちも考えずに無神経な言葉を吐いて…本当に悪かった。君がどんな気持ちで人魚であることを捨てて僕のもとに来てくれたのか、どんな覚悟で陸地で暮らそうと決心してくれたのか…。」
え…? ええー!?
「あの…っ、ブルー?」
ジョミーは強く抱きしめられながらも、目をまん丸にしてブルーを見上げた。
「なんだい?」
「気持ち…悪くないの? 僕…人間じゃ…なかったんですよ?」
「ジョミーはジョミーだよ。君の過去が何であっても、関係ない。」
「…でも…。」
「じゃあ君は、僕が王だから僕を好きになってくれたのかい?」
「そ…っ、そんなわけ…!」
その問いかけには、ジョミーはぶんぶんと首を振った。ブルーに一目ぼれしたときには、彼が一国の王だなんて知らなかった。あのときは、夢のような美しさと宝石のような紅い瞳に夢中で…。必死になって彼のことを調べたら、シャングリラの王だと分かったのだ。
「僕も同じだ。僕は君の出自を知らなかったけれど、僕は一目で君が好きになった。」
「…ブルー…。」
「それに…僕は知らなかったけれど、君はフィシスと結託して、女性の身体になってくれたんだね。」
やや棘のある言葉を向けられて、ジョミーは視線を自分の胸元に落とした。
フィシスやキースから半ば呆れながら感心された、この豊満な胸。まだ女性のままのようだけど…。
「この身体は…もうすぐ男に戻ってしまうんです…。」
その悲しげな響きにブルーは首を傾げた。
「どういう…ことだい?」
「そこまでだ…!」
大きな波が襲い掛かってきた。その勢いは二人を引き離そうとしたが、ブルーはジョミーの身体を強く抱いたまま、グランド・マザーをにらみつけた。
「別れの挨拶はそこまでだ。では、シャングリラの王よ、国を海の藻屑としたくなければ、その双つの瞳を我に差し出せ。さもなくば、国民は溺れ死に、土地は痩せ、シャングリラという国は地図上から消えてしまうだろう。」
「卑怯だ、グランド・マザー…!」
ブルーが愛して止まない国民をたてに取るなんて…!
「ふん、小魚の分際でうるさいわ…!」
「ジョミー、心配は要らない。僕は彼女に屈したりはしない。」
その自信に満ちた言葉に、ジョミーは慌てて国王を振り返った。ブルーはというと、怒りの表情の中に笑顔を浮かべて、グランド・マザーを見つめていた。
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ジョミーとブルーの絆を深めてくれるなんて、グランド・マザーって何気にいいヒト(魔女)かも〜♪(彼女にとってはとんでもなく不本意…。) |
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