陛下から、くれぐれもあなたが不安を感じることのないようにと申し付けられていますから。
そうにこやかに笑ったリオは、風呂に入る手伝いや着替えなどすべて手伝ってくれて、今はこうして歩く練習の相手となってくれている。この部屋には手すりなんかないから、手を引いてもらっているんだけど。
『うん、大分歩けるようになった。リオのおかげだよ、ありがとう。』
声が出せないので、唇の形だけでそう伝えると、リオは嬉しそうに微笑んだ。
「どういたしまして。ジョミーが笑っていると、私も嬉しいですよ。
とはいえ、あまり無理をして後に響くといけません。少し休みましょう。」
そう言われて、椅子に座って息を吐く。
景色がいいと国王自身が言っていたように、ここの窓から見える海は美しい。すでに日は落ちて、夜の帳が下りているが、月明かりに浮かび上がるいくつかの島の輪郭や漁の明かり、海岸線に打ち寄せる波のきらめきは、さながら宝石箱の蓋を開けたかのようだ。
でも、僕はこれよりももっと美しいものを知っている。
紅い瞳を持つ、銀色の凛とした美貌。理知的な微笑みをたたえたその姿は、どんな宝石よりも綺麗で。
「紅茶を淹れましたよ。一緒に飲みましょう。」
ふと我に返ると、リオがにっこり笑いながらティーカップをジョミーの前に置くところだった。
『うん、ありがと。』
カップを手に取れば、甘い香りがふわりと漂う。
「歩けないのは一時的なもののようですね、よかったです。何かのショックによるものでしょうか。」
リオがそう言うのに、罪の意識を感じる。
記憶喪失によるものだと思ってくれているようだけど、それは嘘なのにと落ち込んでしまう。でもそれは言えない。それでつい話を変えたくなって、別の話題を振ってしまった。
『国王様は、優しい人だよね。』
しかし別の話題といえば、憧れの彼の人のことしか出てこないが。
「そうですね。同胞にはとても優しい方ですよ、身分の分け隔てなく。」
そう言いながら、嬉しそうに笑う。
「戦によって国の領土を広げようとする王は多いと思いますが、陛下は違います。
戦をすれば、国民が疲弊することをよくご存知ですから、無益な争いは好まれません。そのために近隣諸国にも心を砕いておられます。シャングリラがもっとも豊かな国のひとつであるのは、一重に陛下のおかげだと感謝しております。」
『リオは、国王様が好きなんだね。』
そう伝えれば、リオは照れたように笑う。
「シャングリラの国民は、皆陛下を尊敬し、敬愛しておりますよ。
ジョミーが海岸で陛下とお会いになったように、城下町を散策することも、足を延ばして地方都市や田園都市を視察することもお好きで、そのたびに山のようにお土産を持ち帰って来られます。」
『へえ、すごい人気なんだ…。』
自分の一目ぼれした人が予想どおり素晴らしい人で、皆に讃えられていると知って誇らしく思った。…同時にほんの少しの嫉妬も入り込んでいたが。
「そうですね。」
笑いながら、リオも紅茶を飲む。
「でも、人気だけではありませんよ。
陛下の父王も優れた指導者で、昔を知る老人たちも血は争えないと言うくらいです。この国は二代続けて優秀な指導者に恵まれたと喜んでおりますよ。」
『その、国王様のお父さんって…、いないの?』
プライバシーだから聞いちゃっていいのかな?と思いつつ、上目遣いにリオを伺う。その様子がおかしかったのかリオは微笑みかけたが、すぐに神妙な顔つきになった。
「先代の国王は早世されましたので…。まだ陛下が幼いころに。」
『あ、それじゃ、国王様のご家族はお母さんと兄弟と…。』
「…残念ながら、お母上もお亡くなりになりまして、ご兄弟もいらっしゃいません。
政治家としての器量や武人としての才能、さらには容姿にも恵まれた方なのに、唯一肉親には縁が薄いようです。」
だから、国民の関心ごとは、陛下のご結婚なのですよと笑いながら言う。
突然話題が核心に突入してしまったので、ジョミーは紅茶を吹きそうになってしまった。
「大丈夫ですか、ジョミー?」
リオは、そんなジョミーを微笑みながら気遣う。どうも、ジョミーの淡い恋心などすっかりお見通しのようである。
しかし、ジョミーはそんなことに気がつく余裕もない。
『だ、誰か決まった人でも…?』
それだけは聞いておかなきゃと、紅茶にむせて涙目になりながらもリオを見やる。
「さあ。私が知る限りでは、陛下の恋人と呼べるような方はいないようですが。」
ほっとする。
恋人がいてもいいとは思ったが、やはりいないに越したことはない。だからといって、自分にその可能性があるかと問われれば、即座に否定されてしまうだろうけど。
ジョミーが少年だということを含めても、他人から見れば充分かわいらしく、美しく見えるということは、本人だけが知らないことであった。
「さて、もう夜も更けましたし、お休みになったほうがよいでしょう。」
そういわれて、随分とリオを引き止めてしまったと罪悪感にかられた。
「私はジョミーと一緒にいられて楽しいのですが、今日はいろいろあったでしょうから眠ったほうがいいですよ。」
あなたの記憶については、無理に思い出そうとせず、ゆっくりと思い出していきましょうね。
そう微笑みながら言われるのに、さらに罪悪感にかられる。
ゴメンね、リオ。本当はそんなんじゃないんだけど…。
「ジョミーにそんな顔は似合いませんよ?
困ったことや悩んでいることがあったら、いつでも相談に乗りますからね。」
リオが笑顔でそういうのに救われた気がして、ジョミーは小さくうなずいたのだった。
からくり時計のときを告げる音がどこかで鳴る。その音に、ジョミーはふっと目を覚まし、見慣れない天井を見上げた。
そうだった、僕はあの人に会うためにここに来たんだった、と思い出す。
キースの計らいで、うまく彼の人に会えたのはよかったけど、彼の人は国王様だから忙しくて、ゆっくり話ができなかったな、と思いつつ寝返りをうったその視界に。
美しい彼の人が、ベッドの側においてある椅子に腰掛けていることに気がついた。
え…?
なんで、どうして国王様がここに?
パニックになりかけて、そういえばお客様の相手が終わったら顔を出すと言っていたと思い出した。
でも。
まぶたの伏せられた彼の人の美しい顔を、困惑しながら見つめる。
…眠ってるんだけど…。
疲れているだろうに、すぐにでも自室に戻って眠りたいだろうに、わざわざここに寄ってくれるなんて。嬉しい、と思ってもいいのかな。
けど、このままじゃ風邪をひいてしまうかもしれないし…。
そう考えて、そっと毛布を持って彼の人を起こさないよう後ろに回った。その肩に毛布をかけようとした、そのとき。
彼の人が何の前触れもなくすっと立ち上がった。そして振り向きざま、滑るような動作で腰から剣を抜き、ジョミーにそれを向ける。剣の切っ先がジョミーの心臓の上でぴたりと止まった。
リオが、武人としての才能が、と言っていたが、まさにこのときまで国王が剣技にたしなむなどとはまったく想像だにしておらず、ただただ呆気に取られた。
そのときに向けられた、彼の人の冴えた冷たい瞳に。
血が凍りつくような気がした…。
「あ…。」
しかし彼の人は、相手がジョミーだと認めた途端、驚きの表情を浮かべてすぐに剣を下ろした。
「すまない、怪我はない…?」
そうして心配そうにこちらを伺ってくる様子は、海でジョミーを気遣ってくれた優しい彼の人のものだった。急に緊張が緩んだジョミーは、ほっとしたついでにその場にへたり込んでしまう。
「…大丈夫かい?
悪かったね、変な癖が出てしまってびっくりしただろう。」
剣を鞘に収めて、彼の人は微笑みながらへたり込んでいるジョミーに合わせて腰をかがめた。
それは驚いたけど…。変な癖って…?
その疑問が表情に出ているらしく、彼の人は苦笑いした。
「何度か刺客に狙われたことがあってね、おかげで後ろから近づく人間に対しては、警戒する癖がついているんだ。
その、君はそんなものじゃないと分かっているんだが。身体が勝手に動いてしまうんだよ。特に今は寝ぼけていたから。」
寝ぼけているのとは、ちょっと違うと思ったけれど。
そう言われるのに、思い当たることがあった。
だから、ハーレイ侯爵という人は、見ず知らずの自分を城内に入れたことをあんなに怒っていたんだ…。
「それよりも、歩けるようになったのかい?よかった。」
そう言ってこの人は微笑みかけてくれたけれど。
そんなことどうでもよくて、つい目の前の美しい人を見つめてしまう。
「…ジョミー?」
こんなに綺麗な人なのに。
どうして自分のお城の中で、そんなに気を張っていなければいけないんだろう…?言ってみれば自分の家だろうに、そんなに気が休まらないの…?
肉親には縁が薄いって…、リオはそう言っていたけど、それならこの人の安らぎって一体どこにあるんだろう?
「そんなに怖かったのかい?」
気遣わしげなその言葉に、違うと激しく首を振って。
『国王様が、疲れていないかと思って…。』
そう言えば、彼の人は呆気に取られたように目を見開いて。でも、次には嬉しそうに微笑んだ。
「…ありがとう、ジョミー。でも、慣れているからいいんだよ。
だから…、そんなに泣かないで。」
困ったようにそう言われて、初めて自分が涙を流していたと知った。
ああ、しまった!感情が激すると、勝手に涙が出てしまうものだから…!
慌ててパジャマで涙をぬぐう。こんなことで泣いてしまうだなんて、恥ずかしくて顔も上げられない…。
「ジョミーは優しいね。でも大丈夫、疲れてなんかいないよ。」
それでも、どこか嬉しそうに言う彼の人に、ほっとして上目遣いで伺う。
『本当に…?』
「本当だよ。君がそんなにかわいいことを言ってくれたから、疲れなんて吹き飛んだよ。」
かわいいって…。
絶句するが、彼の人の笑顔を見ていたら、まあいいか、と思ってしまったけど。
『国王様、僕、男なんですけど。』
一応そう言ってみる。
それに対して彼の人はふわりと微笑んだだけだったが、次の瞬間には物憂げにため息をついた。
何だろうと思っていると。
「…ねえ、ジョミー。
国王様、という言い方は何とかならないものかな?」
そう言われるのに、呼び方に違和感があるのかと納得した。
『じゃあみんなと同じように、『陛下』にします。』
「そうじゃなくて…。
ジョミー、僕は君に自分の名前を名乗っただろう?」
それは確かに…。でも、まさか…。
「ブルーと、呼んでもらえないか?」
『よ、呼べません!!』
当たり前だ。身分違いも甚だしく、こうして馴れ馴れしく話しているだけでも十分無礼なのに、国王陛下を名前で呼ぶなどと…!
「君は声を出せないんだし、分かるものはいないよ?
リオくらいは分かるかもしれないけど、彼はそんなことで怒ったりしない。」
誰かに知られたとしても、僕にそう命令されたと言えばいいことだしね。
そんな…。
すごく、困るのに…。
「ジョミー、一度呼んでもらえないか?」
それなのに彼の人は、君に呼ばれてみたい、と子供のようにせがんでくる。そんな子供っぽい様も魅力的で、さらに思案に暮れる。
「もう、その名で呼んでくれる人は誰もいないからね。」
微笑みながら言われたその言葉に、国王が天涯孤独の身の上であったと思い出す。
でも…。
何も、こんな子供で部外者の僕に言わなくっても…。いや。部外者だからこそ、そんなことを頼むのかな?
悩んだ挙句、顔を上げて彼の人を見つめた。
『でも、ブルー…。
こんな風に呼ぶのは二人だけのときにしていいですか?』
それに対して国王は。
「仕方がないね、今はそれで我慢しよう。」
幸せそうに微笑んでくれたのだった。
4へ
キースなブルーってか…。それでも振り向きざま突然ぶっ放さないだけいいと思って…。 |
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