「…以上です。何か質問は。」
シンは帰国後、休むこともなく空港から直接会社に戻った。同行したタキオンとツェーレンも一緒だが、この二人は相当疲れたらしく、タキオンはあくびばかりしているし、ツェーレンはメモを取りつつもため息ばかりついている。その様子を、ブルーの隣に立つハーレイは苦虫をかみ殺したような顔で眺めていた。
「…いや。分かりやすかった、ありがとう。」
シンらの活動はそれなりに成果を見せていて、プロジェクトの進行は着実なものである反面、検討課題は多い。パートナーとなる輸入業を扱う会社の選定はもう少し慎重にしたいこと。交渉術に長けた人間が社内には極端に少なく、話が具体的になればこちらもスタッフの増強を考えなければならないということ。いや、細かい話をすれば課題はさらに増えるだろう。
…前者はシンの裁量で何とでもできるが、後者はシンというよりもブラウの領域だ。
「現地での事務所も必要になるから、その分を予算に上乗せしておく。その場合は現地でスタッフを雇ったほうがいい。ある程度目星はつけてきた。」
「手回しのいい…。君らしいね。」
「誉められたと思っておく。」
ブルーの笑みを含んだ台詞だが、シンはそっけない。質問の類がないと判断したのか、シンは資料を閉じた。
「ではこれで。」
その言葉に、シンの後ろにいた二人はほっとしたように顔を見合わせてから戸口に向かった。
「待て、シン。君に話がある、君は残ってくれ。」
社長の言葉に。既に廊下に出ていたシンは、その言葉に目を眇めて立ち止まった。
「ハーレイ、君は外して。」
「は、はあ…。」
怪訝そうにドアを閉め、再び部屋に入ってきたシンと、目を白黒させたハーレイが一瞬顔を見合わせたが、お互い気まずくなったのか、さっさと視線を逸らした。
「では…隣の部屋におりますので、ご用の際はお呼びください。」
「ありがとう。」
ハーレイの退出の言葉にうなずいてから、ブルーはシンを見た。シンはと言うと、何の用だといわんばかりにこちらを見下ろしている。
「…やはり会社では別人だね、君は。」
「そんなことが言いたかったんですか?」
あの夜の…。病気のブルーを見舞うために屋敷まで来てくれたときの優しい雰囲気など、露ほども見えない。
「…いや、そうじゃない。」
ゆっくりとかぶりを振ってから、ブルーは寂しげに微笑んだ。
「そうだな、君も忙しい身の上だから単刀直入に言おう。ジョミー。」
その呼び方に、シンは眉根を寄せた。
「もう…17、8年ほど前になるだろうか。あのとき交わした約束を取り消したい。」
そう伝えたのだが…。最初のうち、シンからは何の反応もなかった。緑の瞳をブルーに向けて、ただ黙って立っている。
「そんなつまらないものを後生大事に抱えていられるほど、お互い子どもではないだろう。あのときの君には感謝している。だが…。」
「何を言い出すかと思えば…。」
呆れたようなシンの声が聞こえた。
「僕が帰国したらそんな話をしようと思っていたんですか? 色気のないことだ。」
シンの唇が笑みを刻む。しかし、目は笑っていない。
「子どもの約束だと、そう思いたいのなら思っていればいい。僕は、あのときのあなたと約束したんだ。肩書きもなく、何の力も持たなかったあなたと。」
声音は静かなのに、言葉には激しさを感じる。
「…本人が、もういい、と言ってもかい?」
「誰であろうと、あのときの誓いを破ることはできない。」
そうつぶやいてからシンはゆっくりと歩き、社長席の前まで近づいた。今度はブルーが黙り込む番だった。
「あなたの魂胆は分かっている。『君には将来がある、この会社のみならず、社会的に昇り詰めることができるだろう』と。」
シンの手がブルーの頬に触れた。
「あなただって分かっているはずだ。地位や名誉なんか、僕にはどうでもいいことだということは。」
頬に触れた手が、そのまま下に降りて、ブルーの唇に触れる。反論するな、という意思表示なのか、しばらく唇で止まったシンの指が今度はさらに下へ動く。しかし、ブルーは動かない。何をすると誰何することもしない、堂々たる態度に見えた。
「…では、はっきり言っておこう。君のその思い込みは迷惑だ。」
その途端、形のよいブルーのあごのラインをなぞっていたシンの手が止まった。
「君には大事なプロジェクトを託してある。だから、僕は君を雇用主として利用しているに過ぎないんだ。その対価は給料であり、特別手当だ。ほかの何者でもない。」
シンの目を見据えたまま、淀みなく口が動く。
「望むのなら…地位やポストは用意することができるが、それだけだ。反対に言えば、それ以上のものは何もない。企業戦士である君なら、そのくらいは分かっているはずだね…?」
ブルーを見下ろしている、シンの目。だが、そこには怒りの色はない。ただじっとブルーを見つめているだけだ。その視線に居心地の悪さを感じたのか、ブルーはふいと視線を逸らした。
「ここまではっきり言われても…君は二十年近く前にした約束にしがみつくのかい?」
しかし、シンに怒った様子はなく。
「言ったでしょう、あなたの考えは分かっていると。でも。」
頤にかかっていたシンの手が再び動き出し、くいと上を向かされる。
「あまり自分を卑下して僕を怒らせないほうがいいですよ…? あなたの前では理性が危うい。」
シンはくすっと笑った。ブルーはしばらく目を伏せていたが、やがて目を開けるとシンの手を払った。
「『こんな世界から連れ出してあげる』…。でもジョミー、今の僕は君に黙って連れ出されるわけにはいかない。」
「あなたの許可など必要ない。」
振り払われた手など気にしなかったらしく、シンは微笑んだままそう告げた。
「僕の妨害をしたいのなら勝手にどうぞ。ですが、その場合は相応の対価をいただきます。あなたの言い方を真似すれば、ですが。」
微笑んではいるが…その瞳には冷たいものを感じる。
「話がそれだけなら、僕はこれで失礼します。」
そう言うと、シンは軽く頭を下げた。そしてそのままきびすを返すと、ブルーの返事も聞かず振り返ることもなく、ドアを開けて出て行く。その様子を…ブルーは黙って見送った。
完全にドアが閉まる重々しい音が響いた途端…。室内に一人残されたブルーは、張り詰めていたものが切れたようにエグゼクティブチェアに沈み込んだ。
「…あの子はいつの間にあんな…。」
シンの触れた唇が熱くなったような気がする。そう感じて、自分の指でシンの辿ったラインをなぞってみた。そのとき初めて、自分が笑っている、と言うことに気がついた。
10へ
ここでなだれ込むかと思ったのにぃ!! と言うわけで、やはりヘタレ展開…。(汗) |
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