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 「…社長?」特命プロジェクト対策室の中。一人部屋の中でパソコンを打っていた青年は、ふらりと現れた人物を見て、目を丸くした。
 「ああ、リオ。時間外に邪魔してすまない。」
 「いいえ。それよりも、お身体は大丈夫なのですか…? どうぞお座りください。」
 リオは慌てて立ち上がり、部屋の中央に置かれている応接セットをすすめた。この会社でのリオの最初の配属先は社長秘書室で、ハーレイの補佐であった。そのため、ブルーの体調のことはよく承知していた。
 「シンは今海外に出張中のようだね。」
 「ええ、一昨日発ったばかりです。昨日の夜には、プレゼンの感触はまあまあだと連絡がありました。それは、ハーレイ秘書官にも伝えておきましたが。」
 「ああ、聞いている。」
 社長の返事にリオはうなずいてから、もう暗くなった外を思案気に見遣る。
 「せっかく来ていただいてこんなことを申し上げるのもなんですが、もうお帰りになったほうがよいのではありませんか? 今回はなかなか熱が下がらなかったと聞きます。」
 「…そうだね。」
 社長はつぶやいてから苦笑いした。身体の弱さのことを言われてしまうと、反論ができないらしい。
 「確認したいことがあって、ここに寄ったんだ。それが済んだら帰る。」
 「なんでしょうか?」
 「率直に聞くが…。プロジェクトの進行は順調だろうか?」
 そう言って、リオを見つめた。当然の心配だ、だが社長直轄部署という位置づけから、悪いうわさはなかなか社長自らの耳には入らないものなのだ。対するリオはそんな心配は無用とばかりに、にっこりと微笑む。
 「はい。シンはプロジェクト遂行のための必要最低限なことは心得ていますから。私の異動にしましても、シンが財政課長に話を通してくださったので辞令交付前からここに座ることができました。」
 リオの前の配属先は、会社の予算配分を定める権限を持つ財政課である。話を通すというよりも、傲岸不遜なシンが頭を下げに来たことが、財政課の長の溜飲を下げたためだろう。予算を司る担当課としては、プロジェクトのためとはいえ問答無用で多くの予算を要求するシンに鬱積した感情があるらしい。
 「…君は、シンとの付き合いは長いんだったかな?」
 そのことに関しては特に触れず、ブルーは話題を変えた。リオは、そうですね、とつぶやいてから心持ち上を見上げ、懐かしそうに微笑んだ。
 「付き合いは学生時代からですから、もう4、5年くらいになりますね。」
 シンとリオは、同じ大学の出身で、2年違いでこの会社に入った。孤立無援と見えるシンだが、リオとは入社してからも付き合いがあり、一緒にコーヒーを飲んでいたり、昼食をとっていたりする。
 「でも、出会った当時、私は彼が苦手だったんですけどね。避けていた時期もありましたし。」
 「…苦手?」
 人当たりが柔らかく、誰とでもうまく付き合えるリオが、避けるほど苦手だったというのには、少し驚いたようだ。ブルーの紅い瞳が大きく見開かれた。
 「はい。ご存じのとおり、彼は抜き身の刃のようなところがありますから、近寄りがたい雰囲気を持っていましたので、私に限らず誰もがそう思っていたようですよ。ですが、あの人が実はとても優しい人だと分かってからは…。」
 そのとき、電話が鳴った。しかも、今この部屋にはリオしかおらず、ほかに電話を取れるものがいない。
 「すみません…。今日は外交政策局へ打ち合わせに行っているグループもいるもので手薄で…。少し待っていていただけますか?」
 リオはブルーにそう断ってから電話を取った。時間外なので、本来なら手薄も何もないだろうと思えるのだが。
 リオは、秘書室にいただけあって物腰は柔らかく対応にはそつがない。どうやら、海外に行っているメンバーの一人から、急遽現地へデータを送るようシンの指示を伝えてきたらしい。
 「…いらっしゃい、といえばいいのか?」
 そのとき、背後から嗤いを含んだような声が後ろからかかった。
 「邪魔している。」
 ブルーはそういいながら振り返ると、長い赤毛を後ろでまとめ、銀縁の眼鏡をかけたトォニィがアタッシュケースを片手に立っていた。それに続き、アルテラも疲れたなどとぼやきながら入ってくる。
 「…ま、ここはあんたの会社だ。社内での権力はあるのかないのか、よく分かんないけど。」
 トォニィは薄く笑いながら、自分のデスクに戻った。
 「打ち合わせは上手くいったのかい?」
 「社長がそんな細かいことを気にすることはないだろ? あんたが心配するようなことは何もないよ。」
 取り付く島もない。
 「そう、信じているよ。」
 穏やかに微笑むブルーを、トォニィは嫌そうに目を遣ってから、パソコンを立ち上げて。電話対応をしているリオを見て、何か思い出したように顔を上げた。
 「リオ、今から外交政策局の偉いさんと話してくるから、ジョミーが現地に行っていることを情報として流しとくって言っといてくれ。」
 電話の相手が海外出張しているメンバーだとトォニィには分かったらしい。その言葉に、リオは手を上げて応えた。それを確認してから、トォニィはメールチェックして再び電源を落とす。
 「行くぞ、アルテラ。」
 「なぁに、私も一緒に?」
 「仕方ないだろ、相手がお前の足ばっかり見てたんだから。ちょっとはサービスしとけよ。」
 「あんなスケベジジイ、だいっきらいよ!」
 「何も本当に相手しろなんて言ってないだろ。」
 「言ったら怒るわよ!」
 二人はそんな風に騒ぎながら、それでも連れ立って部屋を出て行った。
 「社長。」
 それを見送っていると、リオが含みありげにブルーを呼んだ。
 「電話口にお願いできますか? シンが出ています。」
 「僕に?」
 「はい、あなたが出社してきて、今こちらにきていると伝えたところ代わってくれと。」
 「…なんだか嫌な予感がするな。」
 苦笑いしながら受話器を取ると、向こうから笑いを含んだ声が響いてきた。
 『聞こえてますよ、何が嫌な予感なんですか?』
 「…すまない、叱られるような気がしたものだから。」
 『大当たりですよ。何をしているんですか、そちらは今19時過ぎでしょうに。病み上がりでそんな時間まで社内にいるなんて…。』
 「君といいリオといい、僕を何だと思っているんだ? そこまで甘やかしてくれなくても…。」
 『日頃の行いが行いだからでしょう。』
 …まるであの夜のようだ、と思った。いつもでない柔らかな雰囲気のシンは、さらに言葉を継いだ。
 『とにかく…今日は帰ってください。無理をすると、またベッドに逆戻りですよ。帰国したら、一番に報告に行きますから。』
 「…分かった。言うとおりにするよ。」
 観念して了解の返事を返したが、シンのいらえはなく。
 「シン…?」
 電話が切れてしまったのだろうか、と首をかしげていると。
 『…愛してます。』
 そんなささやきが…聞こえた。夢見るような、甘い響きが…いつものシンらしくない。ブルーはその言葉に、しばらく沈黙した。しかし。
 「…君のほうこそ、身体に気をつけたまえ。」
 ブルーはシンの言葉に反応を返すことなく、それだけ言ってから『リオと代わる』と伝えて受話器を渡した。リオは、特段不審に思った様子もなく、二言三言電話の向こうのシンと話すと、受話器を置いた。用事はすでに終わっていたらしい。
 「失礼いたしました。シンから早く帰れと直接伝えたいと言われましたので。」
 リオがすみません、と微笑みながら軽く頭を下げてきた。
 「いや。今の電話は急ぎの用件だったのに、邪魔して悪かったね。」
 微妙に話をずらす。だが、幸いなことにリオはその話題にこだわるようなことはなかった。
 「でも、今の電話で大体の要件は済んでしまいましたよ。途中でシンに代わりまして、粗方分かったので、資料は今晩中でよいと。」
 ブルーはリオの笑顔を眺めながら、時計に目をやって苦く笑った。
 「…それを急ぎといわずして、何と言うんだ?」
 シンもリオも、そしてトォニィも。一体どういう神経をしているのだ…?
 「…ああ、そういえば時間外なんですね。」
 ブルーの言わんとしたことに気がついて、リオは苦笑した。
 「でも、シンのこういうところは昔からなんですよ。それでなければ、営業課のエースなどには到底なれないでしょう。」
 そして、そんな彼の性格に振り回されるのにも慣れてますから、と笑う。
 「ただ…彼自身が限界を超えてしまわないかと心配ではありますけど。なまじ丈夫で、体力に自信があるものですから、結構無茶をするんですよ。」
 何せ、倒れる直前まで走り回っていたこともありますからね。誰かにペースメーカーになってもらわないと。
 やり手のシンも、リオにかかればただの無鉄砲な後輩であるらしい。
 「…本当に、君はシンのことを理解しているんだね。」
 「…社長?」
 「いや。君がシンの傍にいてくれるのなら安心だ。」
 リオは訝しげに首をかしげた。社長秘書の経験のあるリオには、ブルーの様子がおかしいと思ったらしい。
 「…やはり、身体の具合がまだ…。」
 「いや、大丈夫だ。それよりも…本来ならシンに直接聞くことだが…人員は足りていないのではないのか?」
 「正直なところ、不足していますが…。シンの執務姿勢についてくることのできないものがいても、彼のストレスになるだけですからね。」
 良くも悪くも、大企業の安心感から来るのんびりとした風潮は、シンの肌には合わないのだ。それは、最初にこのプロジェクトを立ち上げるときに希望を聞いたときの答えだった。
 「君が、シンが優しいと知ったのは…。」
 そう言いかけて。だが、その台詞は途中で不自然に止まったまま、ブルーの口から出ることはなかった。
 「…社長?」
 訝しげに首をかしげたリオだったが、ブルーが立ち上がるのにそれ以上の問いかけはできなかった。
 「ありがとう、リオ。僕は帰るよ。」
 目を伏せてかぶりを振って。そう伝えると、リオはほっとしたようにうなずいた。
 今の言葉が気にならなかったわけではないだろうが、帰る、と言われたことに、安心した。また倒れでもしたら大変だ。
 「ハーレイ秘書官を呼びます。」
 「いや、いい。社長室に戻るから。」
 「では、今こちらを出ましたと電話を入れておきます。」
 「…随分と僕は信用がないんだな。」
 「すみません。」
 笑いながらも受話器を取るリオに、ブルーは苦笑いしながら部屋を出た。
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        | いかん、色気も何もない〜…。次はシン様帰国で、シンブル進展を願う!! |   |