社内に内示さえ出さない、異例の辞令交付式となった。その日辞令交付式があるということは、朝一番に社内LANの掲示板に掲載され、社員たちは、これは一体何事かと仕事も手につかないような状況だった。
海外進出における新プロジェクトの特命室課の設置のための辞令交付であると。
真相が分かった後も、うわさ好きの社員たちなどは、プロジェクト対策室の室長となるシンの異例の登用のことや、嘱託雇用となるが、全員主任クラスとなる4人の見目のよい少年少女たちのことを『色仕掛け』だの『袖の下』だのと言い合った。
辞令交付の会場となる会議室前には、若手の社員を中心に人だかりができていて、周辺の廊下は通行さえままならない。
それでも、抜擢されたシンや4人を見ようと、野次馬根性丸出しで室内を覗いていたのだが。
「ほら、そこ! 仕事に戻りな。」
人事部長、ブラウが濃紺のスーツ姿で歩いてきた。
室長の辞令交付なのに、社長は出席しないのか?
もしかして、社長の意に沿わない人事なんじゃないのか?
知らないということは恐ろしいことで、そんなささやきさえ聞こえてくる。しかも、そのうわさたるや、大体がシンの異例の起用をめぐって、社長と人事部長の意見が食い違ったというものである。もちろんその原因は、シンの日ごろの素行にあるというおまけつきである。
…落ち着いて考えれば、特命プロジェクト対策室は社長の直轄部署になるのだから、当の社長が乗り気でないということは普通考えられないのだが。
ブラウに一喝された社員たちが名残惜しそうにそれぞれの部署に戻っていく。人事部長にらまれると、人事を握る幹部だけにまずいことになる、そんな内心が聞こえてきそうである。
「…やれやれ、うちの社員のゴシップ好きにも困ったものだね。」
すごすごと引き上げていく社員たちの後姿を見ながら、ブラウはため息をついてから会議室に入った。中には、シンと4人の少年たちが立っていた。
シンは黙って前を見て立っていたが、他の4人は所在なさげに携帯電話を取り出してメールを打っていたり、コンパクトを取り出して化粧の直しをしたりしている。
「待たせたね。じゃあ辞令交付式を始めようか。」
そう言うと、少年たち4人はブラウに目を移す。
「今回は、社長の体調が優れないので、私が代理を努める。」
「誰がやっても同じだろ? さっさと終わらせようぜ。」
「タキオン…!」
人事部長の宣言をからかったタキオンを、トォニィがいさめる。だが、シンは黙ったままだった。
「まあそう焦るもんじゃない。期限付きとはいえ、ここの社員になるわけだし、訓示もきちんと聞いていってもらうよ。」
「マジかよ…。」
冗談じゃないぜとつぶやくタキオンを無視して、ブラウはシンに目を移した。
「では、辞令交付式を始める。ジョミー・マーキス・シン、前へ。」
言われるがままにブラウの前にやってきたジョミーは、じっと彼女の顔を見つめたが。
「…?」
なかなか辞令を渡そうとしないブラウに眉を寄せた。
「…いや。あんたを採用した日から、いつかこんな日がやってくるだろうとは思っていたんだけど、それが意外に早かったなと思ってね。」
ふっと笑うと、何を考えたのか、ブラウは上背のあるシンの肩をばんっと叩いた。
「…っ!?」
これには、シンだけでなく後ろにいた少年たちも驚いたように動作を止めた。
「自分から直接辞令を渡したかった、という社長の伝言だ。私もあんたの活躍には期待しているよ。まあ、今回の任命は特例的だから、ほかの社員のやっかみもあるとは思うが、その辺はいつもの肩で風切る威勢のよさで何とか乗り切っとくれ。」
最初のうちは呆気に取られていたシンだったが、その言葉には馬鹿馬鹿しいとばかりにふんと鼻を鳴らした。
「所詮は負け犬の遠吠えだろう。」
シンからは、そんな取るに足りないことという人を小ばかにした態度がはっきりと見える。
「言うねえ。でも、そのくらいの気構えがなくっちゃ困るけどね。それから、そのやっかみゆえに協力的でない部署には、社長直轄という『切札』をちらつかせるのも一つの手だからね。使えるものは何でも利用するがいいさ。」
ブラウはにやりと笑うと、ふっとまじめな顔になった。
「それから、あんたから欲しいと依頼されていた社員の異動の件は一週間ズレることになった。向こうの引継ぎに時間がかかるからということらしい。」
「引継ぎくらい、大したことは…。」
「まあ、アレだよ。あんたが欲しがるってことはやはり逸材に違いないから、今の課長はその逸材を離したくないってことなんだろ。」
一種の嫌がらせさ、と人事部長はウィンクしながら続ける。それに対してシンはしばらく黙っていたが、やがてため息をついた。
「…辞令はどうでもいい。本人をこっちに寄越してくれ。」
「それは向こうの課長と話をしておくれ。こっちからはそれ以上は言えないんでね。」
そう言うと、シンは蔑んだような目を向けてきた。
「なるほど、早速その『切札』を使わなければいけないわけだな。そんなに頻繁に使わなきゃいけないものが、『切札』といえるのか?」
それに対しては、ブラウは肩をすくめただけだった。
「それも、室長としての手腕のひとつだよ。敵を作るだけが能じゃなってことを学ぶいい機会だろう?」
それに対してシンは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「がんばっとくれよ、最年少の室長さん。」
ブラウはと言うと、それは楽しそうに笑ったのだった。
「…ねえ、ジョミーがこんなに一生懸命になる価値あるの?」
新しい部屋の中で、アルテラが新しい事務椅子に座って形のよい足を組みながらツェーレンを見やった。
そのジョミーは今、別の部屋に出かけていて今はいない。
「それ、最初にここに来たときにジョミーに言ったじゃない。」
「そうだな。そのときにジョミーの答えも聞いたよな。」
何を今さらと壁に寄りかかったツェーレンは肩をすくめ、タキオンは呆れたように新しい事務机に長い足を投げ出した。
「…そんなことくらい覚えてるわよ! あのときジョミーは『うるさい』って言って。私たちの言うことなんか全然無視だったってことはね!」
怒りのあまり叫ぶ彼女に、ツェーレンが寂しそうな微笑みを浮かべた。
「…仕方ないじゃない、ジョミーが協力してくれっていうんだもの。どんなにジョミーの力になりたくても、私たちに声さえかけなかったことを思えば…。」
そういわれると、アルテラは悲しげな表情を浮かべてうつむいた。
「…分かってるわよ。ジョミーがずっと一人でがんばってきたってことは。ジョミーに必要にされるなら、何でもやりたいけど…。でも、ジョミーがあんなお荷物みたいな社員に空き放題言われるなんて!」
「それがジョミーの望みだ。」
アルテラの悲鳴めいた言葉が、この部屋に入ってきた少年に遮られる。書類の山を持ってきたトォニィだった。
「トォニィ、だって…!」
「そんなことを言ってる暇があったら、荷物を運んでくれ。車の中にまだ山のように残っている。」
「あ…!」
「トォニィったら、まじめー!」
「お前、いないと思ってたら、そんなことやってたのか!」
口々にいう3人に、トォニィは銀縁の奥のオレンジの瞳をぎらりと光らせた。
「お前たちが不まじめだから俺が一人で働く羽目になってんだろ! ほら、さっさと運べよ。まだ車に残っているんだからな!」
「はぁい。」
「分かったよ…。」
3人を追い出すと、トォニィはため息をついた。
「…仕方ないじゃないか。それがジョミーの頼みなら…。」
トォニィは悲しげに目を伏せたが、それでも気を取り直すと、書類を引き出しに収め始めた。
「…絶対に成功させる。それがたとえ、あの男のためでも…。」
そのつぶやきは、誰に聞かれることもなく、部屋の中で消えていった。
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やっぱ、トォニィは報われぬ恋なのです〜!私的には、人事部長ブラウにしてやられているシン様(ジョミー)が書けて嬉し♪ |
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