『そこに置いておいてくれ。』
社長に渡された箱を見せたときのシンの反応は、素っ気ないものだった。
古びた包装紙にくるまれた小さな小箱は、しいて言えばジュエリーケースの大きさに似ている。指輪とか、イヤリングといったものを入れる、小さな宝石箱のような…。
しかし、男のトォニィにはそれがよく分からない。あいにく、ぴんと来るだろう女性陣二人はタキオンとともに夜の街に出かけていて不在だった。
『グランパ、これは一体何なんだよ?』
トォニィは銀縁の眼鏡をパソコンの隣に置くと、詰問するようにシンを睨んだ。しかし、シンはそれに答えることもなく、ネクタイを解いて上着を脱ぐ。
ここはシンのマンションで、時刻は夜10時過ぎ。
水面下で動くため、就業場所がないトォニィたちは、専らシンのマンションで下準備をしていた。シンは、こうして帰ってからリーダー格であるトォニィから一日分の報告を聞いて、必要があればアドバイスをする。それが最近の日課になっていた。
『妹からだって言ってたけど…。グランパ、まさかあいつの妹からプレゼントってわけじゃないよな?』
あいつとは、当然社長のことだ。
『妹…?』
不思議そうな顔をしたシンだったが、ああ、とつぶやきながら、今度は冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出した。
『あの人の妹などというものと面識はない。何か勘違いしているんだろう。』
そうは言われたが、長年シンを兄のように慕ったトォニィには、それがいつものシンらしくなく思える。
『…何か隠しているだろう…?』
そう言うと、シンはこちらをちらりと見たが、すぐに興味を失ったかのようにスポーツドリンクを持ってテラスに向かった。
『グランパ!』
『隠すも何も、さっきから言っているとおり僕は社長の妹とは面識がない。だから、先方が誰かと間違えているとしか思えない。
とにかく、その箱は明日にでも社長に返してくる。』
言いながら、ネオンライトに縁取られた街を眺めている。心なしか、いつもは厳しい緑の瞳が、ネオンを反射してか優しく映るのに、トォニィは不思議そうにシンを見守った。
…グランパはいつのころからか、まったく笑わなくなった。そのきっかけは何だったのか、いまだによく分からない。誰と話すこともなく、ただ黙って何かを追いかけるように高みへと上るシンを、ただ見ているしかなかった。
だから。
君たちの力を借りたい、と。トォニィたち4人に頼みに来たときには嬉しかった。それまでは、金銭的な援助はしてくれるものの、もうシンは自分たちを顧みることがなくなってしまったのではないかと思っていたのだから。
幼いころ、まわりから見放された自分たちにとって、ジョミーの存在は何よりも心強いもので、彼のためなら何でもしようと思っていたのだから…。
『それで? 当たりをつけた社の反応はどうだった?』
いつの間に部屋に戻ったのか、シンは空になったペットボトルをゴミ箱に投げてからトォニィを振り返った。
『あ、ああ。昨日ピックアップした3社はダメだ。だけど、別の1社なら何とか。』
『どこだ?』
シンはトォニィから書類を受け取りながら、厳しい目で字面を目で追っていた。
何かの気配にふっと目を開ける。
ここには誰もいないはず。使用人だって日中一人しかいないし、夜になれば帰ってしまう。
一体何事だ? と身を起しかけて、身体の重さに閉口した。疲れが出たのでしょうと言われたが、一般的に言えば疲れるようなことは何もしていない。この身体の弱さには呆れるばかりだ。それに。
このセキュリティの厳しい中、強盗が侵入したとは信じがたいが、万が一そうなら逃げることができない。今の自分の身体は、まるで鉛のようだ。
そう思いつつ、暗がりをじっと見つめていたのだが。
…起こしてしまいましたか…?
物陰から、囁くような声がした。
「…なんだ、君か。泥棒かと思ったよ。」
ほっとしたように微笑む姿が月明りに照らされている。
そこには威厳のあるシャングリラの社長であり、敏腕な青年実業家の姿はなかった。代わりに、熱に浮かされたためか、濡れた紅い瞳を持つ今にも折れそうな細い身体の病人だけがそこにいた。
「君は相変わらず神出鬼没だな。警備体制は万全のはずなんだけど、君はそんなことなどまったくお構いなしだ。尤も…、ここには盗むものなど何もないんだけどね。」
そう言うのに、暗闇の気配はくすっと笑う。
盗むものが何もないなんて、そんなことはありませんよ。何といってもここにはあなたがいる。あなた自身が盗まれでもしたら大変だ、あのときのように…。それに、もしあなたを得られるのならば、僕は泥棒になっても構わないくらいですから。
「君がそういう冗談を言うとは思わなかった。」
あのときのように、と言う台詞には答えなかったが、対する気配は気にした様子はなかった。
冗談は言いません。本気ですから。
気配が笑いを含んでそう言うのに、ブルーは笑みを消して悲しげに目を伏せた。
「…トォニィから受け取っていないのかい?」
そう言うと気配は、ああ、と思い出したようにつぶやく。
ええ、受け取りましたけど? でも、僕はあのときの少女があなたの妹だなどとは思っていませんよ。
あのときの少女はあなた自身だ。そのくらい僕にだって分かっています。
「そう、か…。」
懐かしいものを渡されてしまったので、つい素顔のあなたに会いたくなってしまいました。そうやっていると、今のあなたは社長室にいるあなたとは別人のようだ。
「それを言うなら、会社にいる君と今の君とはまったく違う。」
そうですか?
気配が笑いながら数歩前進して、月明かり下に姿を現した。
まろやかな甘い微笑みを浮かべたその顔は、ジョミー・マーキス・シンのものだ。しかし、平生の皮肉な微笑みとはまったく違う。
「…いつもそんな顔をしていたら、さぞかしモテるだろうに。」
「別に僕は、モテたいとは思ってません。あなたのほうこそ、そんな無防備な姿、誰にも見せないでくださいね。虫除けが大変だ。」
言いながら歩み寄って、そのままベッドに腰かける。
「…失望しただろう?」
紅い瞳を伏せてぽつりとつぶやく姿に、シンは眉を寄せる。
「何のことです?」
「君を便利扱いして、無理難題を押し付けて、あまつさえ…、君のプレゼントさえ開けていないことに。」
それを聞くと、シンはくすっと笑う。
「あなたはあれを僕にとって無理難題だと思っているんですか?」
それなら、随分と見下げられたものですね、とこともなげに言いきってしまう。
何か言いかけたブルーだったが、それより先にシンが口を開いた。
「そんなこと、思ってもいない癖に。あなたの目は確かですよ、社内にあのプロジェクトを成功させるものがいるとすれば、それは僕を置いてほかにない。それなのに、気遣うふりをして負けん気を出させようなんて。あなたのそういう姑息なところ。」
大好きですよ、とベッドに横になったままのブルーに囁きかけた。
「……。」
「あなたは、便利扱いだろうが使い捨てだろうが、僕を好きに利用すればいい。だけど。」
言いながら、シンは含みのある笑みを浮かべた。
「僕は僕で、目的がある。」
「…それは、『僕の隣に立つ』という話かい? だがそれは…。」
「僕はあなたがあのときの少女だと分かったから、あの会社の入社試験を受けたんですよ?その誓いは、あなたが男だったからやめるという類のものではありません。」
「…僕は卑怯で薄情な男なんだよ…?」
君を便利扱いして、君の力を利用して。
それでも何一つ見返りはない。せいぜい、社内の地位が上がるくらいだろうが、それは君にとって大した意味を持つものではないだろう。
「そうですね、地位などどうでもいい。増してや肩書などには興味はない。」
当然の答えだ。彼の緑の瞳は、そんなものに向けられてなどいない。
「……。」
「僕の最終目的は、あなただ。」
「…こんな僕に何の価値があるのだか。」
「あなたにはなくても、僕にはある。」
真剣に言われるのに、ブルーはふっと視線をそらした。
「…このプロジェクトが終了したら、休暇でも取りたまえ。君と、君の養い子の7人としばらくゆっくりするがいい。」
そして、シンを見ずにそうささやきかけた。
「必要ない。」
シンは抑揚のない声で応じたが、ブルーはため息をついただけで何も言わなかった。
「プレゼントですけど。」
それには構わず、シンは話題を変えた。
「僕にとっては、あの箱を開封していなかったということよりも、この十数年間あなたが後生大事に持っていてくれたということだけで十分です。」
はっとして見開かれた紅い瞳が、緑のそれと絡み合う。
「ジョミー…。」
「その名で呼ばれるのも久しぶりだ。」
満足気につぶやきながら、シンの手はブルーの頬に手を添えた。
「まだ熱が高いんですね。」
「…君の辞令交付までには治すよ。」
一週間後だっただろう?
いくらか表情の緩んだブルーに、シンは首を振る。
「無理して出てくるくらいなら、僕は辞令を受け取りませんよ。それよりも静養していてください。そのために代理がいるんでしょう?」
たかが紙切れ一枚のことですし。
シンがそう言うのに、ブルーはおかしくなったようでくっくっと笑った。
「…君らしいね。でも、僕だって早く治りたいんだから。」
「ですから、無理せずに静養してくださいと言っているんです。」
「…分かった。」
ようやく了解の返事をもらって、シンは安心したように微笑んだ。
「そろそろ帰りたまえ。僕よりも君が倒れたほうが実害は大きい。」
君はわが社きっての契約率を誇る、やり手社員でもあることだし。僕が休んでいても誰かが代わりを務めてくれるが、君の代わりは誰もいない。
「誉め言葉と受け取っておきますよ。
ではお休みなさい。」
ブルーの冗談めいた言葉にシンは一礼すると、闇に溶けるように姿を消した。あとには静寂だけが残されたのだった。
7へ
突然シンブル風になりました〜!(シンブル風味、からシンブル風へ!!)
ということで、次回辞令交付式。辞令交付代行者、人事部長ブラウ登場です♪大味なブラウも好き〜vv |
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