夜も更けたころ。真っ暗だった営業課にぱっと明かりがついた。
室内を歩きながらネクタイを緩め、疲れたように髪を梳く姿は妙にさまになっており、この場に女子社員でもいようものならため息をついて見惚れてしまうことだろう。
ジョミー・マーキス・シン。
二十代前半にもかかわらず、この社では優秀な業績の持ち主であるが、同時にその素行にはよくないうわさが流れる問題児でもあり、良くも悪くも彼は注目を集める存在である。彼の端正な面持ちと、それを裏切る傍若無人な言動が、それを助長しているといっても過言ではなかった。
「シン君。」
その声に振り返ると、社長秘書のハーレイが眉間にしわを寄せて立っていた。
「何か用か?」
ジョミーはハーレイを一瞥しただけで、構わずパソコンを立ち上げてかばんの中から書類を引き出す。
「君の都合さえよければ、社長が先ほどの話の続きをしたいと言っておられる。」
「…まだいたのか…。」
社長に対して敬語をつけないだけでなく、呆れた様子で言うジョミーに、ハーレイの怒りが爆発する。
「君は相変わらず失礼な奴だな…!
君が得意先に行く必要があると言うから、社長はずっと君を待っておられたのだ!」
それに対してジョミーはハーレイをじろりと睨んだ。
「あんたもあんただ…!
社長のお守りをしてるんだったら、さっさと帰せ。こんなに遅くまで残らせて、風邪でもひかせたらどうするんだ…?
まあいい。じゃあ15分後に社長室に行く。」
その言葉に、ハーレイはおや?と思う。今の言葉は荒っぽいが、社長の体調を心配する意思表示ではなかったか?
一瞬そう思ったが、ジョミーが給水機に行くためハーレイの脇を通り抜けたときにした香りに、そんなことなど吹き飛んでしまった。
「…君、酒を飲んでいるな…?」
その言葉にジョミーは振り返りもせずに給水機を操作する。
「付き合いでね。」
「…女と会っていたのも付き合いか?下手な嘘をつくくらいなら、香水の匂いくらい消しておけ。」
「向こうの営業部長が女だったんだよ。」
紙コップを片手ににやりと笑うジョミーに対し、ハーレイはもう何も言う気がなくなってしまった。確かにルックスはいいし、その見た目でたらしこみ、契約を取っているといううわさすらあるのだから。
「…君が何をしていようと勝手だが、わが社のイメージを下げるようなことだけはやめてほしいものだな。」
「気にしなくても、心配するようなことは何もない。」
ジョミーは表情も変えず、給水機の水を飲み干してから再びパソコンに向かう。彼のメールチェックをする様子を、ハーレイは苦く見やってからきびすを返した。
ちょうど15分後。社長室のドアがノックされた。
「大変だったね。」
入室したジョミーに対する社長の開口一番の言葉だった。
「いえ、別に。」
女と酒を飲んで、どこが大変なのかとの心のつぶやきは、苦い表情の秘書官のものである。
「仕事の話に入る前に、ハーレイからこの社を志望した君の理由を聞いたのだが、よく分からなかったんだ。詳しい意味を教えてもらえるかな?」
そう言ったときの、ジョミーの表情は複雑だった。
悲しそうな、それでいてほっとしたようなよく分からないような顔をしていたが、やがて表情を引き締めるといつもの人を小ばかにしたような表情に戻った。
「あなたの隣に立ちたいだけです。」
しかし、それは面接時に言ったという言葉の繰り返しだった。
「…その具体的なところが分からないんだが。」
「分からなければ分からないで結構。
それで、僕に話とは何ですか?」
ジョミーは社長の疑問に対してあっさりと言い放つと、まっすぐに見つめた。
「君、きちんと社長の質問に答えたらどうだ!?」
「僕の答えは何度聞いても同じだ。これ以上説明する気はない。」
「なんだと…!」
「分かった。」
赤い瞳を伏せて、社長はその形のよい長い指を組んだ。
「では、もうひとつ教えてほしい。
君の言葉は、君には重要な意味を持ち、どうやら僕に関係しているらしいが…。しかし、赤の他人が聞けばまったく意味の分からない疑問の残る言葉だ。それは認めるだろうね?」
ジョミーは黙っていたが、それは今までのように取るに足らない話と無視しているわけではなく、何を言い出すのだろうと身構えているためだとはっきり分かった。
「その言葉が原因で入社試験が不合格になった場合、君はその後どうするつもりだった?」
「この会社のライバル会社に入社を申し込もうと思っていました。」
即答だった。
「幸い、肥大化したこの会社を潰そうと思っている企業はいくつもありましたし、ひとつふたつ断られても次に行けばいいと思っていましたから。」
「シン君!君はなんと言うことを…!!」
「ハーレイ。」
激昂する秘書官を黙らせ、美貌の社長はゆっくりと目を開けてこちらを見やる。
「それは…、僕の隣に立つという君の目的のためか?」
そう言うと、ジョミーは社長を見つめたままうなずいた。
「それなら、いい。
さて、随分と時間を取ってしまったが、先の話の続きだ。君に新企画の担当を…。」
「社長!あなたはさっきから彼の言っていたことを聞いていなかったのですか!!」
入社試験に不合格になればライバル社に行く予定だったと。その意味するところは、おそらく報復に他ならないだろう。
普通なら、現在の自分の雇用主たる社長に言う言葉ではないだろうし、そんな言葉をこともなげに言い放つ社員を信用する社長もいないだろう。
「聞いていたが?僕は心の底からブラウの英断に感謝したい気分だった。」
「そうではありません!」
言い張る秘書官に、社長は微笑みながらジョミーを見やった。
「では、彼に改めて尋ねてみようか。
シン君、君は今もこのシャングリラ・コンツェルンを潰そうと思っているのかね?」
そう問えば、ジョミーは揺るぎのない目を社長に見据えたまま、口元に笑みを浮かべる。
「今は目的の線上に会社の発展があるから、潰そうなどとは思っていない。」
また『目的』だ。さっぱり分からないとばかりに、ハーレイはため息をついた。
「もういいかな?
それで、君を呼び出したのは…。国内需要に限界が見えてきたこともあって、海外に進出しようと思うのだが、そのプロジェクトを君に任せようと思ってね。」
そう切り出せば、ジョミーは難しい顔をして心持ち上を見る。
「…海外?」
「そうだ。」
「まあ…、不況だからね。でも。」
と、今度は苦笑しながらつぶやいた。
「…結構思い切ったことする。そんな体力あるの?」
皮肉っぽい口調ではあるが、楽しそうに言うジョミーに、意外かな?と微笑む。
「力があるうちにやっておかないとね。それで君の返事は?」
促せば、ああ、とうなずいて。
「その前に、確認したい。
僕がメインとなるとして、その指示系統と予算とスタッフについて。」
「コホン、それについては私が答えよう。」
他人のふりをしたかったが致し方ない、とばかりにハーレイが口を出す。
「指示系統は、社長の直轄で単独部署となる。しかし、他部署とは積極的に連携を取ってもらいたい。
予算は、この事業が最優先となるのでかなりの額を使用できるが、経済的かつ効率的に。
スタッフは、出来る限り君の希望を優先し、人事部と協議する。」
「それなら僕の希望を言わせてもらう。
社長の直轄は断る。誰の下でもいいが、出来れば尻尾切りしてもいいような奴でいい。ハーレイ秘書官、あんたの下で十分だ。」
尻尾切りなどと言われて、ハーレイは目を白黒させた。
「予算は了解した。
それからスタッフは、この社内では使えそうな人間がほとんどいない。せいぜい一人だけだ。あとは僕が選ぶから、嘱託でも派遣でも必要な形態を取ってくれ。」
立て板に水式に切り返された台詞に、ハーレイはしばらく反応できなかったのだが。
「後の二点は承知した。
しかし、僕の直轄については、君がどう言おうと変更しない。」
割り込んだ社長の涼しげな言葉に、ジョミーは怪訝そうな顔をする。
「…何かあったら、あなたに責任がかかってくるんだよ?」
「君を信用しているからね。」
にこやかに言う社長に、ジョミーはため息をつく。
「…あなたのそういうところ、敵わない。
まあいいや。それで、異動はいつ?」
「翌月の一日を予定しているが?」
「2ヶ月延ばしてくれ。こちらにも準備がある。」
ジョミーの言外の了解に、社長はうなずいて目を細めた。
「今日は疲れただろうから、詳しい話は明日にしよう。」
「そうさせてもらう。」
珍しく従順なジョミーに、社長は微笑み、ハーレイは呆気に取られた。そのジョミーは、疲れたとばかりに社長室を出て行く。例によって礼儀も何もない退出の仕方だった。
「ハーレイ、今日は付き合わせてすまなかったね。」
「いえ…。」
おそらくジョミー以上に疲れたであろう秘書官は、何度目かのため息をつきつつ、社長を見やった。
「…こうなった以上、彼を信頼するよりほかがないのですな…。」
「そういうことだ。
では、すまないが車を回してくれ。」
「は…、分かりました。」
ようやくこのわけの分からない会談から開放されると思ったせいか、晴れ晴れしたハーレイの表情だった。社長室を出て行く足取りも、気のせいか軽い。
「…『いつか隣に立つから待っていて』、か…。」
嬉しそうな、しかし切なげなつぶやきが社長室の中に漏れたあと、部屋の明かりが落ち、ドアが閉まる音がした。
4へ
シン様の非常識ぶりと純情さが書きたくて、またまた連続あっぷぅ。
それにしてもハーレイ、どこに行っても苦労人。シン様を教育するためにがんばれー! |
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