『そろそろ君を本社に戻そうか』
3日前、ブルーから電話があった。プロジェクトは軌道に乗りつつあるし、たとえ自分がここを離れたとしても大丈夫だとは思うが…。
シンはそんな風に考えながら飛行機から降りた。
取締役会での一件からひと月。騒ぎは大分収まったものの、不正を働いた取締役の処遇や監査役の引責など、まだまだやることは残っているらしい。
…本社も人手不足だということか。もともと人材不足であったというのに。使える人間がいないということは辛いな。
…本社の社員たちが聞いたら怒りそうなことを思いながら、シンはタクシーを拾った。
『なるべく早く、こっちに来てくれないか。折り入って相談したいことがある』
…あの人がこんなにしおらしくするときには、ろくでもないことが起こりそうだが。
シンはタクシーの運転手に、シャングリラ・コンツェルン本社までと告げると、外の景色を眺めてから、目を閉じた。どこか苦い表情には、ほのかに笑みが浮かんでいたのだが。
シンが本社に到着し、ブルーと会うべく秘書室に顔を出したときだった。
いつもはシンの顔を見ると、苦虫をかみつぶしたような顔をするハーレイが、急にほっとしたような表情になってシンを迎えるべく立ち上がった。
…なんだ?
いつものハーレイならシンの顔を見た途端嫌な顔をするというのに、この待遇の差は一体何なんだろう。
「待っていたよ」
「…誰を?」
シンの悪い予感は確信に変わっていった。
「君からも社長に言ってやってくれないか。引退にはまだ早いと」
その言葉には目が点になる。
「…引退?」
怪訝そうな顔をしたシンに、ハーレイは「聞いてないのか」と驚いたように目を見開いた。
「社長は、シャングリラ・コンツェルンの代表を降りるとおっしゃっているのだ。自分はもともと社長には向いていないからと」
「…向いているかどうかは知らないが、見ていて痛々しいところがあるとは思っていた」
ハーレイはむっとしたような表情を浮かべたが、次にはため息をついて、「そうだな」とつぶやいた。
「確かに無理をしているところはあっただろう。身体が強くないというのに、社長業は激務だからな。しかし、あの方だからこそ、この会社はここまで持ち直したのだ」
「ここには他人をあてにするだけで、自分たちで何とかしようとする人間がいないからな」
シンの皮肉を含んだ言葉にハーレイは一瞬詰まったが、苦虫をかみつぶしたような顔をしてうなずいた。
「…つまりはそういうことだ。社長の両肩にかかる重圧はさぞかし重いものだろう」
加えて、不正を働く幹部までいることだし、とシンは心の中で追加した。
とはいえ、突然の辞意には疑問を抱かざるを得ない。確かに最近、社内ではさまざまな問題が起こっているが…いや、だからこそ解せない。
「…しかし、あの社長が後のことを放り出して辞めてしまうなんてことはあり得ない」
責任感はひと一倍強い人なのだから、と続けるのに、ハーレイは目を丸くしてシンを見つめた。
「それも…聞いていないのか」
…何のことだ?
訝しげにハーレイを見返し。その次の言葉を聞いた途端、シンはハーレイの許可も得ず社長室に飛び込んだ。
「おかえり、シン」
「…何をやっているんですか…」
「身辺整理だが?」
在任期間が数年に及ぶと、ある程度の書類は積み重なるものだ。ブルーはいつもは何もない机の上にファイルを山のように乗せて引き出しを覗き込んでいた。
「だから、それは一体どういうことなんですか!?」
「シン君、興奮しないで…」
シンの怒鳴り声に、ブルーは書類を整理する手を止めて顔を上げた。後ろで困っているハーレイをちらりと見てからシンのむっとした表情に視線を移す。
「…そうだね、君にはきちんと話しておかないとね」
座りたまえ、とソファを進められたが、シンはむっとした表情で首を振った。
「ここで結構です」
「…そうか」
ブルーは社長席に座り直し、シンはその前に立った。ちょうど、新プロジェクトの説明を受けたときのように…。
「ハーレイ、君は外していてくれ」
「は…はあ…」
そう言われて、ハーレイはしぶしぶ隣室に引き上げた。その様子を見送ってから、ブルーは再びシンを見つめた。
「…君は僕を追ってきてくれたんだったね」
「ええ。あなたをその席から奪うために」
シンはブルーを見下ろしながら言い放った。
「だから、あなたが僕を後任に指名したとしても、あなたのいないこの会社の面倒をみる気はありません。あなたがそこまでズレた人だとは思いませんでした!」
「…残念だな、君になら任せられると思ったんだけどね」
「たとえ僕にその能力があったとしても、そんな気はありません」
再びしっかりと否定の言葉を返されるのに、ブルーはため息をついた。それを見ながら、シンは拗ねたように口を尖らせた。そんな子供っぽい仕草は、シンには珍しい。
「…言ってみれば、恋敵に協力するようなものですから」
「恋敵?」
その言葉に、ブルーはきょとんとして。そして次の瞬間にはぷっと吹き出した。
「か、会社が恋敵…。君はおもしろいこと言うね」
シンはと言うと、不貞腐れた顔をしてブルーを睨んだ。
「あなたには笑いごとでしょうけど、僕は真剣なんです!」
「すまない、でもあんまり君がかわいいものだから…」
ブルーはそう言いかけたが、シンに睨まれて言葉を止めた。
「とにかく! 僕はこんな会社に貢献するなんて、金輪際御免こうむります! 何度プロジェクトを頓挫させようと思ったかしれないというのに!」
「でも、君は結果的にプロジェクトを成功させたじゃないか」
「それは、あなたがいたからです!」
ブルーは何か言おうとして。しかし、シンの目を見て何も言えなくなった。シンの緑の瞳には、淀んだ色しか浮かんでいなかったからだ。
「…この会社は、僕の大切な人を苦しめて殺そうとした人間が、何よりも大事にしてきたものですからね。僕の思い人が許したとしても、僕は許すことができません。できれば、僕の手で片をつけてやりたかったくらいでしたが、残念ながらその前に亡くなってしまったようなので!」
その中にあるのは、まぎれもない殺意。ブルーは真剣なシンの表情を見つめながら、苦く笑った。
「…それはよかった。君を犯罪者にするわけにはいかないからね」
「あなたが言わないでください…!!」
間髪いれずに言い返された台詞に首を振ってから、ブルーはシンをまっすぐに見つめた。
「…でもジョミー。本当にそんなことで君が罪を背負う必要はないんだよ…? 僕にとっては、君がまるで自分のことのように怒ってくれたことだけで十分だった。君が僕の境遇を知って、僕の分まで嘆き悲しんでくれたから、僕は自分を追い詰めずに済んだんだ」
ささやくような言葉。それでもシンは不満そうに黙り込んだ。
室内に沈黙が落ちる。シンはブルーから視線を外し、書棚の方向を見つめたまま口を開こうとしなかった。
「…君は僕のことを恨んでいると思っていたよ」
ぽつり、とブルーはつぶやいた。だが、やはりシンは黙したままだ。
「いつかこんな世界から連れ出してあげると誓ってくれた君を裏切って、僕自身があの人の事業を引き継いでしまったのだからね」
それでもシンはブルーを見ようとしない。
「だから、君が僕の隣に並ぶと宣言してこの会社に入社してきたと聞いたときには意外に思った。…知ったのは随分とあとのことだったけどね。でも、君のことは入社時から気がついていた」
シンの沈黙に構うことなく、ブルーは続けた。
「気がついていて…知らないふりをした。僕は君の思いに応えることはできない。それなら、僕などに構わず、君の道を歩いていってほしいということができればよかったが、それも言えず。…結局僕は、君の思いを踏みにじった上に君を利用した」
「…僕を利用したいのなら利用すればいいと言ったはずです」
シンはそれだけ告げて、また口を閉ざした。
「…ありがとう」
だから、自分を責めるにはあたらないと言外に伝えるシンに、ブルーは微笑んだ。
15へ
前回のときには、あと一遍で終わらせようと思っていましたが、やはり『誓い』自身に触れないとダメですよね〜。
で、次は十数年前にタイムスリップ♪ |
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