シンが戻ったのは、シドたちが来た翌々日だった。
まさかこのままこちらが帰国するまで逃げ切るわけではないだろうなと、前日トォニィに詰め寄っていたのだが、そんなつもりではなかったようだ。…よくよく考えれば、シンが逃げ回るなどということが起きれば、例の密告を肯定することになるのだ。
「…そうか、今は君が監査部門にいたのか。」
自分の執務室に山と積まれた書類を見ながら、シンは驚いたようにシドを見つめた。だが、次には口元に笑みを浮かべる。
「監査の割に、まじめにやっているようだな。」
「…どういう意味だ…?」
むっとしたシドに、シンは鼻を鳴らす。
「監査部門が閑職だということは、周知の事実だろう。監査役はいろいろとしがらみがあって、強く出られないからな。」
それは確かに影でささやかれていること。監査役は退職した会社役員の最後の花道なのだから、結局のところ、仲間同士の馴れ合い監査にならざるを得ないのだと。実際、シャングリラ・コンツェルンの監査役は、専務取締役を退いた男だ。
薄く笑うシンとそのシンをにらみつけるシドの間では、ショオンが困ったように二人を見比べている。
「君がそう思うのは勝手だが、かつての仲間だからこそ内部牽制をしっかりと確立すべきだと思っている。」
シドがそういうと、シンは小馬鹿にしたように笑った。
「それはご苦労なことだ。で、何か見つかったのか?」
得意先の女性をたらしこむといわれる笑顔を浮かべながらのシンの挑発に、シドはむっとしながらも息を吐いた。
「…大なり小なり、会計上のミスはある。」
「では、致命的なものはないのか。立ち上げたばかりの会社にしては優秀だな。」
「しかし、まだ監査の途中だ。いくつかの取引を抽出的に確認しているが、いくつか解せないものがある。」
そういうと、シンは面白そうに笑った。
「…関係人調査か。だが、この土地柄かのんびりした気質の人間が多くて、まともに帳簿をつけている人間こそ少数派かもしれないな。」
…それがために、調査が進まないということは、すっかり分かっているらしい。もしかして、それを選んで取引先にしているんじゃなかろうかと思えるくらい、この会社の取引先は金銭的にルーズだ。
シンの会社の経理を見ると、事業規模のため取引される金額が大きいのは仕方ないとして、その相手業者に偏りが見られる。同じ相手先の名前が何度も登場する。聞けば大きな仕事であるため、扱うことのできる業者は限られるのだというが、やはり不自然だ。もしかすると、その相手先こそがシンの財布代わりになっているのではないだろうかと思えるくらいなのだ。
そう考えて、相手先の経理に踏み込むことにしたのだが…。
だが、取引の裏づけとなる事実を確認しようとするも、まったく効果が上がらない。シンが言ったように、二重帳簿どころか帳簿そのものがない。あっても、単なるメモ書きのような程度で、信用に足る書類とは思われなかった。不正の事実を匂わせるようなメモであっても、その事実を指摘するための資料としては役不足だ。
帳簿があてにできないのなら、ひたすら相手先の事務員に聞くしかない。だが、相手業者はワンマン社長がすべてを仕切っており、ショオンとともに正式に監査に協力してもらえないかと出向いてみたが、けんもほほろに断られた。
『この土地は、信用という言葉を取引の中によく使う。あんたたちにとってみれば取るに足りない口約束が、契約書よりも重視されることが多い。そのくらい感覚が違う。まあ、こっちはそれじゃ困るから、形式だけは整えてもらっているけどさ。』
関係人調査が遅々として進まないのに苛立って、トォニィに詰め寄ったときの返事である。
『そっちの仕事は分かるけど、こっちの取引先に無理難題を押し付けて関係を悪くしないでくれよ。大体、あんたたちはシャングリラ・コンツェルンの監査部門であって、向こうにとってみればさしたる関係はないんだからさ。』
…そのとおりである。相手業者には監査に協力を求めるのみで、強要はできない。おまけにここは海外で、自国にいるのとはわけが違う。
それに、とシンは笑う。
「重要な部分は公認会計士に頼んでいる。監査がごちゃごちゃ言う筋合いはないな。そういえば。」
シンは思い出したように改めてこちらを向いた。
「なぜこんな中途半端な時期に監査に来たんだ? 理由は何だ?」
「理由はない。しいて言えば、立ち上げたばかりの会社だから、誤りがあるならさっさと正してしまおうと思っただけだ。」
密告とはいえ匿名のものを信じてここに来たということは、さすがにいえまい。
「…ならばしっかり見ていってもらおうか。こちらとしても、間違いがあれば早めに正したいからな。」
…こいつは、密告のことを知っているんじゃないのか…?
含みありげに笑うシンに、シドは眉を寄せたが。
「君の暮らしぶりも見せてもらいたい。」
投書には触れずにそう切り出した。シンは腹を立てた様子はなく、こちらに視線を送ってきただけだった。
「…これはこれは。まるで僕が横領でもしているかのようだな。まあ、いいだろう。」
いいながら、ふっと腕時計を見る。
「告発に対する君の復命もあることだろうしな。だが僕はすぐには出られない、もう少し待ってくれ。」
そういってからシンはシドを眺めてにやりと笑った。
「ただし、ろくなもてなしはできないがな。それでも、ブランデーくらいならあったか。」
「…そんなものはいらん。」
…密告のことは、やはり知っていたらしい。しかし、シンはそれ以上何も言わず、たまった書類に目を通し始めた。シドたちのことは、瞬時に頭の外に追いやられたようだ。その集中力にも舌を巻く。
…何のかんのいって、こいつの機動力は同世代の社員とは比べ物にならない。
シンの秀麗な横顔を眺めながら、ふっと思う。入社当時から、女子社員から人気があり、それは今も継続中だが、反対に男子社員からはそのモテまくるゆえのやっかみと、仕事の評価に対する嫉妬とを受けている。
…あの投書が本当なら…というよりも、多分本当だと思うが、こいつの目的は一体なんなんだろう…?
ふと考える。
贅沢を望めばきりがないが、そんなことに心血を注ぐような奴じゃない。賭け事に興じるようにも思えないし、こいつに入れ込む女は多くても、女に入れ込むとも思えない。
「…シドさん…。」
ショオンの呼びかけに、シドははっとして振り返った。うっかりシンを見つめてしまっていたことに憮然とした。
「…何だ?」
「ここなんですけど…。」
シドはショオンの指した場所を注意深く見つめる。細かいミスだが、そこから不正が発見されることもある。それは監査の経験によるものである。
しかし、今回はかなり難しい。自社の書類だけでは、不正の事実は分かりにくいからだ。大きな取引の際には公認会計士に入ってもらっているといっていたが、そういうだけあって、書類だけは完璧に整っている。だからこそ別の側面から切り込みたいところなのだが、関係人調査が進まないため、確たる証拠が出てくる可能性は低い。
…それでも、まだ方法はある。諦めるのはまだ早い。
「…こういう随時監査は、告発の類がないとしないものなのか…?」
シドが密かに次の手法を考えていると、シンが思い出したように口を開いた。
「…別に告発があったからと言うわけじゃない。」
もう今更隠しても仕方ないと思いつつ、シドは首を振った。
「ならば、もっと別に行くべき場所があるだろうに。しかも近場に。」
「…何のことだ?」
「会社を食い物にしようとしている輩は、もっとほかにもいるといっているんだ。」
その言葉に、シドは眉間にしわを寄せる。海外くんだりまで調査に来るくらいなら、調査するべき場所が別にあるのではないかとシンは言っているのだ。
「…君は何か知っているのか?」
注意深くそう問えば、シンは含みありげに微笑んだ。
「さて。今僕が何を言っても、自分の不正疑惑を逃れるための方便だと思われるだけだろう。それに、そういうことを調べるのは、君たちの仕事なんじゃないのか。」
澄まして言われた台詞に、シドはむっとした。しかし、実際そのとおりである。
「君たち監査は、内部統制を保つのが目的なんだろう。ことが露呈してから、何を調査していたのかと言われないようにがんばることだな。」
「…だから、君は何のことを言っているんだ?」
「それを調べるのが君たちの仕事だと言ったはずだ。」
そういいつつ、シンはパソコンをパタンと閉じた。
「僕のほうは一段落ついた。君たちさえよければ、僕のアパートにでも行ってみるか?」
シンの自信たっぷりな様子に、これも空振りの可能性は高いと…。そう思ったが、何か分かる可能性も否定できないと思って、シドはうなずいたのだった。
結局。
シンのアパートはこざっぱりとしていたが、思ったほど華美なものではなく、暮らしぶりが特別よいようには思えなかった。金目のものなどなければ、賭博をしているような様子や女に貢いでいるという評判もない。
その後、関係人調査の調査枠を広げ、事業の入札に参加したが落札できなかった会社にも事情を聞きにいってみた。しかし、まったくコメントをもらえない。入札参加しなかった、または入札の指名を受けなかった会社にも行ったが、結果は同じだ。
…もし地域ぐるみで談合しているのなら、どうしようもない…。そういえば、トォニィが信用などという口約束を重視する土地柄だといっていたな。
そんなことを思い出した。
それなら、そういった結束はこちらが考えているよりも強固なものではないだろうか。それに、こちらはシャングリラ・コンツェルンの監査部門であって、警察でも何でもない。強制力は一切ないのだ。
「…そうか、シンは限りなく黒に近いグレーというところか…。」
ハーレイはシドの報告を聞いてからため息をついた。
「は…。お役に立てず、申し訳ありません。」
シドは神妙に頭を下げた。
「この後も、彼の身辺については注意します。それから、彼に気になることも言われましたので…。」
「気になること…?」
「会社を食い物にしているものはほかにもいる、と…。」
ただのうそとは思えない。シンは、そんな不確かなことを口にするような男ではない。
「分かった。では、そちらも調べておいてくれ。」
ハーレイがうなずくのを確認してから、シドは再度頭を下げてから社長室のドアの向こうへ消えた。
「…今報告のあったとおりです。」
「つまり、不正の証拠はなかったということだね。」
ブルーは社長席で事の顛末を聞きながら、傍らのハーレイを見上げた。
「…証拠をつかめなかっただけだと思います。」
頑固に言い張るハーレイに、ブルーは笑った。渋い色を浮かべているハーレイに対し、涼しげな表情である。
だが結局のところ、これでシンの経営する子会社は、注意事項はいくつかあるものの、適正会計だと認められたようなものなのだ。想定したものと違う結果を生んでしまったのは、ハーレイにとっては当て外れであっただろうが、シンにとっては嬉しい誤算となったはずだ。いや、もしかして。
…それが狙いだったのか。
そう考えれば合点がいく。妙に内部事情に詳しい、事実だと信じさせるような文面は、さすがに同じ内部の人間でなければ書けない。おそらくハーレイもその可能性に行き当たっていることだろう。
「それよりも僕としては、シンが言った『会社を食い物にしているものはほかにもいる』といった台詞の方が気になるな。彼は、いい加減なことをいう性格じゃない。」
「…確かに…。」
それにはハーレイも不承不承うなずいた。
「その辺はシドの調査に期待しようか。だが…。」
まったく、食えない子だ…。
口に出せば、ハーレイが怒りまくることが目に見えているため、ブルーはこっそりと内心でつぶやいた。
あの悪ガキは、今ごろ水面下で何をしているのやら…。
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あああ〜、ブルーとシン様の絡みがない〜〜!
次回、シン様帰国で種明かしに期待!! |
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