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    いつもと変わらぬ水の流れ。それは大地を潤す天の恵みである雨からもたらされるもの。この土地が豊かであるのは、ひとえにこの河川のおかげである。ブルーはその光景をただ眺めながら退屈そうに伸びをした。
 …つまらない、な。
 ついぼんやりとそんなことを考えたが、苦笑いを浮かべて首を振った。
 悠久のときの流れを見守るのが役目である自分には、退屈が一番の幸せなのだ、と思いなおす。これで、外的要因が引き起こす天変地異でも起れば、とんでもないことになるのだ。それが作為的ならばなおのこと。だから…。
 この平和を、ありがたく享受していればいいのだ…。
 そう思って薄く眼を閉じたそのとき。
 聖域に自分とは別の気配を感じ、はっと目を見開いた。
 …何者だ? ここは結界に守られている。ほかのものが入りこめるはずが…。
 そう思いかけて。
 その気配が人間のもので、しかもそれが子どもだと分かって、驚いた。『神』と呼ばれる存在さえ、自分が許可しなければここに入り込むことは不可能に誓いと言うのに、ただの人の子がこんなところにいること自体、不自然だ。
 ブルーはすいと立ち上がると、子どもの気配のある方向に向かって行った。
 一体、何者だ…? 魔術を極めた人の子なのか…? いや、それにしたって…。
 頭の中で自問自答しながら現場に瞬間移動すると、金の髪に緑の瞳の少年が、きょろきょろとあたりを見回している。年のころは7,8歳か。ひどく不安そうだ。
 …こんなただの子どもがなぜ…。
 「何をしている」
 特に怒鳴りつけたわけではなかったが、少年はびくっとしてこちらを振り返った。その少年の顔が、ブルーを認めた途端目を見開いて、口を半開きになる。それっきり、時間が止まってしまったかのように、少年はこちらを穴があくほど見つめた。
 …僕の顔に何かついているか…?
 その様子にブルーは眉をしかめた。
 「…何をしているのかと聞いている。聞こえていないのか?」
 そういうと、少年ははっとしたように居住まいを正した。
 「ご…っ、ごめんなさい! 僕はジョミーって名前で…」
 「そのジョミーがなぜここにいる? ここには何人たりとも足を踏み入れてはならない場所だ」
 それなのに、入り込めるこの少年は一体何者なのか。
 心の中で追加しながら、ブルーは目の前の少年をじっと観察した。
 少年が来ているのは、簡素な服装だ。ごくごく普通の平民の子どもなのだろうと思うが…そんな少年がここにいるということ自体、おかしい。
 「僕…っ、川の神様にお会いできるように一生懸命お願いしたんです! 僕たちの家を氾濫で沈めないでって…!」
 「…何の…話だ?」
 家? 氾濫? 沈める…?
 訝しげに目を細めたブルーだったが、少年はがばっと土下座した。
 「毎年、雨季になると大雨が降って、僕の村は洪水に飲みこまれてしまうんです…! ちょっとやそっとの洪水じゃなくて、家まで浸かってしまうほどの水なんです。毎年死者がたくさん出てるんです…!」
 …それがなんだ?
 ブルーは頭を地面にこすりつけるようにしている少年を、首をかしげて見た。
 「だから、川の神様にお願いします! 僕たちの村を沈めないで! 河を氾濫させないで…!」
 …一応話は分かった。分かったのだが…。
 「で、君はなぜここにいるのだ? どうやってここまで来ることができたんだ…?」
 不可侵の領域に。
 するとジョミーは顔を上げた。
 「僕…っ、川の氾濫を治めるためのいけにえとして、小さな船に乗って来ました。滝壺に落ちる瞬間、僕一生懸命お祈りしたんです! 僕の命をあげるから、みんなを助けてって!」
 …いけにえ…?
 そういう伝承が存在することは知ってはいたが、まさか自分の守る土地の人間までそんなことを信じていたとは知らなかった。いや、そんなことよりも。
 では…この少年は一度死んでここに来たということなのか? いや、たとえ死んでいたとしても、人ごときの魂がこんなところに入り込める余地はないはずなのだ。それ以前に、この少年の放つ生気は、決して死者のものではない。
 そう考えていると、少年は戸惑いがちに改めてまわりを見渡した。草木が茂り、豊かな水が川となって流れている。こずえでは小鳥がさえずり、蝶が舞い、楽園のような場所だ。
 「だから…僕、命と引き換えにここに来たんだと思います」
 …いや。そんなわけはないだろう。死者がここまでしっかりとした存在感を示すはずがない。
 だが、あっさりと自分の死を認めた少年は再びじっとブルーを見つめた。
 「あなたは…川の神様なんでしょう?」
 「…そんな呼ばれ方をしたのは初めてだけど…まあ、土地神とでもいうようなものかな」
 「やっぱりそうなんですよね。じゃあお願いします! 僕の村を沈めないで…!」
 再び頭を下げる少年に、ブルーはため息をついた。
 「…川の氾濫は、大地に豊かな豊穣を与えてくれる。君たちの村もそれで潤っているはずだ」
 「そ、それはそうだけど…!」
 「自然の摂理は無意味なわけではない。洪水は肥沃な土地をもたらし、人はそこで作物を育て、文明を発達させる」
 ジョミーは言葉に詰まったようにうなだれた。
 「だが…。氾濫が起こるのはいたしかたないとして、それがために多くの人の命が犠牲になるのは、確かにゆゆしき問題だ。ましてや、それがために人柱まで立て、神頼みに至るとなると余計に」
 そう言われるのに、ジョミーはがばっと顔を上げた。
 「じゃあ…!」
 「しかし、僕は何もしない」
 凛とした言葉に、ジョミーは再び言葉を失った。
 「僕はここで、この国の行く末を見守るのが役目だ。だから、何もできない」
 その容赦のない台詞に、ジョミーはがっくりとうなだれた。
 「…だって…」
 悲しそうなささやきが聞こえた。
 「だって、僕のパパだって死んじゃったんだ。僕の友達を助けようとして…でも、結局パパも友達も…」
 ジョミーは悄然として肩を落とした。その様子に…ブルーは落ち着かない気分になった。
 なぜだろう、この子が並よりもかわいらしい外見をしているから? まさか! 僕にはそんな感情はない。
 そんなことを考えつつ、それでもこの少年はここまで来たのだから、と思い直した。人の身で、しかもこんな年端も行かぬ子どもで人柱になるなんて、どんな気持ちだったのだろう。
 「…だが、治水対策はできるだろう。僕は何もしないが、これなら人が集まればできないことはない」
 その言葉に、ジョミーは目が落ちるほど瞳を見開いた。
 「一番簡単で手っ取り早いのが、水量調節を行うため池をつくることだな。余力があれば、ダムにすればいいだろう。ただし、君たちの集落よりもさらに下流の集落にも影響はあるから、決して完璧な治水を行おうとしないことだ。死者が出ない程度、そのくらいがいいだろう。灌漑技術のことまで言い出すと、きりがない」
 ジョミーはじっと聞き入っている。
 …本当に分かっているのだろうか…。こんな子どもには難しい話だと思うが。
 そう思いつつ、もう一度口を開く。
 「さっきも言ったが、ある程度の人数を必要とする。日数も資金もかかる。子どもである君が戻って必要性を説いても、動いてくれるかどうか…」
 「戻るって…僕、死んでるんでしょ?」
 きょとんとした顔でブルーを見つめる。
 「いや。多分君は生身でここに来たのだろう。下界に戻れるはずだ」
 それなら、思いの深さだけでここに来たことになる。それはそれで信じがたいことだが…それほど少年の願いが強かったのだろう。
 「僕、生き返るんですか?」
 それなのに、少年は不思議そうに見つめてくる。
 「…君は死んでいないと言っているだろう」
 少し不機嫌そうに言えば、少年は慌てて「ごめんなさいっ」と頭を下げてきた。
 「あなたの言葉を疑うわけじゃなくて…! 僕、神様に食べられるか、一生お世話をしなきゃいけないと思っていて…。いまさら戻れるなんて思ってなかったから…」
 「僕は人間など食べないし、世話をするための使用人も置いていない。つまらないことを言ってないで、さっさとこの川に飛び込め。次には滝壺の近くで気がつくだろう」
 そういうと、ジョミーは戸惑い気味にブルーを見つめた。
 「あの…どうしても…戻らなければいけませんか?」
 「…なに?」
 また生き返って元通り生活ができると言っているのに、少年は少しも嬉しそうではない。
 …もしかしてこの少年には生き返りたくない理由でもあるのか…?
 ブルーは怪訝そうにジョミーを見つめていたが。
 「…戻っても…家族は誰もいないし…」
 父親を亡くしたと言っていたが、どうやら母親もいないらしい。
 「だから…僕、自分からいけにえになって神様にお願いするって言ったんだ。それなのに…戻っていいって言われても…」
 「…これはとんだ人柱もあったものだな。家族がいなくなったから世をはかなんで死のうと思ったわけか」
 蔑んだように言えば、少年はむっとしたようにこちらを睨みつけた。
 「そうじゃないよ! そりゃ、僕が死んでも悲しむ人が誰もいないと思ったのは確かだけど…」
 言いながら、ジョミーはもごもごと口を濁した。
 「ならば…」
 「お願いします、ここに置いてください!」
 また頭を下げる少年に、ブルーは疲れたようにため息をついた。
 「ここは人間の来るところじゃ…」
 「川の神様、どうかお願いしますっ。僕、何でもしますから! そ…っ、それに、いけにえになった僕が戻ったりしたら、きっと怖くなって直前で逃げ出したんだって言われちゃう!」
 また頭を下げられるのには…さすがに呆れかえってものも言えなかった。
 だが、少年の言うことに一理ある。死から生還したと思われればありがたみも増すが、単に死ぬのが怖くて逃げだしたのだと言われれば反対に弱虫の烙印を押されてしまうだろう。そうなれば、先の話もまともに聞いてくれる人などいない。
 「…ならば今の話、どうやって君の村人に伝える気だ? 僕は何もしない。見守るのが仕事だと言ったはずだ」
 どちらにしろ、少年が動かなくては話が前に進まない。ブルー自身は何もしないと公言しているのだから。
 「ええと…」
 ジョミーは困ったように心持ち上を向いてから…。
 「あのう、村長様のおうちに、幽霊として出て行っちゃダメですか? そのときに、村長様に今のお話をすればどうかなって…」
 「だから、君にそんな芸当ができるのか?」
 「無理…だと思いますから…」
 手伝って、お願い! とばかりに少年から見つめられ、ブルーは眉間に縦じわを寄せた。
 
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        | 始まっちゃいました、ブル子ジョミ! ひたすら子犬キャラのジョミーですが…土地神様のブルーに飼ってもらうことはできるのでしょうか! |   |