シンはこちらに向かってくる第三走者に目を向けた。バトンゾーンを軽く助走しながら、それでも無事バトンはシンに渡る。その途端、歓声が高まった。
…速い…!
さっきまでの競技は、力を抜いていたのではないだろうか。真剣にトラックを走るシンからは、そんなことを考えてしまうほどだ。周囲のどよめきも聞こえてくる。
…これは…本当に1位になるかもしれない。
さすがに今は手を振る余裕はないらしい。本部前を前を見据えて駆け抜けていくシンを、ブルーは呆然と見送った。
アンカーの走る距離は400メートル。逆転するのならば、シンはその間に2人の走者を抜かなければならない。
…普通なら、とても無理だろう。
しかし、そう思っている間にもシンは早くも最初の走者を捉えた。そして、あっという間に抜き去り、彼は2位に浮上した。
「あの野郎、言うだけのことはあるぜ…!」
口を開けばむかつくことばっかりだけど、とキムは興奮気味につぶやいた。
残るはひとりだけ。しかし、二人の距離は50メートルくらい。残りの走行距離は半分の200メートルほどになっている。
…たとえ、シンのペースが最後まで落ちなかったとしても、逆転は厳しい。チャンスはゴール付近、この本部前になるだろう。
まわりの喧噪、黄色い声、応援の鳴り物の音。そんなものなど耳をすり抜けていく。ただ、バトンを握って走るシンの姿だけが、ブルーの目に焼きついた。
1位との距離が縮まっていく。1位の青が逃げ切れるか、2位の赤のシンが追いつくか。区間賞というものがあれば、シンは間違いなく優勝だろうが、リレーにはそんなものは存在しない。チームの順位がすべてだ。
あと少し。1位の走者とシンが並んだと見えた瞬間。二人の姿はゴールテープを切った。パァンとピストルの音が鳴り響き、競技の終了を知らせる。
「どっちだ…!?」
「どっちが勝ったんだ!?」
トラックのまわりにいた生徒たちの騒ぎ声が聞こえる。間近で見ていなければ、勝敗の判断はつかないだろう。そのくらい、僅差だったのだ。
運動会の実行委員長が、ゴールテープを持っていた役員から報告を聞いてから、マイクを持つ。その間シンは、さすがに全速力で走って息が上がっていたと見えて、まわりに集まった同じ赤団のメンバーに囲まれながら、息を整えながら黙って成り行きを見守っていた。
「ただいまのスウェーデンリレーの結果を発表します」
あれだけざわめいていたグラウンドが、水を打ったようにしんとなった。
「1位、赤団…!」
わあ、と赤団のメンバーが歓声を上げる。
「やったぁ!」
「さすがだぜ、シン…!」
「赤団、優勝――!」
その瞬間…シンのゴールの瞬間は、ブルーにも見えていた。シンが1位の走者を鮮やかにかわし、ゴールテープを切ったときを。その刹那、まわりの音も風景さえ消えて、肉食獣を思わせるような瞳でゴールを通過するシンしか見えなかった。シンがこれほど綺麗に見えた瞬間は今までにない。そのくらい、神々しい光景だったのだ。
ゴール付近は、人だかりができている。その中を、シンはもみくちゃにされながらも、団員から祝福され、待機場所へ歩いて行く。それを見送りながら、ブルーは取り残されたような気がしていた。自分の所属する団が負けたせいではない。原因は分からないが、妙な焦燥感ばかりが募っていた。
その後、優勝カップや賞状の授与などがあり、今日の功労者であるシンが優勝カップを受け取っていた。高々と掲げられた金の優勝カップは、金髪のシンによく似合った。列に戻って行くときも、まわりから小突かれ、冷やかされたりしていた様子は、集団行動が嫌いだなんて言っていた人と同一人物とは思えないほどだった。
そうこうするうちに、セレモニーも一通り終わり、ブルーはぼんやりとしながらも撤収のため器具を運ぼうとしていたとき、学校の事務員の女性が声をかけてきた。
「ブルー・オリジンさん、ですよね?」
「…何か?」
…何だろう、この胸騒ぎ…。
ブルーはこのとき、彼女の様子にいやな予感に襲われた。
「消防署から電話です。その…自宅が火事にあったとか…」
「火事!?」
慌てて時計を見る。フィシスはもう帰っている時間だった。ブルーは急いで事務室に行き、電話を取った。
「もしもし!?」
『ブルー・オリジンさんですか』
消防署の署員だと名乗った男は、実直そうな声の持ち主だった。
『…実は今、あなたの家の前に来ているのですが…』
戸惑うブルーに、消防署員である男は気の毒そうにしながら、淡々と話し始めた。
おそらく2時間ほど前にブルーの家から出火したこと、火元と思しき場所に火の気はなさそうなことから不審火であること、そして悪いことに通報が遅かったため、家はすっかり全焼してしまったこと…。
しかし、そんなことにショックを受けている暇はない。ブルーはそんなことよりも気になることがあった。この際、家のことなどどうだっていい。
「妹は…? フィシスはどうしている!?」
そうなのだ、何よりも愛しい妹のことが心配だった。突然の火事で、さぞ心細い思いをしているだろうと思っていたのだが。
『妹さん…?』
だが、男は怪訝そうにつぶやいた。
『…誰もいませんでしたよ? いや、誰もいないと思い込んでいたので、焼け跡をしっかり見たわけではありませんが』
その言葉に、ブルーは呆然とした。
フィシスがいない…? あの子は目が見えないから、どこかに遊びに行くということはないはずだ。
とにかく早く現場に来てくださいという消防署員に茫然自失の体で了解の返事をして電話を切ってから、ブルーはフィシスの通う学校に電話を入れた。すると、いつも通りバスで帰りましたという返事が戻ってきた。
…まさか、フィシスは家の中で苦しんで…。
そこまで考えて、ブルーは首を振ってその考えを払った。
縁起でもない…! フィシスが死んでしまうだなんて。でも…それなら、フィシスは一体どこへ…? まさか…あのストーカーの男に…。
その想像にまたぞっとする。
…もしかすると、不審火はその男が…? 家に火を付けるぞと脅されて鍵を開けさせられ、捕まってしまったんじゃ…。いや、もしかして、窓を壊して家の中に入り込んだのかもしれない。その証拠を隠滅するために、家に火をつけて…。
じゃあ、フィシスは今ごろ…。
ブルーはその想像にさらにぞくりとした。が、すぐに首を振って嫌な想像を頭から追い払った。
「とにかく…帰らなければ…」
悪いほうに悪いほうにと考えてしまう自分を、何とか叱咤して歩き出す。そして事務室を出たとき。
「ブルー、一緒に帰りませんか?」
にこやかに微笑んだシンと出くわした。すでに着替えを終えたらしく、制服姿に戻っている。
いつもならば、なぜ君なんかと、とでもいい返すところだが、今はそんな気力もない。
「…君ひとりで帰ってくれ」
心ここにあらずと言った風体のブルーに、シンは眉を寄せた。
「どうかしたんですか? 顔色が悪いですよ…?」
それこそ、いつもなら君には関係ないだろうと突っぱねるはずが、今はそんなことさえ浮かばない。それどころか、頭の中は混乱の渦と化している。
「…妹が…いないんだ」
「え…?」
通常なら、学校でこんな話などしないのだが、やはりショックが大きいからか、つい口をついて出てしまった。
「家が…火事で焼けたんだが、いるはずの妹が見当たらなくて…だからすぐに帰らなきゃいけない…」
その言葉にシンは笑みを消して、難しい顔つきになった。だが、ブルーはそんな様子に気づく余裕すらない。
「…そうだ、タクシーを呼ばなければ…」
そこで、ようやく交通手段が頭に浮かぶ。いつもバスで帰っているが、そんなもの悠長に待っていられない。
ブルーは、電話をかけさせてもらおうと事務室に戻ろうとした。が、シンに肩をつかまれて動けなくなった。
「…! 何をする…!!」
邪魔をするなとばかりに勢いよく振り返ったブルーだったが、真剣なシンの表情に言葉を止めた。
「タクシーだと、呼んでからここに来るまで数分かかる。それに、今の時間では渋滞に引っかかるだろうから、むしろ家に帰るのが余計に遅れるだけだ」
「じゃあ、どうしろと言うんだ…!」
冷静なシンの言葉に、かっときてつい叫んでしまった。八つ当たりに近いが、それさえ気がつくことができない。
「今から着替えて3分間で裏口に来てください。バイクで送ります」
バイク…?
そう言われて、初日にバイク通学は校則に反すると説教したことを思い出した。
「でも…バイクは校則で禁止されて…」
そう言いかけると、シンはブルーの肩を掴んだ手に力を入れて、無理やりこちらを向かせた。シンの鋭い緑の瞳がブルーを射る。
「そんなことを言ってる場合じゃない! 早く妹を探さなくていいのか…!」
いつもは斜に構えたシンにさらに怒鳴りつけられ、ブルーは目を見開いた。シンは、凍りついたブルーにいくらか表情を緩めると、今度はささやくように言った。
「…落ち着いて。大丈夫、あなたの妹はきっと見つかる」
だから着替えたらすぐに来て、と促され、ブルーはぼんやりとうなずいた。シンはそれを見届けると、きびすを返して玄関へ向かっていった。
…着替えて3分以内に裏口へ…。
心の中で反芻しながら、ブルーは歩き出した。ショックと不安で、頭が働かない。それでも、シンの言葉に従い、教室に戻って感覚の鈍ったような手足を何とか動かして着替えを済ませ、学校の裏門へ歩き出した。そこには、大きなバイクにまたがったシンがいた。
「飛ばしますから、しっかりつかまっていてください」
言いながら、シンはブルーにフルフェイスのヘルメットを渡す。
「シン…」
「それを被っていれば、顔が隠れるでしょうから、学校に知られることもありませんよ」
笑って言われた言葉に、どう反応してよいか分からずにいたが、「早く」と急かされるのにブルーは言われるがままにヘルメットを被り、バイクの後部座席にまたがった。
「つかまっててくださいよ」
シンの声が聞こえてくるのに、彼を見て。
「君、ヘルメットは…?」
シンの秀麗な顔を見て、ふっと思った。顔が見えると言うことは、彼の分のヘルメットはないのだろう。だが、シンは返事の代わりにアクセルを吹かすと、予告もなしに飛び出した。タイヤはきしみを上げ、乾いた土を巻き上げる。ブルーは振り落とされまいと、慌ててシンの腰にしがみついた。
「シン…っ!」
「黙って。喋ると舌を噛むかもしれませんよ…!」
バイクは裏門から道ならぬ道を走り、大通りに出た。だが、スピードは落ちることがなく、それどころかさらに速くなっている。
ブルーはシンに必死でしがみつきながらも、どこかぼんやりとしていた。
フィシス…どうか、無事でいて…。
6へ
というわけで、ふたりでタンデム〜♪ この状態じゃ、全然楽しくもありませんけど。さて、フィシスちゃんはどこへ? 今回は、「ストーカーは実はシン様!?」てなご指摘がなく、ほっとしました♪ 『紅い瞳』では、思いっきり誘拐犯に疑われてましたからね! |
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