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      すっかり途方に暮れるシンを見遣ってから、キースは立ち上がり、薬品棚に向かった。「ジョミー、お前たちのような宮仕えは俺たちとは違う」
 その言葉に、シンは訝しげに目を眇め、キースの後姿を見つめた。
 「俺がもし倒れたりしたら、この診療所は閉めるか、誰かに譲らねばならん。患者も、どこかの診療所か病院で引き受けてもらうことになるかもしれん。ここで医者は俺一人で、俺がいなくなれば代わりを努めるものがいないからな。だが」
 棚から目当ての薬品を取り出すと、キースはこちらを向いた。
 「お前たちはそうではない。組織で仕事をしているのだから、例え誰かが欠けたとしても、ほかの誰かが代わりをするだろう」
 その言葉に、シンは何の返事もできなかった。
  午前6時過ぎ。シンは来たときと同じようにブルーを抱いて、キースの診療所を出た。熱はまだ高いが、吸入をしたためか、薬を飲んだためか、落ち着いているように見えた。いや。
 それは落ち着いているというものとは少し違うのだが、シンには黙りこくったブルーの様子に気がつく気配はなかった。
 『お前たちのような職種は、組織で仕事をしているものだ。ならば、今日の発表はお前でなくてもいい、と。そう考えることはできなくはない』
 キースの言うことは分かる。言っていることは正しい。すでにパワーポイントのデータは作ってあるし、それに従って解説を入れるだけなのだから、同じような仕事をしているキムあたりなら十分代役はできる。けれど…。
 シンはため息をついた。
 その発表を行うのが、自分ではないということに躊躇してしまう。それに今は、あるポストを巡って熾烈な争いを繰り広げている最中なのだ。このプレゼンによって上層部に認められれば、そのポストはシンのものになるだろう。
 最大の、チャンスなのに…。
 急に病気の子どもを任せられる親戚などいないし、そんな気のおけない友人もいない。しかし、そこまで考えて、シンは立ち止まった。
 待てよ…? もしかすると、どこかでそんな商売をしているところがあるかもしれない。
 そんなことをふっと思いついたが、シンは首を振ってその考えを追い払った。
 …たとえそのようなサービスをする会社があったとして。そんな一面識もない人間に、信用が置けるかどうかも分からない会社にブルーを任せることができるのか…?
 答えは否だ。そう考えていくと、おのずと答えは出てくる。
 シンは、車の後部座席にブルーを乗せてから、運転席に座った。だが、すぐには発進せず、シンは両手で顔を覆って目を閉じた。
 …どうしようもない。これは、自分がブルーとの生活を選んだときに決まっていたことだ。熱を出したブルーのせいじゃない、しいて言えば、自分自身が招いたことだ。
 だけど…今だけ…。
 シンはため息をひとつついて、額をハンドルに押し当てた。その様子を後ろから見つめていた紅い瞳にはまったく気がつきもせずに。
  マンションに戻ったシンは、ます同僚のキムに電話をかけた。今日のプレゼンの代役を頼むためだ。『馬鹿にするな…! いくら俺の案が不採用だったとしても、お前なんかに晴れ舞台を譲ってもらうほど落ちぶれちゃいないぜ!』
 そうなのだ。今日のプレゼンはグループ内でいくつか案を出し合い競った結果なのだ。最終的にはシンとキムの案が残ったが、さらに選考を重ね、結局はシンの案が採用になったのだった。
 「そうじゃない。キム、聞いてくれ」
 『それとも何か、お前流の余裕って奴かよ! あいにく俺にもプライドってものがあるんだよ』
 「そんなんじゃないんだ。僕だってできるなら自分で発表したかったんだが…今回ばかりは、無理なんだ」
 心底困り果てたようなシンの声に、電話口のキムはしばらく沈黙した。
 「なんとか頼めないだろうか」
 『…どういうことだ? 何かあったのか…?』
 警戒はそのままに、それでも事情を話せというキムに、シンはことの経緯を説明した。その間、キムはただ黙ってシンの話を聞いていただけだった。そしてぼそりと、『あの話、本当だったのかよ』とつぶやいた。あの話とはおそらく、シンが子どもを預かっているということだろう。
 『…データはどこだ?』
 ため息をついてから、キムはそう訊いてきた。
 「一番上の引き出しの右側だ。青のUSBメモリの中にある。そのデータだけしかないはずだから、中身を確認すればすぐに分かる」
 キムにも、この発表のためにシンがどれほどのエネルギーを費やしてきたかということはよく分かっていた。だが、そのことには触れず、分かったとだけ伝えて電話を切った。
 それからシンは関係する方面に今日の休暇を伝え、簡単な謝罪をしてから電話を終えて。
 「ブルー、待たせてすまない。食べたいものはあるか? ないなら定番の…」
 そう言いながら振り返ると、ブルーはソファで転がって眠っていた。体温も、少しずつ下がり始めているらしい。
 …朝早かったからな。眠くなったんだろう。
 シンは毛布を出すと、ブルーの小さな身体にかけてやった。それからキッチンに行き、冷蔵庫を開けて「ああ、そうか」とつぶやいた。
 …外食ばかりで、自炊などここ最近したことがなかったからな。
 冷蔵庫の中には食材などほとんどない。酒と水、それからつまみになるチーズやサラミくらいしか見えない。シンは苦笑いして冷蔵庫を閉じた。
 …パンはあるから、牛乳さえあればミルク粥くらいは作れるか。それとも米の粥のほうがいいか…。野菜やほかの食べ物を摂らせるのなら、雑炊風にしたほうがいいかもしれないな。喉を通るのなら、だが。
 普通のスーパーはやっていない時間だから、この近くのコンビニに行ってみるか。
  ブルーが目を覚ましたとき、見えたのはキッチンに立つシンの後姿だった。「目が覚めたのか」
 振り返ったシンはいつもの微笑みを浮かべた。そしてこちらに歩み寄ってきて、ブルーの額に手を当てた。
 「さて、熱は…大分下がったな。のどはまだ痛いか?」
 じっと見つめてくる大きな赤い瞳に微笑みかけたが、ブルーから反応はない。
 「あまり食欲はないかもしれないが、粥を作っておいた。もう昼になるからな。食べられないのなら、飲み物だけでも摂っておいたほうがいい」
 「え…?」
 「食事を作るのは久しぶりだから、あまりうまくないかもしれないが、その辺は我慢してくれ」
 呆然としているブルーにもう一度笑いかけると、シンはキッチンに取って返し、やがてトレイを持って戻ってきた。
 「あれからもう一度キース…いや、あの医者に電話して食事のことを尋ねたら、まだのどが腫れているだろうから固形物は無理だろうと言われて、粥にした。塩くらいしか入れてないから味気ないだろうが」
 そう言われても、ブルーはぼんやりとしたままだ。
 「…? もちろん、食欲がなければ食べなくてもいい。けれど、飲み物はきちんと飲んでおいてくれ。スポーツ飲料も買っておいたが、粥に合わないからな。水だけ持ってきた」
 「お仕事は…?」
 かすれた声で問われた言葉に…シンはしばし沈黙した。
 「今日は大事なお仕事があるって…」
 「ああ、他の人に頼んだんだよ。僕と仲のいい友人にね。だから、ブルーは心配しなくてもいいんだ」
 そう言うと、ブルーは再び黙り込んだ。
 「…ブルー?」
 「僕の、せい?」
 「そんなことはない」
 聡いこの子のことだ、すぐに分かってしまうだろうということは予測できていた。だから、シンの否定の言葉にも淀みがなかった。
 「のどが渇いただろう? 君は朝から何も飲んでいないんだから…」
 そういいかけたところへ、ズボンのポケットに入れた携帯電話が鳴った。液晶画面に映っているのは、スウェナの番号だ。
 「すまない、食べていてくれ」
 それだけ言うと、ぼうっとしているブルーを置いて、シンは隣の書斎に入った。通話ボタンを押すと、いつもにも増して甲高い声スウェナの声が聞こえてきた。
 『ちょっとジョミー! どうしたのよ!?』
 シンは顔をしかめ、心持ち電話を耳から離した。
 「どうした、とは?」
 『あの発表はあなたがやるんじゃなかったの? いえ、間違いなくあれはあなたの資料よね? でも、発表はあのそばかすがやってたじゃない!』
 今回のプレゼンには報道機関も来ていた。ゆえに、スウェナも招待されていたのだ。
 「…スウェナ、彼はキムだよ」
 『誰だって構わないわよ、どういうこと!?』
 シンは口を開きかけたが、ふっと笑って再び口を開き。
 「…ちょっとした野暮用でね」
 それだけ言うと電話を切って、そのまま電話の電源を落とし、机の上に置いて部屋を出た。
 …僕もブルーと一緒に昼食を食べようか。
 そんなことを考えながら。
 
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        | 意外にあっさりと自分の出世を諦めちゃったシン様。ただ、このときのシン様は、自分のことで手一杯で、ブルーのことまでうまくフォローできてないのですが…。これが後でどういう結果を生むのか♪ |   |