自炊なんて、何年振りだろう…。
茶碗を食洗器に入れながら、そんなことを考えた。翌日にはブルーの熱は下がり、あとはのどの腫れだけになった。
どうせすっぽかしたついでだと数日の休暇を会社に申請した。そしてそれはすぐに受理された。特段、急ぎの仕事があるわけではなかったし、何よりもブルーの病気が治るまではずっとついていてやりたいと思ったからだった。
…まあ、たまにはこんなのもいいか。
学生時代は頼るべき人もなく、お金もなかった。そんな生活が嫌で、努力して今の会社に就職した。そこは一流企業で通っていたから、給料も待遇もよかった。でも、人間欲をかけばきりがない。さらに高みへ、もっと上へと必死になってきた。生活感がなく、スマートな自分を演出し、異性からは羨望のまなざしを、同性からは嫉妬の感情を向けられるのに、快感さえ覚えていた。けれど。
…こんな小さな存在が、ここまでいとおしく思えるとは誤算だった。自分が人生の目標としてきた、昇進すらどうでもよくなってしまうくらいだ。
しかし。そのブルーはと言えば、症状はよくなってきているというのに、元気になってくれない。いつものように輝かんばかりの笑みを浮かべてシンに笑いかけることがないのだ。
…まだ、本調子でないのだろう。あれだけの熱を出したあとなのだから、まだ身体がだるくて当然だ。
そう思いながら、ジョミーは冷蔵庫からプリンを出す。
「ブルー、早めのおやつでも食べないか」
後ろでぼんやりと座っていたブルーは、その声にシンを見つめた。
「さっきはあまり食が進まないようだったからな。君はただでさえ身体が小さいんだから、きちんと食べなければ」
言いながら、ガラスの器にプリンを盛ってスプーンごと前に置いた。
「ジョミー…僕…」
やはり、まだ声がかすれている。
「ん? なに?」
微笑みながら応じると、ブルーは口を閉ざして悲しそうに目をそらす。
「? どうした?」
だが、ブルーは「何でもない」とつぶやくと、また黙ってしまう。
困ったな。今は身体の具合が悪そうではないのだけど…。
前に置いたプリンを食べようともしない。この子の好物のはずなのにと首をかしげていたが、まだ体調がすぐれないのだろうと思って、深刻には考えなかった。
翌朝。目が覚めると、いつも同じベッドで寝ているはずのブルーがいなかった。
トイレにでも起きているのだろうかと思ったが、そうでないとすぐに気がついた。家の中のどこにも子どもの気配を感じないのだ。
…ブルー!?
まさかと思って玄関を見に行って…。小さな靴がなくなっていることが分かって愕然とした。まだ外は寒い。あんな体調で外に出たら…いや、そもそもあの子の行くところなんてあるのか!?
そう考えたが、思い当たらない。
まさか、あの養父母のところへでも…?
そう考えて、慌てて電話を手にした。念のため番号を登録しておいてよかったと思いつつ、電話をかける。だが、朝の6時という時間だからか、無愛想な中年女は不機嫌そうに来ていないと応じた。それでも、もしそちらに行ったらすぐに連絡がほしいと伝えてから電話を切った。
それからは、片っ端からブルーが行きそうなところへ電話をかけた。会社の保育所、と言ってもサムの携帯にだが、そこにも電話し、ブルーが現れたらすぐに連絡をもらえるように頼んでからシンは上着を取った。そして、玄関で靴を履きながら、ブティックにも連絡を取る。車で行った場所で、それなりに距離のあるところなのだから、まさかとは思ったが、万が一のためだ。あいにく留守電だったので、メッセージだけを残す。
どうせ携帯に連絡が来るのだから、家にいる必要もないだろう。でも、もしブルーが自分の留守中にこの家に戻ってきたとしたら…?
けれど、あの子がもし本当に出て行ったのなら…自分から戻るようなことはない。それは、直感だった。
…お金は…持っていない。だから、交通機関を使うなんてことは考えられない。
シンは、朝の静かな街の中を息を切らしながら走った。朝の街はしんとしていて、ひどく肌寒い。
「…どこへ行ったんだろう。ただでさえ、本調子でないのに」
ふと思いついて、シンは携帯電話を取り出し、キースの番号を呼び出した。
『お前…この間から一体何なんだ。正規の診察時間まで待てないのか』
不機嫌そうな声が聞こえてきたが、そんなことに構っていられない。
「そっちにブルーが行ってないか!?」
『来てるわけないだろう。お前、今何時だと思っているんだ…って、どういうことだ?』
ブルーの庇護者であるシンが当の子どもを探しているという事実に気がついて、さすがにキースは怪訝そうに伺ってきた。
「今朝から姿が見えないんだ。身体もまだだるいようだったし…」
『ふん?』
「とにかくそっちに行ったら連絡をくれ! 僕は今あの子を探している最中だから…」
『ああ、ちょっと待て』
電話口の向こうで考え込んでいたようなキースだったが、シンが電話を切ろうとするのに、慌てて制止をかけた。
『なんでそんなことになったんだ? 何か前兆のようなものはなかったのか?』
「そんなものあるわけないだろう! 僕だって突然のことで、一体あの子に何があったのか、さっぱり分からないんだ!」
『真面目に考えろ、ジョミー。もし今あの子どもを連れ戻したところで、原因が分からない限りは、また同じことを繰り返すかもしれんぞ。とにかく、探しながらでも考えろ』
そう言って、電話は切れた。
…そんなことを言われたって…。
シンは切れた電話をしばらく眺めていたが、やがてそれをポケットにしまうと、再び走り出した。
それにしても、前兆だって…? ずっと具合が悪そうな以外は特に変わった様子なんて…。
そう考えて。はっとした。
…熱も下がってのどの腫れもひき始めたというのに、いつまでたってもしょんぼりとした様子だった、ブルー。てっきり病気がまだ治っていないのだと思っていたけれど…。あれは、ずっと落ち込んでいたんだろうか。
そこで、シンの足がぴたりと止まる。
…そう言えば、何かを言いかけて結局何も言わずに黙り込む場面が幾度もあった、と思い出した。ただ…その原因は分からない。ブルーが落ち込まなければいけない理由などないはずだ。
「あら、ジョミー」
そう思って再び歩き出したシンだったが、聞き知った声が自分を呼ぶのにはまた立ち止まった。
「…スウェナ…」
声の方向を見ると、彼女が明らかに年下だろう男性と腕を組んで歩いている姿が目に入った。
…なるほど、朝帰りか。
彼女は朝が弱く、普通ではこの時間に起きてなどいない。だから、この時間に彼女が起きているということは、イコールホテル帰りということになる。それが証拠に、彼女の肩を抱いている男は、ひどく誇らしげだ。
「どうしたの? 慌ててるみたいだけど」
…まったく、堂々としたものだ。
シンは内心苦笑いしながら考えた。スウェナはこれが浮気だなどとまったく思っていないのだろうなと考えて。…そもそもこちらも正式につきあっていたわけでもなかったのだと思い直した。
いや、今はそんなことを言ってる場合じゃない。
「ブルーがいなくなったから探しているんだ」
「ああ、あの…」
スウェナはうなずきながら、困ったような表情をした。
「それは大変ね。ひどい風邪をひいてたって話よね?」
「…さすがに情報通だね。けど、風邪じゃなく溶連菌感染症だよ」
「どっちでもいいわ。でも、聡い子だったもの、居づらくなったんでしょうね」
その言葉には、え? と首をかしげた。しかしスウェナは構わず続けた。
「あなたがプレゼンをすっぽかした理由は、その子が熱を出したからなんですって?」
…それにはむっとした。
「…別にブルーのせいじゃない」
「あら、そう。でも、その子にはあなたが大事な仕事を休んだってちゃんと分かってたのよね」
その言葉に、シンは目を丸くした。
そう言われてみれば、あの日は大事な仕事があるから、それが終わったら旅行にでも行こうと話していたことを思い出した。
でも、そんな…。病気はブルーのせいじゃないし、ましてや僕が仕事を休んだのは、僕自身の判断だ。でも…確かにブルーはあれからずっと様子がおかしかった。仕事を休んだのはブルーのせいじゃない、そうは言ったのだけど…。
シンは慌ててきびすを返した。
「…スウェナ、ありがとう!」
「え?」
突然礼を言われたスウェナは訝しげにシンを見返したが、そのときにはシンの姿は見えなくなってしまっていた。
君は…ずっとそんなことを気にしていたのか?
走りながらブルーを探す。それでも、小さな姿はどこにもない。
もっと早く気がつくべきだった。僕は僕の判断で仕事を休んだのであって、君が責任を感じることは何もないと、しっかりと言っておくべきだった。
だが、今言おうと思ってもブルーの姿はない。
早く探さないと…子どもの体力にこの寒さはさぞかし辛いだろう。まだ身体も治りきっていないことだし…。
でも。
一体どこを探せばいいのだろう。さっきから当てもなく走り回ってはいるが、こんな方法じゃ見つかりっこない…。
そう思いながら、丹念に記憶をたどる。
日々の生活の中、ブルーと交わした会話で何かヒントになるものはないだろうか…?
そのとき、仕事が一段落したら、遊園地へ行こうと話したことを思い出した。公園と遊園地の区別がついていないブルーを微笑ましく思って笑っていたことを…。
もしかして、公園に…?
シンは方向を変えた。
そう言えば、マンションの近くに公園がある。本当に小さな公園で、ブランコと滑り台くらいしかない。会社の帰り、コースを変えたときくらいしか通らないけれど。それでも、もしかすると…。
小さな車止めのついた入口から公園の中を伺う。その中にブルーの姿を認め、ほっとした。公園の隅にあるベンチにひとりぽつんと座っている。
ブルー…。
じゃりっと足元の小石が鳴った。その途端、ブルーの顔がこちらを向き…。紅い瞳が落ちそうになるくらい目が大きく見開かれた。
「…ブルー、探したよ」
けれど、ブルーは首を振ると、そのままベンチを立ち上がり、反対側の出口に向かって走り出した。
「ブルー!?」
シンは慌ててあとを追いかけた。所詮は子どもの足、大人には敵わず、ブルーは公園を出る前に捕まった。
「離して、離してよっ!」
声のかすれは余計にひどくなったようだ。
「どこへ行くんだ、ブルー。心配したんだから…」
「僕はジョミーと一緒にいないほうがいいんだからっ! 僕がジョミーと一緒にいると、ジョミーのお仕事の邪魔になるんだから…!」
やっぱり…。
スウェナの言ったことは正しかったのだ。ブルーは、ジョミーが仕事を休んだことを自分の責任だと思い込んでいる。
「君は邪魔なんかじゃない。仕事を休んだのは、あくまで僕の意思だよ」
「でも…でも! 僕がいなかったら、ジョミーが仕事を休むことなんかなかったじゃないか!」
「だから、それも僕の意思だ。君を引き取って育てようと思ったのは、まぎれもなく僕自身だ」
「だって…! 僕がこんなところに来なければ、ジョミーが僕を引き取るなんてこと、なかったはずじゃない!」
…それは…そうだが…。
ああ言えばこう言うブルーに、シンは閉口した。
なんでこの子はこんなに口が回るんだ? もともと賢い子だと思っていたが、こんな減らず口だと思っていなかった。
「僕はジョミーのそばにいたら邪魔なんだ。だから…お願い、離して!」
今度は離せと大声を出すブルーに、シンは焦った。今は朝の通勤時間らしく、通りすがりの会社員らしき人々が不審な目を向けてくる。これでは、いつ通報されるか知れたものではない。
「離してったら離して! 僕がいるとジョミーの邪魔になるんだから…!」
「ブルー、いい加減に…」
「離してよ! 僕、ジョミーのそばにいないほうがいいんだからっ! 僕がいたら、ジョミーの足手まといに…」
「ああ、そうだとも! 大切な仕事だったんだ!!」
泣き叫ぶ子どもに業を煮やし。…つい、そんな風に言い返してしまった。途端にブルーの顔がこわばる。
「昇進できるかどうかという瀬戸際だった。そのチャンスをみすみすほかの奴に取られなきゃいけなかったんだ! その気持ちが君に分かるか! それまで自分が努力した成果までをも譲らなければいけなかった僕の気持ちが、君に分かるのか!」
見る見るうちにブルーの目に涙が浮かぶ。自分の引き起こしたことが、いかに大それたことだったのか、改めて感じたらしい。
だが、シンはそこでトーンを落とした。
「…責任を取ってくれ」
その途端、ブルーが途方に暮れたような表情を浮かべた。
「責任って言われても…。僕、どうすればいいか…」
「ならば、僕の言うとおりにしてもらう。今から一緒にうちへ帰り、一緒に朝食を食べて、同じ時間を過ごす。この先ずっとだ」
途端にブルーがきょとんとした顔になるのに、シンは笑いそうになるのをこらえながらまじめな顔でささやきかけた。
「僕は君に、自分の価値観まで変えさせられた。何よりも大事に思ってきた昇進と君とを天秤にかけて、結局僕は君を取ったんだ。君に比べれば、そんなものなど小さなことだと思い知らされた。だから…ずっとそばにいてほしい」
そう言っても、内容が分かっているのかいないのか、ブルーは潤んだ瞳でこちらを見つめているだけ。
とうとうシンは苦笑いしながら、ブルーを正面から覗き込んだ。
「こんな台詞、女にだって言った覚えはないんだよ? 今では君なしの生活など考えられない。頼むから、僕と一緒にいてくれ」
そういうと、ブルーの目からぽろぽろと涙がこぼれてきた。
「いい、の?」
ぽつりとつぶやく。
「僕…ジョミーの邪魔じゃ、ない?」
「邪魔なものか。君は僕の大切な家族だよ」
だから、これからも一緒に暮らそう。
そう言うと、ブルーは少し悩んだあとにこっくりとうなずいた。
「よかった。とにかく、うちに戻ろう。せっかくよくなったのに、ぶり返したら大変だからね」
「うん…!」
ブルーの泣き笑いのような笑顔に、シンは子どもを抱いて家路を急いだ。
…もしかすると、これは『家族』という以上の感情なのかもしれない、と思いながらも。シンは再び手にすることのできたあたたかな存在をしっかりと抱きなおした。
おわり
今年最後の更新となります、『Child
Panic』〈完結〉でした♪ まあ、十分パニクってましたしvv 26歳の年の差夫婦、このあとは紫の上計画ですかね〜。 |
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