夜中。忙しない呼吸とせきをする音で目が覚めた。気がつけば、傍らにいる子どもがひどく熱っぽい。
シンの頭に昨日サムが言っていた言葉が思い出された。
『溶連菌感染症ってのは主に子どもがかかる病気で、症状はのどが腫れて熱が出るって奴で…』
シンはそっとブルーの額に手を置いた。おそらく、熱は40度近い。昨日から声もかすれていたし、ということは…。
症状はサムの言ったものに酷似している。ならば、これはほぼ間違いなく溶連菌感染症だろう。だが、今のシンには落ち着いて状況を分析していられる余裕はない。
こんなに熱が高くなるなんて…。
自分だってこんな高熱は出したかどうか記憶にない。小さな子どもが、耐えられるものだろうか…。もし、万が一のことがあったら…。
「…ジョミー…」
かすれた声が、シンを呼ぶ。はっとして子どもを見ると、うるんだ目がシンを見つめている。
今の動作で起こしてしまったんだろうか。
そう思いながらも、シンはブルーの髪をなでた。
「ブルー、大丈夫か?」
「ジョミー…のど、いたぁい…」
けほけほとせき込みながらも泣きだす子どもに、シンはひどく慌てた。
…いつもいい子で聞き分けがよく、泣いたことなどほとんどないというのに、そのくらい苦しいのだろうか…。小児用の薬はあるが、あれからサムを捕まえて聞いたときに、溶連菌感染症は抗生物質でないと効かないのだと言っていた。
「ジョミー…苦しいよぉ」
泣きながらパジャマの裾を力のない手で握ってくるのに、シンはブルーの頬をなでた。まるで脳が沸騰しそうなくらい熱い。この熱で、頭がおかしくなってしまうってことは…。
「…ブルー、少し待っておいで」
「いや! 行っちゃいや…!」
熱っぽい瞳を向けてくるブルーを残し、シンはベッドを出ようとしたが、力のない手でしがみついてくる仕草に、シンは業を煮やした。
「いい加減にしろ! ベッドで抱き合っていても、病気は治らないだろう!」
その剣幕に、ブルーはびくっとして手を離した。途端に、しまったと後悔する。こんな熱の高い子どもに怒鳴るなんて…。
「す、すまない。すぐに戻るから待っていてくれ」
謝ってからシンはベッドを降り、部屋の電気をつけてから洗面所に向かった。とにかく熱を冷まさなければなるまい。そう考えて、シンはタオルを水に浸して寝室へ戻った。
大きな紅い瞳が涙を浮かべてこちらを見つめている様子に心が痛んだが、この子の病気を何とかするほうが先だと思って、あえて事務的にブルーの頭に濡れたタオルを置いた。それからシンは携帯電話を取ると、登録してある番号を呼び出した。
今は午前4時。朝方ともいえるが、まだまだ眠っている人のほうが多いだろう。シンは携帯電話を肩と頬の間に挟みながら着替え、相手が出るのを待った。相手はなかなか出てこなかったが、やがてスピーカーから眠そうな声が聞こえてきた。
「すまないが今から行く。すぐに診てほしい病人がいるんだ」
『…なんだと? お前、ここを救急病院と間違えてるんじゃないのか?』
眠そうな上に、さらに不機嫌さが加わった声が電話から聞こえてくる。だが、シンはそれ以上に不機嫌だった。
「本来なら往診に来てくれと言いたいところなんだぞ。こっちから行くと言っているんだから、素直にどうぞというのが筋だろう」
『どんな筋なのか知らんが、明日の朝まで待てんのか』
「待てないからこうして電話をかけているんだ!」
そういうと、電話の相手は仕方ないなとため息をついた。
『…分かった。それで? 患者は誰で、どんな症状なんだ?』
まさかお前じゃあるまい? と言われるのにシンはブルーをちらりと見た。今は大人しくしているが、その視線が悲しげで、シンはすぐに目を逸らした。
「患者は3歳の子どもだ。溶連菌感染の疑いが強い、らしい」
『3歳? 溶連菌…?』
電話の向こうの相手は訝しげにつぶやいたあと、ため息をついた。
『ついでに俺を小児科医と間違えているようだな』
「内科医なんだから、診て診られないことはないだろうが!」
『それに、溶連菌感染症ならそんなに慌てることも…』
「本人が苦しがっているんだ! とにかく何とかしてくれっ!」
おそらく悲鳴のようになっていただろうシンの声に、電話の向こうの相手はしばしの間沈黙してから『仕方ないな』とつぶやいた。
『…分かったよ。お前のせいで目が冴えてしまったことだしな。本当に溶連菌感染症かどうか、俺が診察したわけでもないことだし』
さっさとつれて来い、と言われるのに、シンは了解の返事をして電話を切った。ほっとして息を吐くと、じっとこちらを見つめている子どもの姿が目に入る。
…随分と取り乱してしまった…。
「…医者に行くぞ」
シンは照れ隠しにぶっきらぼうに言ってから、クローゼットから毛布を取り出し、ブルーにかけた。
「…ジョミー…」
そして毛布ごとブルーを抱き上げると、それ以上は何も言わず歩き出した。
ハイスクール時代からの友人キースは、医科大学を卒業し、研修を終えると大学病院に残らず、早々と開業した。最初のころは苦労していたようだが、今はある程度のかかりつけ患者を持つ町医者となっている。
「ああ、来たな」
黒髪の白衣を着た男は、診察室の椅子に座り、シンとブルーを迎えた。
「…すまないな、こんな時間に」
今は午前4時20分。さすがに非常識な時間帯であると思ったのか、シンは素直に頭を下げた。
「ふん、お前がしおらしいと気持ちが悪い。さて、では早速診ようか。子どもをそこの診察台に寝かせてくれ。」
シンは抱いていたブルーを寝かせた。途端に子どもの熱っぽい瞳が不安に揺れる。
「…大丈夫だ」
それだけ言ってシンは一歩下がった。
「俺はあまり子ども受けしないからな。マツカ」
後ろに向かって呼びかけると、看護師らしい女性が前に出て、ブルーに何事かささやいてからキースにうなずいた。
聴診器を当ててのどの腫れを診てというお決まりの診察ののち、キースは「なるほどな」とつぶやいてからシンを振り返った。
「まあ、まず溶連菌感染症だろうな。急性咽頭炎という奴だ。今薬を処方しておくが…のどが痛むようだから吸入もしておくか」
そう言ってキースは看護師に目配せした。マツカと呼ばれた看護師はキースにうなずくと、慣れた手つきで子どもを抱き上げて、診察室を出ようとしたのだが…。
「あ…」
慌てたのはその子ども自身だ。ブルーは困惑して助けを求めるようにシンを見つめたのだが…。
「大丈夫、のどの痛みが和らぐから」
看護師にそういわれて、結局何も言えずにつれられていってしまったのだった。そして、二人が見えなくなってすぐのこと。
「…それにしてもお前、とうとう失敗したのか」
しみじみとした様子でキースはシンを見つめた。
「だ…っ、誰がそんな間抜けな真似…!!」
昔からの自分の所業を知っているこの男なら言いかねないと何となく思ってはいたが、やはりそういう目でブルーを見ていたのか! とシンはかっときた。
「違うのか? じゃああの子どもはなんなんだ?」
「…親戚の子だ。両親が亡くなったから、面倒を見ているだけだ」
「ほう?」
面白そうに目を瞬かせる友人に、シンは脱力してがっくりと肩を落とした。
「最近預かったのか?」
「…そうだ」
「どおりでな」
キースが納得したようにつぶやくのに、シンは怪訝そうにそのしたり顔を見返した。
「お前からの電話を受けたとき、まるで若い母親のようだと思ったんだ。初めての子どもが最初に熱を出したときようにおろおろしているあたりがな」
…返す言葉がなかった。
「子どもというのは、40度前後の高熱などしょっちゅうだ。いちいちうろたえていたら、身がもたんぞ」
笑いながら言われるのに、本当だろうかと疑わしく思ったが、相手は悪友であっても医者だ。
…そう、なんだろうな。おそらく、あと数時間くらいなだめすかして、正規の時間に病院へ連れて行ってもよかったかもしれないが…。
そこでシンははたと思い出した。
「いや…っ、それでは今日のプレゼンに間に合わない…!」
「プレゼン…?」
首を傾げるキースに、今日は仕事で大切な発表がある日だということを説明したのだが、それを聞いたキースは、今度は眉根を寄せた。
「…その間、子どもはどうするつもりだ…?」
「どうするって…保育所では預かってもらえないと昨日言われたから、うちに置いておこうと思っているが…」
すると目の前の男はーっとため息をついた。
「…ジョミー、あんな小さな子どもを、健康体ならいざ知らず…いや、健康体であったとしても一人で留守番させようなんて考えているわけじゃないだろうな…?」
そう言われてどきっとした。
「ましてやあんな状態だ。のどが腫れているから、固形物はなかなか食べられない。それが原因で脱水症状に陥る子どもだっているんだ。お前がダメなら、誰かに面倒を見てもらわないとまずいぞ。すまないが、ここでは入院患者を受け入れてないし、面倒は見られないしな」
それに、入院するにしても、ああいう小さな子どもは誰かが付き添うのが普通だ、と。そう言われるのに、シンはこのあとどうしようと途方に暮れたのだった。
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てなわけで、新米パパさんの奮闘日記、はじまりはじまり〜♪ 仕事か子どもか、究極の選択ですな! |
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