シンとブルーの生活が本格的に始まった。
幸い、事業所内保育所の担当であるサムは、一度退所したブルーの再入所の手続きをいやな顔ひとつせずに引き受けてくれた。いや、それどころか、シンの肩を叩きながら喜んでくれるほどだった。
「いやあ、よかったよ。先週お前があの子を養父の元に返しにいくって聞いたときから心配していたんだ。あの子はお前のことが気に入っているし、何よりもあの子の養父母には虐待の疑いがあったからな」
あれだけ子どもを返すと息巻いていたシンは、決まり悪そうに咳払いをした。
「ま、まあ…そういうことで、急なことで悪いが…」
「ああ、それは構わないよ。」
ブルーはというと、シンに手を振るとさっさと保育所内に入って行ってしまい、先生に朝の挨拶をしていた。
「じゃあ頼む。僕はもう…」
「ああ、行ってこいよ。仕事のほうも大詰めだって?」
「そ、そういうことだ…」
サムからぽんと肩を叩かれたシンは、そそくさと保育所を後にした。
…まあ、いい。こっちも明後日のプレゼンが終われば一段落着く。ブルーにまつわる問題は、それからゆっくり考えよう。当座生活に必要なものはあるし…。とりあえず。
シンは気持ちを切り替えて真っすぐ前を見た。
ポスト争いの決着は、明後日でけりがつくのだから。
夜10時近く。シンがブルーを迎えに行くと、やはりほかの子どもはおらず、ブルーは一人で毛布にくるまって眠っていた。起こそうと保育所内に入ると、保育士がシンに声をかけてきた。
「あの…ブルーのことですが…」
何だろうと思っていると、どうも疲れているらしく、昼過ぎからずっと隅っこで寝転がっていたというのだ。
「ブルーはいつもいい子ですから、ぐずったりするようなことはなかったんですが…。もしかして、風邪のひき始めかもしれないと思って」
少し体温も高いようですし、と続けられるのに、困ったなという思いが強くなる。
とりあえず、市販の薬でも飲ませておくかと思いながら、ブルーのそばにひざをついた。
「あ…ジョミー…?」
眠そうな目をこすりながら、ブルーは起き上がってから、にっこりと笑った。
「おかえりなさい」
…何だ、いつもと変わらないじゃないか。
拍子抜けしたような気分で、立ちあがったブルーの手を取る。…保育士の言うように、体温は高めのような気がしたが…シンは気のせいだと頭を振った。
「おなかはすいてないか?」
「うん! 大丈夫」
シンは笑顔を浮かべる子どもに微笑みかけると、腰を落としてそっとブルーを抱き上げた。驚いたのはブルーのほうだ。
「え…? ジョミー??」
「昨日遠出して疲れたんだろう。抱いていってあげるから、眠っていなさい」
ブルーは困ったようにシンを見つめていたが、眠気のほうが勝ったのか、うん、とつぶやいてきゅっと抱きついてきた。
「…ジョミー、だいすき…」
そう言ったっきり、子どもはすーすーと寝息を立てて眠ってしまったらしい。
…振り回されることには違いないが…まあ、こんなのもいいか…。
腕の中のぬくもりを感じながらも、シンは帰途についたのだった。
翌朝、ブルーはなかなか起きてこなかった。
いつもは早く目が覚める子どもなのに珍しい、と思いつつ、シンはテレビつけた。
…時間はまだあるのだから、直前に起こせばそれでいい。
すると、画面から遊園地の華やかな映像が流れてきた。いかにも親子連れの集客を狙ったコマーシャルを、シンはじっと見つめた。
…ああ。明日の仕事が終われば、休暇でも取って…。
そのとき、ぱたぱたという足音がして、寝室のドアが開いた。
「ごめんなさい…っ」
慌てて頭を下げる子どもに、シンはわずかな違和感を覚えて眉をしかめた。
…声が…かすれてる?
「僕、すぐに支度するから…!」
「あ…いや、まだ時間はあるからそんなに急がなくても…」
だが、そう言っている間にブルーは衣裳部屋に走って行ってしまう。シンは苦く笑うと、衣裳部屋のドアを開けた。案の定、慌てて洋服を引っぱり出している子どもを見て、シンはブルーの頭をぽんぽんと叩く。
「ブルー、そんなに慌てなくても大丈夫だよ。それよりも、明日の仕事が一段落したら、旅行に出かけないか?」
「旅行…?」
ブルーは手を止め、目を丸くしてシンを見上げた。
「明日は僕の仕事が一区切りつく日でね。僕がずっと残業しているのは、明日の発表のためなんだ。だから、それが終わってしまえば、しばらく休んでも構わない。だから、二人でどこかに出かけようか」
そういうと、最初は呆けたようにシンを見つめているだけだったブルーが、次の瞬間には嬉しそうに笑った。
「ホント!?」
「ああ、遊園地は行ったことがあるか? いろんな乗り物があるところだ」
すると、ブルーは少し考えたが。
「ブランコや滑り台があるところ?」
それはちょっと違うんだが、とシンは笑った。
「君が言うのは公園かな…? 遊園地は公園とは違う楽しさがあるよ」
「そうなの?」
そう言って無邪気に笑い、楽しみーとその辺を飛び回る子どもに、シンは目を細めた。
ここまで喜んでくれるのなら、連れていくかいがあるな、と思いながら…シンはブルーの声がかすれていることや、寝ているときも体温がやや高めだったなと思ったことなどすっかり忘れ去っていたのだった。
「じゃあ、行ってくる」
「うん。行ってらっしゃい、ジョミー」
保育所で別れるときも、ブルーは普段どおり笑顔だった。
シンは手を上げて応えてから、自分のセクションへ向かって歩き出した。だが、その腕をサムがつかんできた。
「ジョミー、ブルーは大丈夫か?」
「…何のことだ?」
シンは怪訝な顔で、何やら慌てているらしいサムに向き合った。
「今朝、保育所に通っている子の親から、子どもが溶連菌感染症になったっていう連絡があったんだ」
「ようれん…?」
子どもの病気に知識のないシンにとっては、聞き慣れない病名である。
「うーん、子どもを持たないお前が知らなくても当然か。溶連菌感染症ってのは主に子どもがかかる病気で、症状はのどが腫れて熱が出るって奴で…。まあ、感染症というだけあって、感染力の強い病気なんだ。潜伏期間もそう長くないし、ひとりかかるとあっという間に広がるんだよ」
その言葉にどきんとした。
ブルーは今朝、声がかすれていなかったか?
「それが、その発症した子どもの親がすぐに気づかなかったみたいで、処置が遅れてこじらせたらしくてさ。その子、入院せざるを得なかったらしいんだよな。脱水症状もひどいって言ってた。ま、熱が上がってのどが痛むからすぐわかると思うけど。」
つまり、サムは保育所内で感染症が発生したから注意しろと言ってきているのだ。
「それから言うまでもないけど、熱を出している子は預かれないからな! 医者の許可が出ないうちはここにつれてくることも禁止になるから、覚えておいてくれよ。じゃあな、俺、それ他の奴にも言わなきゃいけないからさ」
言うだけ言ってさっさと離れていくサムを見送りながら、シンはため息をついた。
もし、ブルーがその溶連菌感染とやらになっていたとしたら…?
しかし、シンは頭を振った。
…明日が終われば、病院だろうがどこだろうが連れて行ってやるさ。
たとえ今子どもが熱を出したところで、何とでもなると。そう思っていた。
7へ
…んなわきゃないですよねー。
ところで溶連菌感染、普通は子どもの病気なのに、うっかりうつってしまったのは私です。38度以上の熱が出たんですが、急に熱が上がったせいか、そのときは妙に身体が軽く、仕事は休んだものの変に動き回って、最後には点滴のご厄介になりました…。
皆様、熱が出ているときには素直に休みましょう。(-_-;) |
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