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      …明日は待ちに待った週末だ。別に、いつもなら休みが嬉しいとか、そういった感覚はないのだが、あの子どもを養父の元へ返しに行けると思うと、気も楽だ。だから、いつもは保育施設内で済ませてもらっていた夕食くらい一緒に食べようという気分になって、今日は定時で会社を引けた。
 迎えに行くと、子どもの振り返った顔が驚きに代わり、次ににこっと笑顔になった。…その様子に、罪悪感が心をかすめたが、感じないふりをした。
 実は、この子には何も言っていない。明日養い親の家に行くことや、相手が引き取りを渋るようなら、少しのお金くらい一時金として置いてきても構わないとシンが考えていることなど、まったく知らないのだ。
 サムが指摘した、虐待の事実さえ確認できていない、それが事実であったなら、と言うかおそらく事実だろうが、そんな家庭に子どもを戻すなんて、かなりまずいだろう。それでも一時金を置いてくれば、風当たりは弱まるだろうという、自分勝手な考えもあったためだ。
 一度は児童相談所に連れて行こうかと思ったが、事情聴取などで時間がかかりそうだったし、結局連絡はこちらに来るくらいならやはり手間がかかると思ってやめた。
 「今日はもうお仕事、終わりなの?」
 息せき切って嬉しそうに駆け寄ってくる子どもに、シンは一瞬詰まり、ぎこちなく笑顔を浮かべた。
 「…今日は、週末だからな」
 我ながら、意味のない受け答えだと思ったが、子どもは特に不審に思った様子もない。
 「よかったわね、ブルー」
 「はい、先生さようなら。またね、エラ、ブラウ!」
 保育士や友達とさよならの挨拶を交わす子どもに、またちくりと心が咎めた。
 …また、はないのだ。ここも今週までとサムに言ってある。幸い、保育士の女性は特に何も言わず微笑んでいただけだった。
 子どもは保育士に手を振ると、シンの手にぎゅっと握ってきた。…おそらく、にこにこしているだろう子どもを見たくなくて、シンはわざと正面だけを向いて歩いた。
 「…週末だから…外食して帰ろう」
 それだけ喋って黙っていると、手をつないだ子どもからは「うん」という返事が聞こえてきただけで、意外なほど静かな様子だった。ちらりと盗み見れば、先ほどの満面の笑顔とは打って変わり、悄然とした様子が見えた。
 …賢い子どもだから、何も言わなくても分かっているのかもしれない。
 そんなことを考えながら、シンは子どもを伴ってよく行くホテルのレストランに向った。
 「あら、ジョミー!」ホテルのロビー。聞き覚えのある声に、顔を向ければスウェナがこちらに向って手を振っている。
 「偶然ね、このホテルでインタビューがあったのよ。私の仕事も終わったし、どう? 
    これから食事でも…。あら…?」
 そこでスウェナはようやく子どもの存在に気がついたらしい。
 「本当に子どもを預かることになっちゃったのね。ええと、ブルー…だっけ?」
 彼女がそう言って子どもを覗き込もうと思ったとき。それまで悄然とうなだれていた子どもが、慌ててシンの手にしがみついた。
 「…? ブルー、忘れたのか? 
    以前マンションで会ったスウェナだ」
 あのとき自分はただ突っ立っていただけで、スウェナがいろいろと事情を聞いていたのに、と思っていたら、さらに子どもはこちらの腕にしがみついてきた。
 「今日は…っ、シンは僕とお食事するんだからっ!」
 …はあ?
 不覚にも、シンはこのとき子どもが一体何を言っているのか分からなかった。それはスウェナも同様だったらしく、ぽかんとしていたが、次の瞬間に笑い転げた。
 「ああ、ごめんなさいね。そう、今日はジョミーとデートなんだ? ホテルでディナーなんてステキじゃない。」
 スウェナは自分をにらみつける子どもに微笑みかけてから、今度はこちらを見遣る。
 「いやだ、こんなかわいいレディが一緒にいたんじゃ、連絡がないのも当然ね。」
 …やはりスウェナもブルーのことを女の子とだと思っているらしい。男の子の服を着ているにも関わらず、この子どものかわいらしさは並外れているからそれも当然かと思った。
 「まあ…そういうことだ。」
 今度ばかりは、「女の子じゃなくて」とか「デートじゃない」といった訂正を入れる気力もなく、シンは適当にうなずいておいた。…正直、こんな気分でエネルギッシュなスウェナと食事するなんて、遠慮したいと思ったことも確かだ。
 「そう、分かったわ。じゃあね。ジョミー」
 特に気にした風もなく去っていくスウェナを見送ってから、子どもの手を引いてレストランに向って歩く。
 「ねえ…」
 ウェイトレスの案内に従って席に向って歩こうとしたシンを、子どもの小さな手がひいた。不安そうな紅い瞳をじっとこちらに向けたまま。
 「邪魔して…怒った…?」
 あの、綺麗なお姉さんとのお食事を、と続けられるのに、シンはものも言えずに子どもを見つめた。
 …なんだか…本当にかわいそうになってきた気がする。子どもが傍にいたことはないが、こんな小さな子どもがここまで遠慮するものだろうか。
 「…やっぱり…怒ったの?」
 泣き出しそうな表情で言われるのに、はたと我に返る。
 「…いや。確かに今日は、君との先約があったからね。」
 そう言うのに、子どもの表情が少し明るくなった。
 「…好きなものを食べていいから。遠慮しなくてもいいんだよ」
 すると、みるみる笑顔になっていく子どもが…何となく愛おしく思えて…。慌ててそんな考えを払うように頭を軽く振った。
 いや、明日には別れる子なんだ、ここで情が移ってどうする! 
    大体この数日間、この子のせいで仕事にも集中できてないだろう。これ以上生活をかき回されるのは、ごめんじゃないか!
 「あの…」
 そんな風に心の中で叫んでいると、子どもがじっとこちらを伺ってきた。
 「な、なんだ?」
 つい、声がひっくり返ってしまった。
 「僕も…ジョミーって呼んでいい…?」
 だが、その言葉には…変に気抜けした。
 「そ、そんなことなら…」
 「よかった!」
 そう、にっこり笑ってからメニュー表の写真に目を落とす子どもが…ひどく哀れに思えた。
 こんな風に別れてしまってもいいのだろうか? 
    確かに邪魔な子どもだが、サムのいうとおり子どもに罪はないし…。
 「ブルー…明日は…」
 だまし討ちのように養父のところへ戻るのは、あまりにもかわいそうだ。今晩一晩くらいなら、泣かれて駄々をこねられたって、付き合ってやればいい。いや、せめてそのくらいの子どもらしさは許してやるべきだろう。
 そう思って切り出したのだが、子どもはにこっと笑った。
 「僕、遠くに行ってもジョミーのこと忘れないから。だから、ジョミーも僕のこと忘れないでね!」
 …その無邪気な言葉に…何も言えなかった。
  翌日、ブルーの荷物一式を抱えて車に乗った。ブルーも…昨日の楽しげな雰囲気が嘘のように黙りこくっている。カーナビで目的地を指定して、車を走らせた。雲ひとつない晴天で、こんなことでもなければいいドライブ日和だなと思った。
 「ブルー」
 呼びかけると、後部座席でじっと下を見ていた子どもが顔を上げる様子が、バックミラーに映った。
 「その…辛いことがあれば、電話してきても構わない。ただ、自宅の電話だといないことが多いから、携帯電話の番号になるが…それでもすぐに出ないことも多い。だが、その場合は何とかして連絡をとる。それでよければ教えるが…」
 覚えられるか? 
    と聞くと、大きな紅い目が落ちそうになるくらい、思いっきりうなずいた。携帯電話番号をメモに書かなかったのは、向こうの養父に連絡手段を教えた事実を知られたくなかったためだ。
 番号を教えると、数回復唱して「うん、覚えた!」と笑った。その後は気持ちが落ち着いたのか、窓から見える景色を眺める子どもの姿に、こちらも安心した。
  到着した家は、正直ボロ家だった。これは衛生的にまずいんじゃなかろうかと少し迷ったが、それでも玄関をノックした。来ることは知らせてあったせいか、家人がすぐに出てきた。目つきの悪い、中年女性だったが、シンを見るとぼうっとしてから次にはあまり品の良くない笑みを浮かべた。
 「へえ…。あんた、いくつだい?」
 そんなことがあんたと何の関係があるんだ…? 
    と一瞬思ったが、ここでけんかしても意味がないと思ってこらえた。
 「29歳です。」
 「独身だってね、彼女はいるのかい?」
 だから、それは何の話だ? 
    といいかけたが、それでもシンは抑えた。
 「一応は…」
 「ああ、そうかい」
 途端に興味をなくす女性に、だからどうしてそこで態度を変えるんだと腹が立った。多分、この女性はあの男の妻だろう。
 「あんたー、シンさんが来たよー」
 そう思っていると案の定、女性は大声で夫を呼んだ。
 …あまり長居はしたくない場所だ…。そう思いながらも、シンは子どもを伴って家の中に入った。
  この横柄そうな女性に、気の弱そうな貧相な小男が並んでいると、なんだかこの夫婦の力関係というものが分かってしまう。ブルーを一人でこちらへ寄越したのは、この中年女性の指示によるものだろう、と思った。「それで、いくらもらえるので?」
 …早速それか。
 ところどころ擦り切れたソファに座ったシンは、開いた口が塞がらなかった。必要なら一時金だが渡す準備があると言っただけなのに、すっかりもらえるものだと思っている。それよりも、この子自身がお金で売られているような感覚に陥ったのではないかと気になって、ブルーを伺った。だが、今はすっかり表情の抜け落ちた顔をしている。
 …この子はこの家でずっとこんな表情で暮らしていたんだろうか…?
 「…念のために言っておきますが、それはブルーの養育のためですよ?」
 夫婦は、うんうんとうなずいた。
 いや…絶対分かってないだろう。それどころか、どんな支払いに充てられるか分かったものじゃない。
 「それと、確認しておきたいのですが」
 何でしょう? 
    と小男にもみ手で伺ってこられるのが、とんでもなく不愉快に思えた。
 「僕のところに来たこの子の身体はあざだらけだったんですが、預かってもらった保育士に言わせれば、虐待の可能性が高いということでしたが?」
 「あんた、何を証拠にそんなことを言うんだい!?」
 そういうと、中年女性が怒ってこちらを遮ってきた。
 「そんな子どものいうことなんて、信じるもんじゃないよ! 
    子どもなんか平気でウソをつくんだ、それをいちいち真に受けてちゃ、きりがない」
 その言い草にはむっとした。
 僕のところにいる間、この子はウソなどついたことがない。…まあ、虐待の事実は隠して何も言わなかったものだが。
 「あなたは僕の言うことを聞いていたんですか? 
    僕は保育士によれば、と言ったんです。ブルーは何も言いませんよ」
 「だから、何の証拠があるんだい! 
    その保育士だって、見てたわけじゃないんだろ」
 …そうやって、怒るところが余計に怪しまれると思わないのか…。
 少々の頭痛を感じながら、口を開こうとしたとき、女の視線が隣にいる子どもに止まった。
 「なるほど、そいつの同情を引こうって魂胆かい。まったく、親がさもしいなら子どもも同じだね。」
 「僕はそんな…!」
 「親というのは」
 それまで静かだったブルーが、首を振って否定しようとするのを。
 他ならぬシンが遮った。しかも、いつもの声音ではない、畳み掛けるような、有無を言わせぬような響きに、ブルーも中年女も言葉が止まった。
 「ブルーの両親のことか? 
    そういえば聞こうと思っていたんだが、この子の親が遺したものは一体どうなったんだ? 
    この子は僕のところへ来たときには、小さいリュックひとつしか持たなかった。ならば、この子どもが相続したものは一体どうなった?」
 「そいつの親は貧乏暮らしだったんだよ! 
    相続するものなんかありゃしない」
 「それなら、弁護士にでも依頼すればはっきりする。法定代理人はおそらくあなた方でしょうが、適切な遺産の管理がなされているか、はなはだ疑問だ。実の両親が亡くなったというのに、遺影すら持たせないなんて、普通じゃないと思っていたんでね。ましてや、実の親を亡くしたばかりの子どもに向かって、その親を悪く言うなんて、人間とも思えない。」
 そういいながらシンは、古ぼけたソファから立ち上がった。
 「ブルー、帰るぞ」
 そういうと、最初は目を丸くしていた子どもだったが、シンが部屋を出ようとするのに慌てて後を追った。
 「ちょっと! あんた一体何しに来たんだい!」
 そんな怒鳴り声が背中にぶち当たったが、シンはそれを綺麗に無視すると、子どもを抱き上げ、後部座席に乗せる。そして、自分もさっさと車に乗り込んだ。
 …荷物を降ろしていなくて正解だ…。
 シンは車を走らせ、来た道を戻り始めた。
 …本当に何をしに来たんだろう…? 変に不愉快な思いをしただけじゃないか。せっかく厄介ものを追い払うチャンスだったのに…。
 後ろを伺うと、大きなはてなマークを顔に貼り付けたような子どもが、シンを見つめていた。なぜ、またこの車に乗ることになったのか、分かっていない様子だ。
 でもまあ…。
 「ブルー。僕と暮らすなら、寂しい思いをすることになるかもしれないぞ…? この数日間で分かったと思うが、僕はあまり家にいない。出張で数日家を空けることもあるしな。…そのときは君を預かってもらう先を探すが…。」
 「大丈夫! お留守番できるから!」
 呆気にとられていた子どもが、今度は身体を乗り出してそういうのに。
 …まあ、こういうのも、悪くないか…。
 そんな風に思ったのだった。
 
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        | ようやく自覚なさったシン様♪ 
        でもまあ、幼児との暮らしはなかなか大変ですからね〜。 |   |