子どもを連れて、会社に向った。だが、子どもには何も言っていない。どこかの柱にでもしがみついて、ぐずられたりしたら困るからだ。
…昨日のこともあるしな…。
昨晩この子どもに離れたくないとばかりに駄々をこねられたことを思い出し、シンはため息をついた。今この子は、ただ黙ってついてきているだけだ。
…まあ、会社の中に入っていれば、こっちのものだ。どうしても離れたくないと泣かれても、いざとなれば走ればいいだけだ。子どもの足ではついてこられまい。
そう思って何の説明もしないまま、社屋の自動ドアを通った。途中知り合いに合わないかとひやひやしていると、隣を歩く子どもが再び手を引いてきた。
「…なんだ?」
こんなところで立ち止まる気になれず、歩きながら子どもを伺った。
「…迎えに来てくれる…?」
ぽつりとそう言われるのに…目を瞠った。何の説明もしていないにもかかわらず、自分がどこかに預けられると分かっているらしい。
「あ…ああ、遅くなるかもしれないが。」
…聡明な子どもなんだろうな…。一を聞いて十を知るといった、頭のいい子どもなんだろう。
そう考えながら、シンは子どもを盗み見た。昨日の様子からは考えられないほどおとなしい子どもに、少しばかりもの足りなさを感じてシンは慌てて頭を振った。
…だから、この子は週末にはあのよく分からない親戚の、養父のところへ戻すんだって!
「お、来たな、ジョミー。」
別館のエレベーターに乗り、ホールに出た途端サムの明るい声が響いた。見ると、廊下の突き当りの部屋から顔を出して笑っている。
この友人は、出世などまったく関係ないかのようなお人よしだ。誰からも好かれ、誰にでも声をかけ、いまやお高くとまっていると敬遠されがちなシン自身にも昔と変わらぬ態度で接してくれる。
「ああ、急に電話して悪かったな。」
「気にするなよ。で、その子か。」
そういうと、サムは子どもの目線まで腰を落とした。
「こんにちは、お名前は?」
「ブルー。ブルー・オリジン。」
はっきりと、そう名乗った。昨日はあまり考えていなかったが、この年でこれだけ受け答えがしっかりしているということは、やはりしっかりしている。サムもそう感じたらしく、少しびっくりしてからにっこりと微笑んだ。
「そうか、ブルーか。じゃあ、今日からジョミーがお仕事している間、お友達と遊んだり、お遊戯したりしてここでお利口さんで待っていることができる?」
そういって保育施設の中を見る。数人の子どもが絵を描いて遊んでいる。子どもは、こくりとうなずいた。
「そうか。ブルーはいい子だな。」
そういってサムは子どもの頭をなでた。
「じゃあ、あの先生からクレヨンをもらって絵を描こうか。カリナ、頼むよ。」
カリナと呼ばれた保育士は、笑いながら入口までブルーを迎えに来た。
「じゃあ行きましょう。お友達にご挨拶もしなきゃいけないものね。」
そういって、子どもの手を取る。子どもはというと、名残惜しげにシンを見上げて、それでも大人しく保育士に手を引かれて中に入っていった。
「へえ。今朝の話じゃ昨日初めて会ったばかりだってことだったけど、随分と懐かれてる様子じゃないか。」
そういわれるのにむっとする。
「懐かれたくて懐かれたわけじゃない…! 僕としては、さっさとあの子を返したいんだ!」
これじゃ、仕事に差し障るし、恋人とのデートだってできない。
するとサムはくすくす笑った。
「まあ、そういうなよ。標準よりもはるかにかわいい子どもだし、何よりも賢そうじゃないか。」
確かにそうなのだが…。それは、傍目で見ている場合だ。実際に世話するとなると、とんでもなく振り回されて心身ともに疲れてしまうということは、昨日実感したばかりだ。
「…まあ、とにかく今週いっぱい頼む。で、何時まで預かってくれるんだ?」
「…最大午後11時までかな。でも、なるべく早く迎えにきてあげたほうがいいよ。基本的に6時までなんだが、延長はできる。1時間ごとに保育料が加算されて、25日締めで翌月給料から引き落としだ。7時超える場合は、夕食が出るから、その分も加算される。」
「何でもいい、とにかく僕は仕事にいってくる。預かりはその最大までにしておいてくれ。」
とにかく、子どもから離れて慣れ親しんだ日常に戻ることができる…! そう思うとほっとして足取りも軽くなった。
やはり午前中休んだ分が夜に回ってきた。
プレゼンの準備や日々の業務をこなしていると、デスクの上の電話が鳴った。
「もしもし?」
『ジョミー、俺だよ。』
誰かと思えばサムだった。ふと時計を見ると、午後8時。
「どうした? 延長は最大にしておいてくれと頼んでおいたはずだが?」
『それは分かってるよ。そうじゃなくて、カリナから気になることを聞かされたものだから、お前にも話しておいたほうがいいかと思って…。』
何だろう? サムが気になるというからには、あの子どものことだろうが。
『お前、今週末にブルーを親戚のうちに返すって言っていたよな?』
「? ああ、それがどうした?」
『それ…やめといた方がいいかもしれないぞ?』
「…どういうことだ?」
そんなことをサムに指図される筋合いはない。そう思ってむっとしたのだが、サムはうーんとうなりながら言葉を探しているようだった。
『お前、あの子と一緒に風呂でも入ったか?』
「? いや、昨日は一人で入らせた。」
『おいおい、あんな小さい子を一人で風呂に入れておいて、事故でも起こったらどうするんだ? 幼児は風呂でも溺れ死ぬ場合が…ああ、いや、今はそんなことじゃなくてな。カリナからブルーに変なあざがあるって言われたんだよ。』
「あざ…?」
『太もものあたりだって言ってた。本人に聞いたら、『転んだ』って言ってたらしいけど、転んだにしては不自然だし、ほかに叩かれたようなあとがあるって言ってたぞ。』
…ということは…どういうことなんだ…?
『その…親戚から暴力を振るわれたことがあるんじゃないのか?』
「暴力…?」
『もともと、あの子は経済的な理由で追い出されたんだろう。』
「そう…らしいけど…。」
『だからさ、あの子を戻すのは危ないっていうことで…』
「じゃあどうすればいいんだよ!」
つい我を忘れて怒鳴ってしまった。
被害者はこっちなんだ、生活をかき乱されて、大事な仕事にまで影響を受けて…! その上、これ以上何をしろって言うんだ!
『ま、まあ、お前が大変なのはよく分かってるけどさ…。』
一転して、なだめるようなサムの声が聞こえてくる。
『ただ…子どもに罪はないんだし…。あの子はお前のことが好きみたいだから』
「冗談じゃないっ!」
どれだけあの子どもは厄介ごとを持ち込めば気が済むんだ…! こっちは自分のことだけで精一杯なのに!
「大体、転んだって言っているんだろう、それじゃ転んだんじゃないのか! 殴られた怪我をわざわざ自分のせいにしたりはしないだろうに!」
『その辺が難しくてな…子どもっていうものは自分が悪いと思い込んで、虐待した相手をかばうこともあるんだ。』
「理解できないな。」
『お前はそういうけどさ…口止めされたってことも…。』
「サム。今急ぎの仕事が入っているんだ。話は次にしてくれ。」
何か言いたげなサムの電話を強引に切って、仕事に戻った。
虐待…? そんなことまで面倒を見ていられるか…!
むっとして再びパソコンに向う。だが、報告書を数行打ち込んで。すぐに手が止まる。
…暴力…?
シンは眉をひそめて蛍光灯を見つめた。
確かに…あんな無責任な男ならやりかねないだろう。小さな子どもをタクシーにひとり乗せて、人がいるかいないか分からないような家に送ってくるくらいだ。
それによくよく考えるとあの子どもの親が遺したものは一体どうなっているんだ…? 借金まみれで、家財道具を売り飛ばしても返済額に及ばない場合もあるが、大抵はある程度の貯金もあり、もしものときのために備えて保険にも入っているのが一般的だ。ましてや、あの子どもの親だ。子は親の鏡という言葉を信じれば、親もそれなりにしっかりしているだろうことは想像に難くない。
…幼児を虐待するくらいだ、使い込みくらいやりかねない。あの男は度胸の据わっているような奴じゃないから、ちょっと締め上げればすぐに…。
そこまで考えて、シンははっとした。
な、何を考えているんだ。あの子に肩入れしてどうする…! あんな子ども、さっさと追い出してしまわないと、こっちの生活が回らない…!
そう考えて、これ以上考えるのをやめようと。…そう思っているのに、保育施設で別れ際寂しそうな顔をしたあの子どもの顔がたびたび脳裏をよぎっては、シンはため息をついた。
午後10時。それでももう仕事を終えて、保育施設に向う。さすがに人気がなく、施設内もしんとしていた。ドアを開けると、サムはもう帰ったようで、若い保育士が待っていた。
「眠ってますよ。」
そう言われて目を向けると、小さな布団の上に毛布に絡まるように寝転んでいる子どもの姿が見えた。よく眠っている。
…そうだな、もう遅い時間だから…。
「ブルー、お迎えよ。」
だが、そう声をかけられるとぱちりと目を覚ます。そして、シンの顔を見て花のような笑みを浮かべた。その途端、シンはなんとなく罪悪感に駆られた。
べ、別に、悪いことはしていない。もともと帰りは遅れがちだし、今日は午前中の遅れを取り戻そうと頑張っていただけだ。
「…帰るぞ。」
そういうと、子どもは起き上がると慌てて毛布をたたみ始めた。
「あら、いいのよ。じゃあ気をつけて帰ってね、ブルー。」
保育士の女性がそういうと、子どもははい、と返事して。
「さようなら、先生。」
そういって頭を下げた。
とにかく…子どもは食事を食べたらしいからもういい。自分もさっきパンを食べたし、このまま風呂に入って寝るだけだ。そう思っていると、風呂が沸いたという電子音が鳴った。
「…じゃあ風呂に入るぞ。」
そういって服を脱ぐと、子どもは不思議そうな目をした。
「シンも…一緒に?」
「そうだが。」
何か文句があるのか? と思っていると、子どもは嬉しそうに笑った。
「シンと一緒にお風呂!」
な、なんでそんなことで喜ぶんだ…? 単に、サムが言った浴槽での事故が気になっただけなのに…。
にこにこ笑いながらも服を脱いで、手を引っ張る仕草に…何も言えなくなった。
困った…生活のペースだけでなく、こっちの気持ちまで乱されがちだ…。大体、子どもの扱いなんて全然知らないんだから…。
そう思いながら、子どもを見て。左太ももに青黒い打撲のあとのようなものが見えたのに、サムの言葉が思い出された。
『親戚から暴力を振るわれたことがあるんじゃないのか?』
…昨日はショックのあまりよく身体を見ていなかったな…。そんな風に反省しながら頭をかく。
「ブルー。」
そして、自分の声を聞きながら、初めてこの子どもの名前を呼んだなと思っていると、ブルーは目を丸くしてこちらを見上げてきた。
「それはどうしたんだ?」
そういわれて自分の足に目を落とし。一瞬、声を失った。
「ブルー?」
「こ、転んだの!」
やはり、保育士にしたのと同じ答えが返ってきた。しかも、焦っているのが傍目にも分かる。
「器用な転び方だな。背中のあざもそうなのか?」
「う…ん…。」
途端にブルーが緊張したのが分かった。
サムの言うとおり、不自然だ。足はどうでも、どんな場所で転んで、背中のくぼんだ辺りだけがピンポイントであざになるんだろう?
「…誰かに叩かれたのか?」
「違う!」
首が千切れそうなくらい振って否定する。
「違わないだろう、昨日まで君が世話になっていたうちの人間か? 君と同年代の友達などではこんなあざがつくまで叩くなんてことはできないはずだ。」
「違うの、本当に…!」
「そんな奴をなぜかばうんだ?」
「かばってない…! 僕、お外で転んで…!」
「だから、なぜかばう…!? 君は叩かれるのが趣味なのか!」
はっとしたときには怒鳴ってしまっていた。
そんな仕打ちを受けてまで、なぜかばう必要がある? そんなに…そいつのことが好きなのか? 今この瞬間ここにいる僕よりも?
そんな風に考えて、自分の思考にはっとした。
…これでは、僕はあのろくでもない養父に嫉妬しているみたいじゃないか!
だが、一方のブルーはというと蒼白な顔でうつむいたっきり顔を上げない。ゆえに…こちらの同様も気付かれていないようでほっとしたが、こんな小さい子ども相手に一方的にしかりつけるなんてと自己嫌悪に陥った。
「…わ、悪かった。大声を出すつもりじゃ…。」
とにかく、風呂にでも入ってしまおうと子どもの手を引っ張った。さっきまでの嬉しそうな雰囲気は消え去ってしまい、二人はなんとも言えない気分で風呂に入ることになってしまった。
それでも…ブルーの口からは虐待の事実は語られず…。その強情さには負ける、とシンはひそかに思っていたのだった。
5へ
ブルー的には、「知られたくない」というところでしょうか! なんとなくすれ違う父子(違う!)に萌えです〜。って、ハマってしまうと連続更新になってしまってすみませんねー。 |
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