…結局、コンビニに買い物に出ることにした。
自宅にあったものでは、とても食事らしいものはできないし、そもそも…あんな小さな子どもがどんな食べ物を口にするか分からない。
「…なんで僕がこんなことをしてるんだ…?」
おにぎりを2個、それから『こどもせんべい』というものがあったのでそれも買った。こんなところを同僚に見られたら、確実に笑われるだろうなと頭の端でちらりと思う。生活感がなく、スマートな自分のイメージが音を立てて崩れるだろうとため息をつきつつ…シンはコンビニの袋を下げてマンションに戻った。
そういえば、子どもは風呂に入っていたから何も言わずに出てきてしまったが、もうあがっただろうか…?
玄関を開け、室内に入ると、空調を利かせた暖かい空気が満ちている。
…これだけ暖かければ、あの子が裸でいたとしても風邪をひく心配はない。そう思ってリビングのドアを開けた。
案の定、子どもは風呂からあがっていたようで着替えとして持ってきていた下着を着ていた。その子どもがこちらを振り返った途端、シンはどきっとして動作が止まってしまった。
紅い大きな瞳から透明な涙がぽろぽろこぼれている。その子どもが泣き顔のまま、こちらに駆け寄ってきて…シンの長い足に抱きついた。
…ま、待て…。ちょっと待て。僕はこの子に何かしたか…?
もう離さないとばかりに、力の限りシンの足を抱きしめる力に驚きながらも…幼い子どもに泣かれるという緊急事態に、シンの全身は凍りついたように固まってしまった。
だ、だから…腹でも減ってるだろうと食べ物を買ってきただけなのに…なんで突然…っ。
このマンションで初めて会ったときには、こんなに夜遅いのに泣きもせず身も知らない人間の帰りを待っていたくらいだから、きっと感情の波が希薄な子どもなのだろう。そう思っていた自分の考えは、完全に覆された。小さな両手で力の限りシンの足を抱き、顔をうずめてしゃくり上げる様子におろおろするよりほかがない。その部分から、涙の温かさが伝わってきて、なおさら焦った。
…寂しかったのか…。
その様子を頭上から見下ろして、シンはふと思った。
それもそうか、両親を亡くしてまだ一月。この年頃といえば、甘えたい盛りなのだから。寂しくて不安で、広い部屋の中でひとり待っているのが…悲しかったのだろう。
そう思いつつ、ぎこちなく子どもの頭を撫でた。
「…その…黙っていなくなったのは悪かったが…。ずっと何も食べてなかったんだろう?」
そう言うと、泣きはらした顔をこちらに向ける。
「お腹がすいてないかと思って…。」
コンビニの袋を見せると、子どもは不思議そうな顔をしてこちらを伺ってきた。
「君が何を食べるかなんて分からなかったから…適当に買ってきたんだけど…」
子どもの腕の力が緩み、興味深そうに袋の中を覗き込む姿にほっとして、シンは床に座った。子どもも同じように床の上にちょこんと座る。しかも、そこはどうしてだかシンのひざの間だった。なぜ? と思いつつも袋を渡してやると、中をじっと見た後、再びシンを伺う。
「…食べて、いいの?」
「ああ。」
うなずいてやれば、子どもはごそごそとおにぎりを取り出してきた。だが、開け方が分からなかったらしい。困ったような顔をして、シンを伺ってくる。シンはおにぎりを受け取ると、包装用ラップフィルムを外して子どもに渡した。
少し戸惑った仕草ののち、子どもはぱくりと一口食べて、今度は笑顔でシンを見つめた。「おいしい。」
その笑顔たるや、天使の微笑という言葉を連想するほど愛らしく純粋なもので、シンはついそれに見とれた。
「そ、そうか…?」
「うん!」
泣き顔はどこへやら、満面の笑顔でおにぎりを頬張る子どもの姿に、シンは変な気分になった。こんな気分はここ最近感じたことがない。ほっとする、癒されるとでも言うのだろうか。
一度に食べられないのだろう、少しずつゆっくり食べている子どものかわいらしい姿を見ていると、時間の感覚を忘れそうになって、はっとして時計を見た。もう1時を大きく過ぎている。
「そろそろ離してくれ。」
明日は忙しくなるんだから、自分もさっさと風呂に入って寝よう。そう思ったのだが、子どもは首を振った。しかも言われた途端、嫌がらせのようにシンのワイシャツの裾を握る姿に、むっとした。
なぜだ? さっきまで聞き分けのいい子どもだと思っていたのに。
そう思ったが、もしかしてこの子が風呂に入っている間に留守にしたことが不安を大きくしてしまったのかと思い至り、シンは頭を掻いた。
「…もう置いていかないよ。だから、離して…。」
「いや!」
子どもはぶんぶんと首を振って、拗ねたようにうつむいた。
こんな夜中なのに何を駄々をこねているんだ、と腹が立った。そもそも、突然やってきたのはそっちだろうに!
「いいから離しなさい。」
「やだ!」
「…いい加減に…!」
あまりにも頑なな子どもに、苛立って声を荒げようとして。しかし、子どもがこちらを見上げてくる表情に、言葉を引っ込めざるを得なかった。
今にも泣き出しそうな表情、しかしそれでも泣くまいと大きな紅い瞳に涙を溜めた様子に…シンは怒鳴ることができなくなってしまった。
結局。シンはそのまま子どもを抱いた状態で黙り込み、子どもは子どもで黙々とおにぎりを食べた。
…のどが詰まらないだろうか。ビール以外の飲み物は何かあったっけ…?
そう考えていたら、突然子どもの身体がシンに寄りかかってきた。
「? どうし…。」
不思議に思って子どもを伺って。
唖然とした。どうやら、食べながら寝てしまったらしい。8割方食べられたおにぎりの残骸がころんと床に転がった。同時に、すうすうという寝息が聞こえてくる。しかも、左手ではしっかりとシンのシャツの裾をつかんでいた。
こ、困った、どうやって脱出しよう…。
起こすと、さっきみたいに泣かれるんだろうか? それなら起こさないようにそうっとここから抜け出して…。
シンは細心の注意を払いながら、なんとか子どもから逃れることに成功した。シャツを握った手は簡単に緩みそうになかったので、衣類はその場で脱ぎ捨てた。
「…ひどい目にあった…。」
ため息をつきつつ、改めて子どもに目をやる。床の上に転がった状態だが、今はよく寝ている。仕方ないので、薄手の毛布を出してきて、子どもの身体にかけておき、シンは身体を伸ばした。
…ああ、風呂に入っている間に目が覚めるとまた厄介なことになりそうだから、さっさと上がってこなければいけないな。それに、あの汚い服も洗って乾燥させなければ…。まったく、今日はどんな厄日なんだ…?
全自動の洗濯機に子どもの衣服を突っ込んで乾燥までの設定をしてから、まさにカラスの行水といった様子で風呂を上がって…疲労のあまりシンはベッドに倒れこむように眠ってしまった。
ピピピピピ…。
目覚ましの音が聞こえる。
…ああ、起きる前から疲れている気がする。昨日はとんだ珍客があったから…。
そう思いつつ目を開けて。自分の隣を見て驚きのあまり固まってしまった。なんと、昨日リビングの床で寝ていたはずの子どもが、シンのベッドに入り込んで眠っている。
な、なぜだーーー?
なぜも何も、夜中目を覚ました子どもがシンのいないことに気がついて、探したに違いない。幸い寝室は同じフロアだから、勝手にベッドに入り込んできて眠ったということなのだろう。
「…なんだって僕にくっつきたがるんだ…。」
こんな子ども、迷惑なのに。昨日は寝ながら、週末にはあのよくわからない親戚にこの子を返しにいこうと思っていた。経済的な問題だというのなら、子どもごとまとまった金を置いてきても構わない、と。
…子どもは嫌いだ。どんなひどいことを考えていても、こんな風にすがってくる。愛玩犬は、鋭い牙も強い力も持たないから、その愛らしさを武器にしているのだと聞いたことがあるが、子どもとは、まさにそういった生き物なのだろう。
そう考えていたとき、子どもの目がぱちりと開いた。こちらの考えなど分かろうはずもないのに…どきっとする。だが、子どもはじっとシンを見上げてきて、にこりと微笑んだ。
「おはよ。」
この顔だ…。
シンは脱力しながら思った。
この、愛らしい愛玩犬を想像させる笑顔が曲者なのだ。これでは怒ることもできないじゃないか…。
「…朝食はパンだぞ。」
そういって起き上がると、きょとんとした表情を向けてくる。こちらがベッドから出れば、一緒にベッドを降りてついてくる。
…とにかく…ほんの数日間だろうが、この子どもを預かってもらわなきゃ仕事にならない。役所にでも問い合わせるか…。
今は朝食を終え、数本のスプーンを並べて遊んでいる子どもを眺めながらそう思った。…それにしても、スプーンなど何が面白いんだろうか。
しかし、役所への問い合わせでは、待機児童が多いためすぐに認可の保育園に入れることは難しいという返事で途方に暮れた。それでは困る、どうしてもダメなのかと同情を引く作戦に出たが、短期で預かるということなら、高つくが無認可のベビールームはあると言われた。ただし、認可外なので問題のあるところが多いとも。
困り果てて、今は福利厚生課にいる同期生を思い出し、そこに電話をかけてみると。
『じゃあ、会社の保育所につれてこいよ。』
そんな返事が返って、びっくりした。
『何だ。お前、うちの会社に事業所内保育所があるの、知らなかったのか?』
「し…知らなかった…。」
そう言うと、電話口の同僚は笑った。
『ジョミーらしいな。いいぜ、今日の午後から預かれるように手続きしておいてやる。とりあえず、預かる子どもの着替えは持ってきてくれよな。』
「分かった。恩に着るよ、サム!」
『大げさだよ。じゃあ待ってるぜ。』
…よかったーと、ほっとして電話を切った。意外なところで問題が解決したため、一気に心が軽くなり、じゃあ、この子どもの服でも買いにいくかと立ち上がった。
「おや、かわいい。いつの間に子どもなんか作ったんだい?」
気風のいい姉後肌の店長は笑いながらそう聞いてきた。
「冗談はやめてくれ。この子は親戚の子どもなんだ。」
複雑な血縁関係を説明するのも面倒だったので、この子どものことは一言で済ませた。
確か行きつけの洋装店には、子どもものもあったはずだと思いここにきてみたのだ。ショッピングセンターで、子どもの衣服をひとつひとつ物色すると思っただけで気が遠くなる。
「何でもいいから、適当な普段着を何着か見繕ってやってくれ。」
一方の子どもは、きょとんとした表情でシンと店長を見比べた。
「かわいいから飾りがいがあるね。まあ、待ってな。」
そう言われたので、シンは椅子に座った。子どもはというと、困った様子でシンを見つめていたが、それでも若い店員に手を引かれて大人しく奥に入っていった。
その様子を眺めつつ、店長はシンを見遣った。
「で…? あのジャーナリストの彼女とはうまくいっているのかい?」
コーヒーを淹れながら、ハスキーな声でそう訊いてきた。
「そうだな。お互い忙しいからなかなか時間が取れないが。」
「美男美女のカップルか、いいねえ。」
こんな物言いなら、通常なら嫌味っぽく聞こえるところだが、彼女の場合はさばさばしているせいか、まったくそう聞こえない。そういうところが気に入って、シンはここの常連になっているのだが。
「できましたぁ。」
「とってもかわいいですよ?」
その声に振り返って。愕然とした。
「な、何で…!?」
「おや、かわいいじゃないか。まるでジュニアアイドルみたいだ。」
白いフリルのブラウスに、ピンクのジャンパースカートといったいでたちの子どもが立っていた。しかも…似合うというところが怖い。
「…いや、ちょっと待ってくれ。その子は男の子なんだ。」
かわいいを連呼する店員に脱力気味にそういうと、まわりじゅうはきょとんとしてから、大爆笑となった。
「おやまあ、そうだったのかい。」
「あんまりかわいいから、間違えちゃった。」
そんなこんなで服を選び直し…3,4着の子ども服を買って店を出た。
このあと一旦家に戻って荷物を置いて、一着分だけの着替えを持って会社に行けばいいだろう。そう思っていると、子どもがくいくいと手を引いてきた。
何だ? と子どもを見ると。
「いっぱい、お洋服買ったけど…お金大丈夫?」
こんな子どもに心配される筋合いなんかないと気分を害しかけたのだが…。そういえばこの子は経済的な理由でこんなところへ来るハメに陥ったのだったと思い出した。おそらく、向こうでは相当心無い言葉を投げつけられていたのだろう。
「別に何ということもない。」
「ホントに?」
「…当たり前だ。」
所得に関しては、平均的な家庭のものよりもはるかに多いのだから。すると、子どもはほっとしたように笑った。
「よかった。」
嬉しそうな子どもの笑顔は…やはりかわいらしい。自然とこちらの表情も緩んだ。
いや、そんなことよりもだ。
「それより、さっきの店でのことだが。」
そういうと、子どもはきょとんとしてこちらを見上げる。
「…君は男の子なんだから、女の子の服を着せられたら、『僕は男の子です』ってきちんと言わないとダメだろう。」
「だって…。」
すると子どもは困ったようにうつむいた。
「かわいくしていれば、シンが喜ぶって言われたから…。」
その言葉に、何とも言えず脱力してしまい…シンはため息をついて明後日の方向を見た。さらに。
「…僕…男の子じゃ…ダメだった?」
そう悲しげにいわれるのに、なぜそうなるんだ!? と慌てた。
「別に、男でも女でも同じだ!」
…なんだか妙に鋭い部分を突っ込まれた気分で、この子どもはさっさと手放してしまおうと、そう思っていた。そうでないと、とんでもないことになりかねないと、漠然とした不安がシンの心を占めていた。
4へ
なんだか犯罪者のようなシン様〜。ブルーには『大きくなったらシンのお嫁さんになる!』と宣言して、もっとシン様を困らせてあげたいです♪ |
|