「と、とにかく中へ…。」
ともすれば、平静を失いそうになるのを何とかこらえながら、シンは震える手で鍵を操作してドアを開いた。こんなところでうっかり子どもに泣かれでもしたら、自分は思いっきり不審者である。冤罪であっても、警察沙汰になるような事態は避けたい。ましてや、今は社内の重要なポストをめぐって熾烈な争いを繰り広げている最中なのだから。
しかし。ブルーと名乗った子どもは入ってこようとしない。相変わらず、じっとこちらを見つめているだけ。まるでシンの乱れた内心を分かって、それをものめずらしく思っているかのように。
…これだからガキは苦手なんだ…! 何も分かってないくせに、変にこちらをどきっとさせるような眼差しを向けてくる。
苛立ったシンは、子どもの手を握って引っ張ろうとした。その途端、氷に触れたような感覚に驚いて…。動作が止まった。
…ちょっと待て。この子はいつからこんなところにいたんだ…? まだ春先の寒い時期、ましてや今は夜中ともいえる時間。
「…ブルー、と言ったな? 君は一体何時からここにいたんだ…?」
ここはセキュリティがしっかりしているから、ロビーまでは入り込むことができるが、それ以上は無理だ。外にいるよりはマシだが、こんな場所では暖かいとはとてもいえない。
だが、ブルーという子どもは目を見開いて首を傾げているだけだ。
…こんな小さい子では、時計など読めないか…。
「…いいから、早く来い。」
そういわれて、ようやくブルーは小さなリュックを担いでシンについて歩き出した。
…変な子どもだ。
シンは大人しくついてくる子どもを見ながらため息をついた。夜こんなところに一人でいても怖がりもしない。寂しいと泣きもしない。
まあ…とにかくだ、そのよく分からない親戚に文句を言ってやる。
そう考えて、シンは玄関のドアを開けた。
部屋の中に入ると、脇にいる子どもが「わあ」と小さく声を上げたのが分かった。
フローリングの広い室内から見える窓からは、綺麗なネオンや首都高を走る車の光が見える。まさにエグゼクティブの証明ともいえるロケーションである。
シンは子どもの手を離し、まずはバスルームに入った。後で風邪をひかれると困るので、さっさと湯を張って風呂に入れてしまおう。
風呂はすぐに沸くはずだとシンは部屋の中に戻った。子どもは窓の傍に寄ってものめずらしそうに景色を眺めている。それを横目で見てからふと室内に目をやると、留守電メッセージが入っていることに気がついた。
『メッセージは3件です。1件目、今日の午前10時10分。』
ディスプレイには見たことのない電話番号が表示されていた。
『突然のことで悪いが、あんたの遠縁の子どもを預かってほしい。今からタクシーでそっちに行かせるから。』
…なんだって?
ネクタイを緩めながら聞いていたシンは、そのメッセージに目をむいた。
「こ…っ、こんなことを留守電に入れてくる奴があるか!」
その怒鳴り声に子どもがびくりと身体を揺らし、こちらを伺うように見つめてきたのが視界の端に映ったが、構っていられなかった。
午前10時過ぎなら出社したあとだ。普通のサラリーマンなら自宅にいない時間、その時間を狙ってきたとしか思えない。それにお昼前? じゃあこの子どもはいつからここにいたんだ? 食事は…どうしたんだ?
2件目のメッセージを聞く前に留守電を切り、表示されていた番号に電話をかけた。すでに夜の11時を過ぎている。非常識な時間だろうと、こんな非常識なことをする相手ならお互い様だと思った。
十数回のコールの後、ひどく不機嫌そうな男が出た。留守電メッセージを入れてきた男だと直感した。
「あんた、一体何を考えている…!?」
開口一番、大声で怒鳴りつけた。
「あんな小さい子を一人でこんなところへ寄越して、あとは留守電に入れて知らんふりか! 僕は会社に泊まることだってあるし、出張に出ていることだってある! あんた、無責任すぎだろう! 現に僕は今帰ったところだ!」
今日遅くなったのは、仕事のためではなくデートのためだったが、そんな細かいことを説明してやる義理はない。
シンの剣幕に、相手の男はおろおろして、しばらくだけだから、とかちゃんと引き取り先を探すからとごにょごにょ言い訳をしていたが、今日のところはもうどうしようもないだろうとシン自身も思っていた。
とにかく、さっさと引き取り手を探せと怒鳴ってから、力任せに電話を置いて。
はっとした。
子ども紅い目がこちらをじっと見つめていた。
…邪魔扱いされて、涙を浮かべているだろうか? それとも、犬猫のように言われて怒っただろうか…?
そう思って恐る恐る目を向けたのだが…。表情は全く変わっていなかった。先と同じように邪気のない大きな瞳をこちらに向けている。
…子どもだから、何の話をしているのか分からなかったんだろう。多分、僕の声に驚いただけなんだ。
そう思ってほっとしたとき、風呂が沸いたことを告げる電子音が聞こえた。
「…とにかく…もう遅いから風呂に入れ。」
そういうと、子どもはこくりとうなずいて、ごそごそと洋服を脱ぎ始めた。外見があまりにもかわいらしかったせいで気がつかなかったが、子どもはひどくくたびれた男の子用の服を着けていた。しかも、洗濯しているのかいないのか、かなり薄汚れている。
…これで、かわいいピンク色のスカートでも履けば、もっとかわいくなるんだろうに…。いや、目の色と合わせて、赤い方がいいのか…。
ふと考えてしまった自分のらしくない思いに唖然として。さらに、子どもが完全に服を脱いでこちらを見上げる姿に…言葉も出ないくらい驚いた。
…お、男の子…っ!?
「お風呂って…あっち?」
「あ、ああ…。」
シンがうなづくのを確認してから、子どもは風呂に向った。
…なんだかショックだ…。
子どもが風呂場に消えていく姿を眺めつつ、シンはがっくりとため息をついた。
自分に幼女趣味はないはずなのに、あの子どもが男の子だと分かったとたん、こんなに失望するなんて…。
シンはのろのろと、子どもが脱いだ服を見た。多分畳んだつもりなのだろう。シンはきちんと一箇所にまとめて置かれた洋服を見やってから、その隣にある小さなリュックに近づいた。中を覗くと、あの子どもの持ち物はほとんどないことが分かる。下着がひとそろえだけで、パジャマも洗い替えの服もない。
…まあ…今晩は寝るだけだから、空調でカバーできるだろう。下着だけでいても風邪をひかないようにしておけば、それでいい。それよりも。
シンは再びため息をついた。
問題は明日からだ。さすがにこんな小さい子を一人で置いておけないことは分かる。もし何かの事故でもあって、この家の中であの子が死ぬようなことにでもなれば、僕を蹴落とそうとする奴らが喜ぶだけだ。保育施設に入れなければいけないが、すぐに入れるようなところはあるだろうか…。
ああ。そういえば昼食も夕食もとってないのか…? 腹が減ってるだろうな。子どもが食べるようなものなんかあったっけ。いつも外食だから、冷蔵庫にはビールくらいしか置いてなかったような…。戸棚にクラッカーがあったかもしれない。
それに、この服はやはり汚い。洗わなければいけないが、自分で洗濯機を動かすなんて久しぶりだ。あの様子じゃ、すぐに引き取り先は見つからないだろう。どうしても見つからなければ、孤児院かどこかに入れて、里親でも探してもらうことになると思うが…当面、着替えも必要だな。いくらなんでも一着だけじゃ足りないだろうし、パジャマも買ってこなきゃいけないか…。
そこまで考えて、シンは頭を掻いた。
…とりあえず…明日の午前中は休みを取らなきゃいけないだろうな…。仕事が遅れるから午後には会社に顔を出したいところなんだが…。
さらに、リュックの底から戸籍謄本が出てきた。年齢は3歳。最初に見た手紙のとおり父母が鬼籍に入っているのが分かった。しかも。
「…一月前…か。」
…それなのに、悲しいという感情のかけらさえ見せないなんて。
あの子はやはり変な子どもだと思った。
3へ
どうして私、ブルーの設定はいつもかわいそうになっちゃうのかなあ…。ま、それはさておき、そーんなに長くならない予定なので! ご安心くださいませ♪ |
|