「お待ちになって」
今にもブルーを追って飛び出そうとしているシンに、フィシスはおっとりとした声で呼びかけた。
「な…!」
何なんだ、一体!
振り返りざま、そう叫ぼうとしたシンは、フィシスの手にあるものを見て目が点になった。
「丸腰では、あまりに無防備ですわ。せめてこれをお持ちになって」
「これをって…あなたはこれをどうやって手に入れたんだ…?」
フィシスの手にのっているもの。
それは、軍隊出身のシンにとってはなじみが深いが、一般市民にとってはあまり目にすることはないだろう大口径の軍用拳銃、コルト・ガバメントだった。しかも、軍の中でも出回っている型ではない。
「あら。蛇の道は蛇というではありませんか」
「どんな道なんだ!」
「まあ大変。車が行ってしまいますわ」
その言葉に、シンは慌てて窓の外を見た。車はすでに動き始めていて、このままでは見失ってしまう。
この怪しい女に突っ込みたい気持ちはやまやまだったが、シンはそれ以上何もいわず、フィシスの手から銃を奪うようにひったくると、外へ出た。ブルーを乗せた車が3ブロック向こうの路地を右に曲がっていくのが見える。シンはそれを見届けてから、細い路地に走りこんだ。
土地勘はないが、あの車がこの界隈のどこに行くかというのは、何となくわかる。それはパイロットとしての勘というよりも、元軍人としての勘だ。ごみ溜めのような路地を駆け抜け、廃墟となった建物を通過し。その様子を、同僚のキャビンアテンダントの彼女たちが見れば、黄色い悲鳴を上げて喜ぶことだろう。そのくらい、野性味あふれる雄々しい姿だったのだ。
少し開けた場所に出たシンは、少しばかり息を切らしながら立ち止まった。
…当たり、だ…。
ブルーを乗せた黒い車が乗り捨てられていた。シンは注意深く車に近づいたが、やはり誰も乗っていない。
…さて、このあたりだが…。
そのとき、上のほうから物音がした。その方向を見上げて。…シンは手にした拳銃を落としそうになった。
まるで、瓦解寸前のようなビル。ところどころ壁が崩れ、鉄骨がむき出しになっている。それに、まだビルとして機能していたころには何度も増築を重ねたらしく、まるで迷路のようになっているだろう内部が見てとれて、シンは生唾を飲み込んだ。おまけに、建設費をケチったのか、手抜き工事が見え見えで、コンクリートがもろくなっている様子も分かった。
い、今のは気のせいだ…。
シンは強引にそう思おうとした。しかし、悲しいかな元軍人としての勘は、ブルーがこの今にも倒壊しそうなビルにいると告げている。やがて、上のほうから何やら声が聞こえてくるのには、さすがに自分を誤魔化しきれなくなってしまった。何を言っているのかは分からないが、その中に聞き覚えのある声を確認し、シンはさらに硬直した。
…か、勘弁してくれ…っ。
どんな爆心地にも赴こう。爆撃と銃弾が降り注ぐ敵地にも赴こう。でも…。
これだけはイヤだっ!
シンの顔は見る見る青ざめた。高いところにあがるというだけでも腰が引けるというのに、こんないつ崩れるか分からないような恐ろしい場所へ入れというのは、高所恐怖症のシンにとっては酷な話だ。
…ブルー…不甲斐ない僕を許してください…。
助けに行かなければと思うが、どうしても足が言うことをきかない。だが、はるか上のほうから何かが壊れる音が響いた途端、シンの脳裏に不逞の輩に乱暴されるブルーの姿が思い浮かんだ。
「ブルー!」
シンはその音にはじかれるようにして、建物の中に走りこんだ。その勢いたるや、とても高所恐怖症の人間のものとは思えない。壊れかけたビルのロビーを走り、今にも崩れそうな階段を二段飛ばしで駆け上がって行く。
ブルーが危ない…! 僕だってまだキスさえしてないというのに…っ!!
…イマイチ動機が不純ではあるが、このときのシンには高いところの恐怖など吹き飛んでしまっていた。
「君たち、こんなことをしてただで済むと思っているのか!」
ブルーの声だ!
5階に到達したとき。その奥の部屋から凛とした声が響いた。
「ただで済まなかったらどうだと言うんだ?」
下卑た笑いを含んだ声が聞こえた。
「警察に通報する。それが嫌なら、さっさとこの縄を解いて僕を解放したまえ!」
「そんなつれないこと言わないで、楽しもうぜ」
「僕は金なんか持たない。一介の勤め人なんだから、誘拐したって取れる金など高がしれている」
「金なんかよりも、いいもの持ってるじゃねえか」
縄で縛って楽しむだって…? しかも、金よりもいい、ブルーのものを狙っているだと!?
まるでブルーの反応を楽しむかのような声に、シンはフィシスから渡された拳銃を構えながらゆっくり近づいた。頭は怒りで今にも爆発しそうだが、軍人としての感性で何とか抑えている状態だった。…そのおかげか、高所恐怖症などすっかり消し飛んでいるらしいが。
シンは戸口まで足音をひそめて近づき、中を伺った。中央に後ろ手に縛られたブルーが座っていて、その周りを4人の男たちが取り巻いている。
美味しすぎる…っ!
口に出せば不謹慎極まりないことだろうが、シンはついそんなことを考えた。
ああ、気丈なあなたの表情は、なんて魅力的なんだろう…! チーフパーサーとして機内を歩く姿も蠱惑的だが、こんな風に怯えさえおくびにも出さず、強気に見上げる姿は…!
…ヒトの執務姿勢を、そんなイロモノを見るような目で見られていると知ったら、さすがにブルーでも怒るだろう。ましてや、こんな妙ちくりんな状況で欲情されていると分かったら、絶望したくなっても仕方あるまい。
ブルー、今僕が助けます…!
「動くな!」
そう叫ぶと、シンは戸口に立ちふさがった。男たちはびっくりして棒立ちになってシンを見つめる。中央にいたブルーがこちらを見た途端、ほっとしたように表情が緩んだ。
「…ジョミー…」
「もう大丈夫です」
シンはブルーに微笑みかけると、男たちをにらんだ。
「…この人を解放してもらおう。でないと、痛い目を見ることになる」
男たちは顔を見合わせた。そのうちの一人がにやりと笑ったと思うと、上着のポケットに右手を突っ込もうとした。その途端、大きな銃声が響き渡り。
「うぎゃあああ!」
その男は右肩を撃たれ、床に転がった。
「すまない。これは軍で使用されている銃だから、通常の拳銃よりは威力が大きい。それでも、かすめた程度だから、ただの単純骨折と出血で済んでいるはずだ。まともに当たれば、肩の骨など砕けてしまうだろうな。だが」
シンの緑の瞳が鈍く光る。
「次はうまくかすめられるか、自信がない。うっかり身体にでも当たってしまえば、間違いなく内臓に大穴が開く。僕の射撃成績は、軍の中でも中の下だったからな」
その言葉に、男たちは震え上がった。
「分かったなら、ブルーの縄を解け」
静かにだが、有無を言わさぬ声で命じると、男たちのひとりが慌ててブルーに駆け寄って縄を解いた。
「ゆっくり。こちらに歩いてください、ブルー」
彼らは何もできはしない、と優しく声をかけると、ブルーは自由になった手首をさすりながら立ち上がった。
「…驚いたな。君は一体どこで僕のことを見ていたんだ?」
慌てる風もなく、ブルーはシンに向かって歩み寄ると微笑みながら見上げてきた。
「あなたのことならいつも見ていますよ」
…それではストーカーだ。そんなツッコミは置いておいて…。
シンもそれに応えるように微笑む。そのとき、ブルーのうしろが目に入ってきた。けがをして転がったリーダー格の男を中心に、動く気力を失った男たちの背後。その壁の割れ目から覗く、街並みが目に入ったその瞬間。
…シンは魔法にでもかかったように動けなくなった。
冷や汗が首筋を伝い、足が震えだす。ブルーのことで頭がいっぱいだったせいか、たった今の今まで気にならなかったこの高さが、一気にシンの脳内に恐怖の感情を持って広がり出した。
シンの身体は…すっかり硬直してしまった。
しかし、そんな様子にはまったく気がついていないらしいブルーは、相変わらず微笑みながらシンに話しかけていた。
「君が元エリート軍人だということを、今初めて思い知ったよ。荒っぽい軍隊と、紳士な君とがどうしても結びつかなかったからね」
しかし、シン自身はまったく応えることができない。今この場で倒れたら、ブルーがこの目の前の男たちにやられてしまう。それだけは避けたい、とばかり思っていた。
「それに、射撃の腕が中の下なんて言っていたが、それはウソなんだろう?」
キースから、君は空軍でありながら、射撃王の座を競っていたと聞いたことがあるよ、とこともなげに口にするのに、後ろの男たちはさらにシンを恐れの混じった視線で見つめてくる。
な、何とかしなければ…。こいつらに僕が高所恐怖症だなんてバレたら…。いや…っ、それ以前に、絶対ブルーには知られるわけにいかないんだ!
ひそかに絶体絶命の大ピンチを迎えているシンだったが、幸いというか何と言うか、誰も気がついていない。
誰か…っ、この状況を何とかしてくれ…っ!!
そう強く念じたとき。遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。それは徐々にこちらに近づいてきて、赤い回転灯の光までが見えてきた。
「…君は用意周到だな。警察を呼んでおいたのか」
感心したようにブルーがつぶやいたが、シンは相変わらず銃を男たちに向けたまま硬直していた。いや、男たちにとっては、シンが男たちが妙なことをしないか、警戒しているように見えているようだが。
やがてパトカー数台がビルの前に到着し、警察官がこちらにあがってきた。その場にいた男たちは抵抗することもなく逮捕され、うちひとりは即座に病院送りになった。
の、だが…。
「ジョミー、僕たちも行こうか。…ジョミー?」
男たちが警察に連行された直後、震える手で銃を下したシンに声をかけて歩き出そうとしたブルーだったが、ようやくシンの様子がおかしいことに気がついた。そして、シンを伺おうとした途端。
「どうした…?」
シンの身体がゆっくりと傾いだ。
「ジョミー!? しっかり!!」
「君…どうしたんだ!?」
警察官も気がついて駆け寄ってきたが、そのときにはシンは完全に気を失って埃だらけの床に倒れ伏してしまっていた。
このとき。
誰か気がつけばよかったのだが、シンが気を失った理由が高所恐怖症によるものであったということは、誰にも分からず…。原因不明ではあるが、極度の緊張状態に置かれたためということになったのは、よかったのだか悪かったのだか…。
7へ
てなわけで、シン様フィルター続行中! だーかーら、さっさと打ち明けろってなツッコミが聞こえてきそうですね♪
ちなみに、警察に通報したのは怪しいフィシス様ですよー。 |
|