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      それからブルーとシンは言葉を交わすことがなかった。それは帰りの便でも同じことだった。ハイジャックを警戒して操縦席は完全に隔絶されているためということもあるが、ブルーは明らかにシンを避けているからなのだ。「…おい。」
 キースの不機嫌そうな声がコクピットの淀んだ空気の中に落ちる。
 「落ち込むのならよそでやれ。これから十数時間のフライトなんだ、お前のシケた顔を見てると、こっちまで疲れてくる。」
 そう言うと、隣のシンは深くため息をついた。
 だが、キースが『シケた顔』と評したシンの憂いを帯びた表情は、キャビンアテンダントの女性たちに人気のある表情だ。
 「…ブルーが口を利いてくれない。」
 「…だから打ち明けろと言っていただろうが。」
 何があったか、おおまかなところは知っていた。キースが深夜になって部屋に戻ったとき、シンはひどく落ち込んだ様子でベッドに腰掛けていた。その様子が、飛行機の中で別れたときとあまりに違いすぎるため、シンから事情を聞いたためなのだが。
 「大体だな、女というものは完璧な男よりは、完璧な中にちょっとした弱点を持っている男に魅力を感じるらしいぞ。母性本能をくすぐられるという奴らしい。」
 「…ブルーは女じゃない。」
 「そ、それもそうだが…。」
 キースの慰めもシン自身の鋭いとも思えぬツッコミであえなく止まってしまう。
 「しかし、簡単に治るものでもなし、ずっと隠しおおせることのほうが、よほど無理がある。」
 うんうんと自分でうなずきながらも、キースは言葉を継ぐ。
 「催眠療法によって数分で治すなどという怪しい話を吹聴する輩もいるが、通常は精神病である不安障害を克服するということは難しい。だから。」
 「…催眠療法…?」
 「変に誤解されるくらいなら、いっそのこと小さなプライドなど捨てて…。」
 「教えてくれっ!」
 言いかけたキースだったが、突然シンから胸倉をつかまれ、目を白黒させて言葉を止めた。
 「な…なんだ…?」
 「催眠療法で、高所恐怖症を治すという人間だ!」
 「…あ…。」
 だが、キースはというと、気まずそうにシンから視線を外した。うっかり口が滑ってしまったという様子がありありと見える。
 「いや…今言ったとおり、とにかく怪しい相手なんだ。そりゃ、効果のほどは期待できるかもしれんが…。」
 「誰なんだ、教えてくれ!!」
 またしても、余計なことを言ってしまったという風体で、キースは黙り込んだ。シンは静かにキースから手を離し、再びため息をついた。とりあえず、今はオートパイロットなので、よほどのことがない限り、操縦桿を握る必要がない。
 「…これでも、いくつも病院を回ったんだ…。特に、ブルーに出会ってからは…何とか治せないかと思って…。」
 けれど、どこも同じ。長い時間がかかりますといわれ、結局はカウンセリングの回数を重ねただけだった。
 「…まあ…お前の気持ちは分かるが…。」
 「分かってくれるのか!」
 今度は強引にシンに引っ張られ、両肩を掴まれるキースである。しかも、そう簡単に操縦席を立てないのだから、逃げようがない。
 でも、腰が引けているだけではいけないと思ったらしく、キースはきっと顔を引き締めた。
 「しかし、紹介するかどうかということになると話は別だ。とにかく本当に怪しいのだ、治療費は金では受け取らないという。じゃあ何だといえば、時間少しいただきますとか生気を少し分けてもらいますとか…。とにかく胡散臭いことこの上ない。」
 「だが治るのだろう?」
 シンがそう問えば、キースはうっと詰まった。
 「…そう…は聞いているが…。」
 「ならば構わない。時間だろうが生気だろうが、その男の望むものを差し出そう。」
 「正気か、お前! そんなおかしな話を真に受けるつもりか?」
 「こちらはわらにもすがりたい気分なんだ、多少変な奴であっても、治るのなら何でもいい。」
 「…そいつは女なんだが…。」
 「どっちでも気にしない…! 頼む、キース!」
 さらにシンに頭を下げられ…キースは天を仰いだ。
 「…つまらないことを言ってしまったな…。そこまで言うなら紹介はするが…彼女が信用に足るかどうかは、自分で判断してくれ。」
 「すまない、キース!」
 喜色満面で頭を下げたシンだったが、ふと思い出したように顔を上げ、キースを見つめた。
 「…ところで、キースこそどうしてそんな女と知り合いなんだ?」
 すると、キースはまずいものを飲み込んだような顔をした。
 「…そのことには二度と触れないでくれ、ジョミー。」
  シンは帰国したその足で、キースの渡してくれたメモに書かれた住所のある場所に向かっていた。どうも治安のよさそうな場所ではないが、間違いはないらしい。『俺だって係わり合いになりたくてなったわけじゃないが…その怪しい女の元にはやんごとなき身分の奴もお忍びでやってくるらしい。その女にも十分注意する必要があるが、お忍び途中の奴らに出くわしてもまずいぞ。』
 キースは心配して言ってくれているようだが、そんな話を聞けば高所恐怖症もたちどころに治すというその女の信憑性が増したような気分になって、シンは幾分早足で歩いた。
 「…何かお探しですか?」
 そのとき。
 背後から涼やかな声が聞こえてきた。後ろを振り返れば、美しい長い金の髪の女性が立っていた。年のころは17,8歳、目を伏せているが、文句なしに美人である。おまけにフードつきのコートを着ていても、そのグラマラスな身体はよく分かった。
 「フィシスと言う女性を探している。このあたりに住んでいると聞いているが。」
 あら、と彼女はふわりと微笑んだ。
 「フィシスは私ですわ。」
 シンは一瞬目を見開いた。何となく、何となくだが、キースの態度からとんでもない女傑といったイメージを抱いていたのだ。そう、もっと大柄で人相が悪く、横柄な口を利くような…。
 その彼女が小鳥のようにちょこんと首を傾げた。
 「でも、どうして私のことをご存知なのかしら…? あなたとは初対面だったと思いますけれど。」
 「キース・アニアンから紹介を受けました。」
 そう応じると、彼女は納得がいったようにうなずいた。
 「そうですか、キースのお友達なのですね。そういえば、あの方はお元気なのですか? 随分と会っていませんが。」
 その様子にほっとした。ここで門前払いになったらどうしようと思っていたのだ。
 『…大体、俺の名前を覚えているかどうか…。大分昔の話だからな。』
 …その昔の話は絶対に蒸し返そうとしなかったが、キースの名は彼女の記憶から消されずにいたらしい。
 「こんなところで立ち話もなんですわね。どうぞ、お入りくださいな。」
 シンは黙ってうなずくと、彼女に続いて決して華美とはいえない建物の中に入った。
 「今、お茶を淹れますわ。」フィシスは目を閉じているとは思えないほど危なげない手つきで茶器を取った。
 「いや、結構。それよりも頼みたいことがある。」
 「あら、せっかちですこと。あなたの悩みが解決せずにいたのは、そのこらえ性のない性格のためではないですか?」
 …どきっとした。
 まだ何の話もしていないというのに、彼女には何もかも分かっているような気がした。
 「そう焦るものではありませんわ。キースのことも気になっていたところですの。ゆっくりしていってくださいな。」
 …ここまできて焦る必要もあるまい。
 シンは気持ちを切り替えて、お茶を淹れる彼女を見守った。
 
   
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        | 溺れるものはわらを掴んで達者でな…にならないといいのですが! ああ、それよりもブルーとの絡みがなくて悲しい…。 |   |