『当機はアタラクシア空港へ到着いたしました。皆様にはたいへんご迷惑をかけましたことをお詫び申し上げます。』
チーフパーサーの声を聞きながら、機内はほっとした雰囲気に包まれていた。
ようやく着いた。
どうなることかと思った。
それは乗務員たちも同じだった。深々と頭を下げ、乗客を送り出したあと、キャビンアテンダントの女性たちはリラックスした表情で笑いあった。
「やっと着いたー!」
「ホントに怖かったわ。」
彼女たちにしても、突然のトラブルは恐ろしかったようだ。シンの手腕がなければ墜落していた可能性だってあったのだから。
「一通りの作業が終わったら、君たちはホテルに帰りたまえ。」
「あ、チーフ。」
ブルーは興奮気味に話しながら作業をしている女性たちに声をかけた。
「あとは僕がやっておく。疲れただろう。」
「ええ、いいんですか?」
嬉しそうに微笑む彼女たちは、おそらく女性だけで飲み会でも開くつもりなのだろう。
「構わないよ。」
自分も疲れたが、それ以上に彼女たちに休息を取らせてやりたかった。面倒見がいいといわれるのはこういうところかもしれないなと自分で思う。
「じゃあ、お疲れ様でしたー!」
「お先に失礼しまーす。」
微笑みながら嬉しそうに機内を去る彼女たちに手を振ってそれを見送ってしまったあとは、飛行機の中はがらんとする。フライト中はざわめいている機内がひどくさびしく思えた。
それでも、ブルーは気を取り直して座席の周辺をチェックし始めた。一通りの掃除は終わったが、器具が壊れている部分があるかもしれない。小さな忘れ物があるかもしれない。そう思って座席のひとつひとつを確認していたのだが。
「…まだいたのか。」
後ろから声が聞こえた。その皮肉っぽい声は…。
「キース…?」
振り返りざま、それはこっちの台詞だと言おうとして。くらりとめまいがして言葉が止まってしまった。だが、相手に気づかれたような気配はなく、ブルーはさりげなくめまいが治まるのを待って立ち上がり、キースに向かい合った。
キース・アニアンとは同時期に航空会社に入社した、いわゆる同期生だ。あまり気が合う相手だとは思っていなかったが、それでも機長となったキースとチーフパーサーであるブルーとはよく同じ機に乗り合わせた。その関係で、言葉を交わすことも多い。
「降りようとしたら、誰もいなくなっていたから、てっきりみんなホテルに行ってしまったものだと思ったんだがな。」
キースももうホテルに行くつもりらしく、黒いスーツケースを片手にこちらを見下ろしていた。そして、彼の後ろにはシンの姿もあった。
「ああ、彼女たちだけ先と帰らせた。」
キースとシンは、二人で反省会も兼ねて飲みに行くんだろうな…。女性にモテるという二人のことだ、ホテルは同じだからキャビンアテンダントの彼女たちからも声がかかるかもしれない。
「では、まだ作業が残っているんですね。手伝いましょう。」
そう思っていたのに。突然、キースの後ろにいたシンが笑顔を浮かべてそう言った。
…またこいつは…。
キースの呆れたつぶやき声が聞こえた。やはり、二人でどこかに出かける予定なのだろうと思ってブルーは首を振る。
「いいよ。あと少しだし、君は疲れただろう。」
「疲れるなんてとんでもない。大体疲れているのはあなたの方でしょう。ぜひやらせてください。」
「しかし…。」
「勝手にしろ、俺は先にホテルに行っているからな。」
押し問答になりそうな雰囲気の中、キースはいち抜けたと言わんばかりにきびすを返した。
「ああ、打合せはまたあとで。」
語尾がスキップでも踏みそうなシンの台詞に呆れ返ったキースだったが、幸いブルーには分からなかったようだ。シンは、振り返りもせずに手を振って機を降りてゆくキースに応えておいて。
「ではチーフパーサー、何をすればよろしいでしょうか? 何なりとお命じください。」
振り向きざま、笑顔でブルーを伺った。
「…君はおかしな人だな。」
わが社きってのエリートがそんなに気を遣うこともないだろうに。
そんなシンにつられるように笑顔になってから、では、とブルーは周りを見渡した。
「遠慮なくお願いしようか。乗客の忘れ物がないか確認してくれ。」
「承知しました。」
対するシンは、嬉しそうに微笑んでそう応じた。
「…すまないな、シン機長。」
頭上にある収納棚は、あなたよりも背の高い僕のほうが確認にはもってこいだ。
そんなことをふざけて口にしたあと、黙々と作業をしていたシンだったが、その呼びかけにこちらに顔を向けた。
「ブルー、僕のことは『ジョミー』でいいと言ったはずですよ。」
やんわりと、でも有無を言わさぬ口調でそう返した。
「大体、キースのことはファーストネームで呼んでいるというのに、僕だけ『機長』をつけられると違和感がありますし。」
シンの言葉にはちょっとした揶揄が混ざっていた。他人行儀だと、暗にそう言っている。
「…キースとはここに入ったときからの知り合いだからね。」
「これは寂しいことを言いますね。僕は同期じゃないから親しくはなれないんですか?」
微笑みながらもシンの目は笑っていない。だが、幸いなことにブルーは気がつかなかった。
「君の物言いは、女の子を口説いているかのようだよ。」
僕は女の子じゃないんだよ? と困ったようにこちらに顔を向けた。
「そう思えるのなら、口説いているんでしょうね。あなたを。」
澄ました表情でそう言うシンを見ながら、ブルーは微笑んだ。
「君は本当に変な人だな。」
冗談だとしても酔狂なことだ、と。
そう笑いながら立ち上がろうとしたブルーだったのだが、さっきよりもひどいめまいに襲われて、再びしゃがみこんでしまった。
「ブルー!?」
シンが慌てて駆け寄ってくる。
「大丈夫…。」
「大丈夫じゃないでしょう、真っ青ですよ…! とにかく座って…!」
シンは慌てて座席のリクライニングを倒し、そこにブルーを座らせた。
「…大丈夫ですか…?」
「ああ、すまない…。」
意識ははっきりしていると分かって、シンはほっと息を吐いた。
「疲れが出たんでしょう。僕はナスカ空港の救護室で寝ていましたが、あなたはずっと走り回っていたと聞いていますから。」
そんなシンの言葉を聞きながら、ブルーは目を伏せてため息をついた。
「…すまない、みっともないところを見せて。」
「何を言っているんですか、こんなときに。」
シンはそう言うと、ブルーの額に手を当てた。
「…熱はないようですね。でも、無理は禁物だ、今日のところは大事を取って、医者に診てもらいましょう。」
だが、その言葉にブルーは首を振った。
「手持の鎮痛剤はある。それさえ飲めば…。」
「ダメです、おそらく過労が原因でしょうから、点滴でもしてもらったほうがいい。」
「そんな…。」
「必要がないなんて言わせません。あなたが嫌だというのなら、僕はあなたを担いででも病院へ行きますから。」
その語気の強さに、シンの強い意志を感じてブルーは押し黙った。
そして、小さい声で、すまないともう一度つぶやいてからシンを見つめた。
「だが、本部への報告がある。それだけは…。」
「…分かりました、報告が終われば一緒に病院に行きましょう。」
シンの真剣な面持ちに、ブルーはもう一度だけため息をつき、うなずいた。
「大丈夫です、しっかりした医者を知っていますから。」
「点滴だけなのだから、そんなに気を遣わなくても…。」
そう言うと、シンは呆れたように苦笑いした。
「…困った人ですね。あなたが倒れたのは、自分を大切にしないその癖が主因のようだ。あなたを気にかけている人間がここにいるということを知っておいてください。」
その言葉に、ブルーは決まり悪そうに視線を泳がせた。
それから本部に連絡を終了した後、シンはブルーを伴って病院を訪れた。案の定、『過度のストレスによる過労』と診断され、1時間の点滴の後、病院をあとにしてホテルに向ったのだった。
「…今日はありがとう。」
シンはにこりと笑って、どういたしまして、と返した。
ホテルのブルーの部屋の前。病院を出た後は、ブルーの顔色もよくなっていたのだが、やはり心配だったため、部屋の前まで送ってきたのだった。
「お詫びといっては何だが…このホテルの最上階で食事をしないか? 夜景が美しいと評判なんだ。こんな体調では外に出る気になれないから、近場で申し訳ないが。」
「それは嬉しいですね…って、えっ!?」
そう言われるのにうなずきかけて。シンはあることに思い当たってつい声を上げてしまった。このホテルは40階建てで、最上階レストランからの眺めのよさも売りしている。
「もちろん、君に予定がなければだが…。」
「予定は…そのっ、ないというかあるというか…。」
「…ジョミー?」
シンの慌てようを訝しげにしながらも、ブルーは首を傾げた。
夜景の美しい、40階建てのホテルの、最上階…。
ブルーは知る由もないが、シンは高所恐怖症なのだ。ブルーの言った単語と自分の脳内補足が、センテンスごとに区切られてシンの頭の中で響く。同時に首筋に汗が流れる。
「ほ…ホテルの中のほかのレストランは…。」
「? 確かもう営業が終わっていたと思うが?」
そう言われると、フロントを通ってきたときには、隣接している軽食喫茶はすでに閉まっていた。自分たちの感覚ではまだ宵の口といった気分だが、この土地柄なのだろう。思い起こせば、レストラン街も暗かったような気がする。
よく探せば、普通の飲食店くらいやっているのだろうが、さすがにこんな状態のブルーを連れ歩くわけにもいくまい。
「いや…っ、その、今日はルームサービスでも取って早く休んだ方がいいんじゃないですか? 明後日のフライトのこともありますし…っ、やはり無理は禁物だと思います。僕もキースと打合せがありますので…。」
その慌てようを不思議そうに見守りながらも…ブルーは寂しげに微笑んだ。
キースとの打合せ、ということは、これから二人でどこかに出かけるのだろうとブルーが考えたことは、シンにはまったく全然伝わっていなかった。
「…そうだな、君の言うとおりだ。」
「そ、そうですよ、ゆっくり休んでください。」
シンの胸をなでおろす様子に、ブルーは分かったとつぶやいた。
「…じゃあ…お休み。」
その落ち込んだ様子にシンは全く気がつかず、ドアの向こうに消えていくブルーを引きつった笑顔で見送ってから。
ドアが閉まり、ほっとすると同時に。…がっくりと落ち込んだ。
「…またキースに馬鹿にされるな…。」
ジョミー・マーキス・シン。
空では無敵とさえ言われたエアフォースのエースだったが、高所恐怖症のためにデートのチャンスを逃したのだった。
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…シン様の恋はまだまだ進展せず…!「だから、打ち明けろと言っていたじゃないか」とキースが渋い顔を作るのが目に見えております〜。それにしても、やっぱりブルーってば身体が弱し…! |
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