飛行機の中に悲鳴が響き渡った。客室乗務員さえ立っていられないほどの揺れ。おそらく激しい気流の中に巻き込まれたのだろうが、その風力は並みのものではないようだ。続いて、何かが折れるような、もがれるような大きな音。頭上からは荷物が落ち、さらに酸素マスクが振ってくる。照明が点滅し、ふっと暗くなった。
「たすけてぇ!」
「死ぬのはいやー!」
「お客様、落ち着いて…!」
キャビンアテンダントの声すら通らない、阿鼻叫喚といった地獄絵の様相を呈した機内。がくんと機体が大きく揺れる。乗客のパニックはさらにひどくなり、女性の悲鳴、子どもの泣き叫ぶ声が響き渡った。
このまま墜落する…!
誰もがそう思い、機内は失意と絶望が交錯した。行楽帰りの親子、商談を抱えたビジネスマン、それらすべての生がここで潰える…。
ところが。
彼らの乗った機体が大きく傾いだ直後、それでも機首が若干上向いた。乗客たちは最初のうち何がなんだか分からない様子だったが、それでも機体の揺れが収まってくると叫ぶのをやめて周囲を見渡す。
「…落ちて…ない?」
「まだ…飛んでる…?」
その後機体は安定し始め、機内は徐々に落ち着きを取り戻した。照明が再び点灯し、機体はほぼ正常位置に戻る。そして、続いて機長アナウンスが聞こえてきた。
『皆様、こちらは機長のキース・アニアンです。当機は乱気流に巻き込まれ、機体の一部を破損いたしました。そのため、行き先を変更し、ナスカ空港へ緊急着陸します。あと20分で着陸となりますので、皆様には客室乗務員の指示に従い、避難いただくようお願いいたします。』
低い自信に満ちた声音に、皆顔を見合わせ、ほっとする。機長がアナウンスできるということは、それだけの余裕があるものと解釈される。今は時おり機体が揺れるが、そんなに気になるほどではない。
「お客様、今の機長の説明のとおり、あと20分で着陸となります。着陸後は手荷物は持たず、乗務員の指示に従って速やかに非常用脱出口から降機願います。また、お客様のお荷物の受け取り、目的地までの乗り換え機につきましては、空港のアナウンス及び電光掲示板でお知らせします。」
状況を把握し、安堵した機内で、チーフパーサーであるブルーの落ち着いた声が響いた。
ナスカ空港。
乱気流により機体を破損したというTRR020型機は滑るように滑走路に降りた。脱出口が開き、脱出スライドシュートという滑り台状のものがエアバックのごとく膨らんだ。
「では、小さいお子様、女性からどうぞ。」
乗務員の誘導により脱出用シュートで次々と乗客が降りてゆく。そこで乗客たちが見たものは、片翼が半分以上失われた、見るも哀れな機体だった。
…こんなんで20分も飛んでたのか…?
よく落ちなかったよな…。
そんな声が囁かれていた。
「あのあと操縦を担当したのは、絶対シンよね!」
「そうに決まってるわ。」
「当然じゃない、アナウンスはアニアン機長がしていたんだもの。」
乗客の避難を完了させ、自分たちも降りようとするキャビンアテンダントの女性たちはそう囁き合った。
この機に搭乗しているパイロットは、キース・アニアンとジョミー・マーキス・シン。どちらも機長クラスでいわゆるダブルキャプテンであるが、機長はキースが担当し、シンは副操縦士を担当していた。二人は同じ年だが、航空会社への入社はキースのほうが早かった。そのための配置であったらしい。
このうちシンは、最もレベルが高いといわれる某国空軍のエリート軍人だったのだ。実戦も何度か経験しており、このまま空軍の中で昇りつめるものと期待されていたらしいのだが…。何を思ったのか、民間会社の旅客機のパイロットに転身した。
エアフォースのエースならば多少の事故機で飛ぶくらい造作もない、ということは、影で囁かれていることである。
そんなうわさ話をする女性たちの後ろから、ため息交じりのパーサーの声が響く。
「君たち、早く降りるんだ。でないと、パイロットが避難できないだろう。」
「そうでした…!」
「すみませーん、チーフ。」
お気楽な彼女たちの声が脱出用シュートに乗って消えた後、ブルーはほっとため息をついてから飛行機の先頭に向かった。
「アニアン機長、シン機長、乗客及び客室乗務員の避難は完了した。」
操縦室には外部から入り込むことは許されない。ゆえに、操縦席との通話は、インターフォン越しに行なわれる。
「分かった、我々も出るから、君は先に出ていろ。」
「…どうかしたのか?」
キースの声に、ブルーは怪訝に思いながら首をかしげた。おそらく、この様子では爆発などの二次災害の危険はないだろうが、早く降りるに越したことはないはずだ。
「いや。少し気になることがあるから、後で行く。先に出ていてくれ。」
再びキースの硬い声が聞こえた。
「手伝えることは…?」
「ない。いいから、先に避難しろ。」
「…分かった…。」
そう言って去っていく気配を感じながら、操縦室の中でシンは吐き気を抑えるように口元を押さえていた。顔色は真っ青で、病気かと心配になるほどだが。
「さあ、ジョミー。俺たちも避難するぞ。」
「…まだブルーが離れてない。」
顔面蒼白で、冷や汗さえ浮かんでいるシンは、かたくなにそう言い張った。よほど操縦にストレスを感じていたのか、今にも倒れそうな雰囲気だ。
「そうは言っても、避難の終わった機体から我々が出てこないとなると、騒ぎになるぞ?」
キースの言葉に、シンはうめいた。よく見ると、口元を覆った手が細かく震えている。
「…やっぱり墜落させればよかった…。」
「そういうシャレにならないことをいうな。」
「じゃあ…せめて僕だけでも墜落死すればよかった。」
「ありえないことに現実逃避するんじゃない…! 大体何だ、ここは操縦席だろう。いつものお前なら平気じゃないか!」
「…これから脱出シュートで外へ出なければならないかと思うだけで、気分が悪くなる。」
キースは盛大にため息をつくと、シンの金の頭を軽くはたいた。
「高所恐怖症が何だ! お前はパイロットとしては超一流だろうが! そんな情けないツラをさらすな!!」
そう、シンは高所恐怖症なのだ。
記憶に残らないような幼いころ、自宅の2階から落ちたときのショックが、トラウマになってしまって、それ以来高いところは苦手なのだ。ちなみに、そのときシンは自動車の屋根の上に落ちたことにより、大事に至らなかったのだが、それでも恐怖体験は心の底にしっかり刻み込まれたらしい。
「…パイロットとしてなどどうだっていい、僕はブルーの中で一流であればそれでいいんだ…!」
「ええい! お前の繰言には付き合っておれん! さっさと出るぞ…!」
業を煮やしたキースは、シンの首根っこを引っつかむと扉を開け、ずるずると飛行機の中央まで引っ張ってきた。シン本人も、脱出シュートで降りるよりほかがないと思っているのか抵抗はしないが、足がすくんでしまうのはどうしようもないらしい。
「…ブルーにかっこ悪いところを見せるくらいなら、このまま機内で倒れててもいい…。」
「こんなときのチーフパーサーはやることがヤマのようにある! お前などいちいち見てはおれん…!」
安心しろ! と怒鳴ってから脱出口までシンを引っ張った。
「ひ…。」
外を見て硬直するシンに、キースは大きなため息をついた。
…あわや大惨事という事態から乗客を守ったパイロットがこの体たらくとは…。
「…キース…! この飛行機に爆弾が取り付けられていたとしても、僕はこのまま爆死したって構わない…っ。」
だから降りたくない。少なくとも、脱出シュートでは…!
血の気の引いた顔、かたかた震える指先、その様子が、幼いころの恐怖を語ってくれる。語ってはくれるのだが…。
「何を馬鹿なことを…! 目を瞑っていろ、すぐに終わる…!」
こんな非常事態でお前は一体何を言っている!? とばかりにキースはシンをぐいっと前に突き出し、そのまま突き飛ばした。
「…――っ。」
キースは、硬直しながらも何とか滑り台のようなシュートを滑っていったシンにほっと息を吐いたが。
「シン機長!? どうしたんですか、しっかりしてください!!」
…どうやら、高所恐怖症のためか、はたまた身体が固まってしまい着地に失敗して頭でも打ったのか…。シンはシュートを降りたその下で伸びてしまっていた。
キースは再びため息をついたあと、自分も脱出シュートから滑り降り、シンを抱えるとまわりの女性たちの嬉しそうな目を気にすることなく、救護室の場所を確認してから滑走路をさっさと歩いていった。
「キース、ジョミーは…。」
ブルーが飛行機の反対側から走ってきた。幸い、シンがありえない姿勢でシュートを滑って失神したという事実には気がつかなかったらしい。
「大丈夫だ、たいしたことはない。俺はこいつを救護室のベッドに運んでから管制室に行く。」
それだけ言うと、キースはシンを抱いたままブルーに背を向けた。
イメージというのは恐ろしいものだ。勝手に一人歩きを始めてとんでもないスーパーマンを形成してしまう。
あの旅客機の一部が破損するという事故ののちシン機長が倒れたのは、墜落という重大事故を回避したためのストレスによる疲労とされた。真相は、倒れたというよりも気絶に近いものであり、緊迫した操縦による疲労というよりも単に高いところが苦手であったためだけであるということは、まったく話題にも上らなかった。
2へ
高所恐怖症のパイロット、シンとチーフパーサーのブルー。シンと同じくパイロットのキースとは三角関係を描く予定です♪(ブルーの頭の中でね!)
飛行機に関しては素人で、変な部分はあると思いますが、その辺はご勘弁を…!(変なところはそれだけじゃないとも…汗) |
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