『まさかと思うが、ジョミーの色香に迷い、利用された男が自分ひとりだと思ったわけではあるまい…? あれは外見が変わっていないだけで、随分と長く生きているのだぞ』
絶句しているブルーに、キースは冷笑を浮かべた。だが、挑発するような言葉に、ブルーは反論せずに目を伏せてかぶりを振った。
「…そうだな。」
『貴様の前に俺に挑んできた奴は、名は忘れてしまったが、かなりジョミーに惚れ込んでいたな。あれのためなら命は要らぬとそう言っていた。貴様と同じだ』
「言っておくが」
キースの嘲笑を含んだ台詞を、ブルーの低い声が遮った。紅い瞳が黒い悪魔を射る。
「僕を動揺させようとしているのなら、それは無駄なことだ。大方、似たような話をして混乱させるよう仕向けたのだろう」
それを聞くと、キースは不愉快そうに顔をしかめた。だが、すぐに壮絶な笑みを浮かべて剣をこちらへ向けてきた。
『…ああ、そうだ。貴様はこの国の王族だったな。ならば貴様が負けたときには、この国を焼き払い、貴様の民を皆殺しにしてくれよう』
「……!!」
その言葉に、血が凍るような気がした。王子としての立場は捨てたが、罪のない人たちを殺すというフレーズにかっとした。
『なに。そのほうが真剣みが増すかと思ってな。分かったのならかかってこい。その澄ました顔を引き裂いてやる…!』
キースの背に、黒い羽根が現れた。それはちょうどブルーの真っ白な翼と対をなすようなイメージである。
負けられない…!
ジョミーのこともあるが、国民を人質に取られたような気がして、ブルーは剣を構えなおした。
二人の身体がふわりと宙に浮く。同時に、背景は荒野を思わせる荒涼としたものから、混沌とした摩訶不思議なものへと変化した。同時に、二人の姿が消える。
キン…!
消えたと見えたのは、ただの錯覚だ。剣の交わる音とともに、二人の姿は空間内を目にもとまらぬ速さで移動している。その激しい戦闘は、衝撃により舞い落ちる羽根でしか推し量ることができない。
そして、その戦いぶりはこの世のものではなかった。速さ、強さ、美しさ。そのすべてが、現実世界をはるかに凌駕していた。
『…やるな』
何度か続いた剣戟の合間、しばしキースは動作を止めてにやりと笑った。対するブルーもキースの前で止まり、改めて剣を構えなおした。だが、その表情には焦りの色が見える。
「…剣技の習得は、王侯子弟のたしなみだ」
『だろうな。だが、息が上がっているようだが?』
痛いところをつかれて、ブルーは押し黙った。
身体が変化したばかりのせいなのか、もともとあまり体力がないためなのか、疲労が色濃く表れてしまっている。片やキースは残忍な笑みを浮かべているだけで、構えすら取らず、息ひとつ上がっていない。そのくせ、隙がない。
…長期戦になればなるほど、こちらが不利だ。
御前試合のときも、自分の体力のなさを技でカバーしてきた。しかし、キースという悪魔は、魔力に頼らずとも十分に剣技で戦えるだけの技量は有しているらしい。
『貴様の最期も見えたな』
「…黙れ」
ブルーは剣を上段に構えた。
…ジョミーを自由にするために…!
ふっとブルーの姿が消える。それに応じるがごとく、キースの姿も消えた。同時に白と黒の羽根が数枚舞う。
その羽根が。
…一瞬にして赤く染まった。
ざっくりと裂かれたブルーの左肩から噴き出す赤い血が、あたりを染める。しかし、ブルーはその痛みに構っていられない。
『呆気ない』
キースのあきれ返ったような声がどこかから聞こえた。
「…どこだ!?」
声は聞こえるが姿は見えない。気配すら分からない。相手が確認できないということは、次にどこから攻撃されるか分からないということだ。
『あれに免じて、せめて貴様の得意分野で相手をしてやろうと思ったというのに…。己の修行不足をあの世で悔やむがいい』
焦土と化したこの国を眺めながらな。
その言葉が終ると同時に、目の前に歪んだ笑みを浮かべたキースの顔が浮かんだ。続いて鈍い光が目の前を一閃する。
…すまない、ジョミー…。
その瞬間、ブルーの心に浮かんだのは、ジョミーのはにかんだような笑顔だった。
君を助けたくて…君の太陽のような笑顔を見たくてここまで来たというのに…。
そのとき、何かがブルーの前に立ちふさがった。はっと我に返り、慌ててその細い身体を抱えて後ろへ跳んだ。切りつけようとしたキースも、予想外の事態にすんでのところで剣を止めたようだった。
「ジョミー!」
なぜ君がここにいる…!?
粗末なシーツを巻きつけただけの身体を抱き起こすと、ジョミーはふわりと笑った。
『間に合って…よかった』
唇は、そんな言葉を刻んでいるのに、ジョミーは声を発しない。おまけによくよく見ると、闇の世界に生きながらも精彩を放つ緑の瞳は、今は焦点を結んでいない。
『あなたを死なせたくなかったから』
そんな言葉が聞こえたような気がしたが、ジョミーはブルーの手をよけると、そのまま立ち上がり…不自然な姿で剣を止めているキースに向かった。
『ジョミー…』
その悪魔の呼びかけに、ジョミーは首を振った。
『ブルーには指一本触れさせない』
『そうか…あの占い師の差し金か!』
キースは悔しそうに歯ぎしりしたが、ジョミーの言うとおり指一本動かせないらしく、憤怒の表情を浮かべているよりほかがないらしい。
『…もっと早くこうすればよかったんだ』
こんなにたくさんの犠牲を払う前に。
そんなジョミーの言葉が頭に響く。その声は、涙に濡れているかのようだった。
『馬鹿な…! お前がこの私を滅ぼすなど…っ』
言っている間に、キースの身体は輪郭を失おうとしている。
『お前が私を滅ぼすということは、お前も私と同じ運命を辿るんだぞ。いや、お前のみならず、お前の両親も国の民も人間に戻ることができなくなるんだぞ。分かっているのか!』
『…知ってる』
うなずいたジョミーの瞳からは、透明なしずくがぽたりぽたりと零れ落ちた。
『僕はパパやママ、王国のみんなを守れなかったけど…でも』
ジョミーはきっと顔を上げた。そこにあるのは、何事のも揺らぐことのない意志の強い表情。
『ブルーだけは守る』
『ジョミー…』
目の前で透けてゆくキースを見守りながら、ジョミーはふっと表情を緩めた。
『その代わり…だから…』
ジョミーとキース。この二人の永きに渡る時間に何があったのかわからないが、今二人の間に流れているのは、ひどく落ち着いた雰囲気だった。それを何と呼ぶのか分からないけれど。
…ね? だから…お願い…。
キースの姿が完全に消える前。
ジョミーはキースに何事かささやいたようだったが、ブルーには聞き取れなかった。だが、キースの表情からは、悲しそうなあきらめに似た感情をうかがい知ることができた。
「ジョミー…」
『ブルー…ごめんね、巻き込んじゃって…。もっと早くこうすればよかったのに、僕ずっと迷っていたから…』
「ジョミー!?」
こちらを振り返ったジョミーの姿が…キースと同じように薄くなっていくのが分かって、ブルーは慌ててジョミーに手を伸ばす。右手で細い肩をつかむと、必死の思いで抱き寄せた。
『…ブルー、あなたを人間に戻してあげるから…お城に戻って? この国の王様になって…?』
「そんなことなどどうでもいい…! 君が…君の姿が…!」
しかしジョミーは微笑みながら首を振った。
『ブルーはきっといい王様になれるから…だから、この国を守って』
まるで遺言のように、ジョミーは穏やかに微笑みながら続けた。
『キースに…一緒に消えるからってお願いしたんだ。ブルーとこの国には手を出さないでって。…心は正直だから、キースのことは愛せない。けど…それでも許してって…。一緒に逝くのがこんなみっともない抜け殻だけど、それでも僕だから…』
これは何の悪夢だろうか。
心のどこかでそんなことを考えた。
先立ってジョミーを悲しませることは想像していたが、ジョミーのこんな姿を看取ることになるなんて…。
『あとはフィシスが何とかしてくれる。だから、ブルーはこの国を守って。ここはもう僕の国じゃないけれど、ここにある草木や鳥たちは、僕の両親や王国の人たちだったんだから…』
そんな風につぶやくジョミーの笑顔が切なくて、ブルーはさらにジョミーを抱きしめた。しかし、ジョミーの身体はだんだんと透き通って、体温さえ感じなくなっている。まるで…軽いガラスを抱いているような感覚だ。
『傷…もう痛くないでしょ? もう少ししたら完全に治るから』
「そんなことは気にしなくていい…!」
自分が消えそうになっているのに、こちらを心配するジョミーに涙が出そうだ。だが、ジョミーは首を振るとまた小さく『ごめんね』とつぶやいた。
『ごめんなさい、ブルー。あなたに隠し事ばかりで、本当のこと言わなくて…』
「ジョミー!」
『姿を少年に変えられても、それでも未練たらしく女の子の服を着ていたことだって…誰かに助けてほしかったから…誰かを利用しようと思っていたから…』
「そんなことはどうだっていい…!」
『だけど信じて。僕はブルーのことが好きで…本当の自分のことを知られると嫌われるかと思って…ずっと言い出せなかった…。フィシスには…彼女には見抜かれていたけど』
「分かってる…分かっているからもういい…!」
ジョミーが自分に何か伝えようとするたびに、ジョミーの身体がさらにぼやけていくようだ。
『…もう、お別れだから…』
「いやだ!」
まるで駄々っ子のようだ。
心の片隅でそんなことを思ったけれど、こんなときに聞きわけがよくて、何かいいことがあるのだろうか?
「いやだ…! 君を絶対に離さない! それに、君の両親や国民はどうするんだ!? 今の話では、人間に戻すことができなくなるという話じゃないか!」
『…うん』
「考えよう、君と僕とで!」
『ありがとう、ブルー。でも…もうダメなんだ』
こうしている間も、王国の人々の心が無に還っていく様子が分かる。
『もし、もしも僕が生まれ変わることができて、ブルーと出会ったら…』
そんな言葉をつぶやきながら、嬉しそうな笑顔を浮かべたジョミーが。
…突然消えた。
ブルーは微動だにできなかった。軽いながらも手の中にあった質量感はなくなり、ジョミーが完全にこの世界から消えてしまったことが、いやでも思い知らされた。
「…いや…だ」
認めない…。認めたくない…!
「ジョミー…! ジョミー!!」
何度も叫んでも、返事は返ってこない。それでも、呼ばずにいられなかった。そうでなければ、とても心を保つことができなかった。
ジョミーはあのあと何を言おうとしたのか。
…生まれ変わることができて、ブルーと出会ったら…。
煌々と輝く月はさっきと変わらず頭上にあった。この世界の時間にして、ほんの2、3時間ほどだろう。けれど…もうここにジョミーはいない。
「いらっしゃると思っていました」
フィシスは家の前で月光浴でもしているがごとく、うっとりとした表情で空を眺めていたが、ブルーの気配を感じてか、ふっとこちらに顔を向けた。
「…なぜジョミーを結界の中に入れた…!?」
「彼女から依頼を受け、代償を受け取ったからですわ」
「…そのせいでジョミーは…!」
「悪魔キースとともに消えたのですね」
やはりお見通しだったらしい。ブルーはその悠然とした態度にかっとして、彼女の胸倉をつかみそうになったのを何とか抑えつけた。
「…あなたのことだ、そんなことはお見通しだったのだろう!」
「そうですわね、こうなることは分かっておりました。あなたがキースに敗れるだろうことも」
「な…っ!」
「どうぞ、あなたのものですわ」
何か言いかけたブルーの目の前に、フィシスの手が差し出された。その手には、こぶしくらいの水晶玉が乗っており、ゆらゆらと黒いものが見える。
「あなたの影です。王女から、対価は自分が払うからあなたに返してあげてほしいと言われました」
…なぜ…?
フィシスの言葉を呆然とした体で聞いた。
君を、助けたかったのに…。どうして逆になってしまったのだろう。
「自分で払うって…何を…」
「彼女の光、音。それと…あなた」
あなたをあきらめると、そう言いましたの。その心がもっとも高い対価になりました。
フィシスは神妙な顔でそう告げた。
「その水晶玉はあなたに差し上げます。それを割れば、影はあなたに戻ります。…でも、その判断はお任せしますわ」
それだけ言うと、フィシスはくるりと背を向けた。
「ではおやすみなさい。私としては、次はこの国を担うあなたと相対したいと思っております」
ブルーは、家の中に入って行くフィシスを呆然と見送るよりほかがなかった。
…この国の王様になって。
ジョミーはそう言って…消えた。ならば…僕はそれに従うべきなのだろうか? その言葉に従う資格が、あるのだろうか…。
次第に明るくなって行く東の空を眺めながら、ブルーは目を眇めた。
でも、それが君の望みなら…。
カシャン、と。
どこかで何かが割れる音がした。
9へ
やっぱり元が悲劇だとこんな感じでしょうか! でもこのままではブルーがかわいそうなので、もう一編追加です♪ |
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