「こんにちは、偶然だね。」
静かな図書室の中。突然上から聞き覚えのある声をかけられて、ブルーは慌てて本から顔を上げた。
まず目に入ったのは、きらきらした金髪。そして、嫌味なほど整った顔立ちにさわやかな笑顔。
「シ…!」
驚きのあまり声を上げようとしたブルーは、ここが図書室だったことを思い出し、慌てて口をつぐんだ。
「あのとき、君は僕が止めるのも聞かないで帰ってしまったから、気になっていたんだ。元気そうでよかったよ。」
言いながら、そのままブルーの前に座ってしまう。
「偶然も何も…。」
ここは中等部の図書室なんだから、偶然と言うには無理があるような気がする。どんな偶然で高等部の生徒会長が、中等部の図書室に来るというのだ。
熱中症で倒れてしまったあの日。
目が覚めると、すでに生徒の大半は帰宅したあとだったようで、校舎には人の気配がほとんどなかった。シンは相変わらずブルーの傍に付き添ってくれていて、家まで送るといってくれたのだが。
『これ以上あなたに迷惑はかけられません…!』
高等部生徒会長を煩わせることに戸惑いがあったことも確かだが、これ以上付きまとわれるのはさすがに嫌だったのだ。
『迷惑だなんて、君と僕の仲で。』
シンはにっこりと笑いながら首を振ったが。
『あなたと僕の仲って何ですか?』
仲なんてものは何もない。
僕は誰とも親しくなんてなりたくない。増してやあなたのように何でもできる、何でも持っている人なんか、僕に構うことはない。だから。
…優しくなんて…、しないで…。
『…困ったね。』
シンは苦笑いを浮かべてため息をついた。
『分かった。じゃあ、気をつけてお帰り。』
そう言われるのに、意外な気がしてシンを見つめた。強引な人とばかり思っていたのに、引き際はあっさりしていた。
『帰ったら、きちんと食事をして水分を摂って、ゆっくり休むんだよ。下手に薬を飲もうと思ってはダメだ。
それから、おかしいと思ったらすぐに救急車を呼んだほうがいい。熱中症は悪くすれば死に至ることもあるから。』
そうアドバイスすると、シンは中等部校門まで送ると言って荷物を持って立ち上がった。いつの間にか、ブルーのかばんを取ってきていたらしい。
…なぜ僕なんかに…。
あんなに女子生徒にモテて、何でもできる人なのに。
結局、あのときはそれ以上シンをはねつけることができず、校門まで送ってもらったのだが。
騒ぎは翌日からしばらく続いた。
女子生徒からは嫉妬と羨望の眼差しを、男子生徒からは驚嘆と同情の言葉をもらうこととなった。特に、男子生徒の中には、校舎も違う高等部の生徒会長が、中等部の女子生徒の憧れの的であることに敵愾心を抱いているものが多く、やたらと声をかけてくるもの、情報提供してくれるものが後を絶たなかった。
…ある意味では、この件がきっかけとなって、クラスに溶け込んだような気がするのだから、皮肉には皮肉なのだが。
でも、これ以上シンと親しくなる気はない。
「あのときはご迷惑をおかけしました。
じゃあ、僕は帰ります。」
シンには目もくれず、ブルーは読みかけの本をかばんに入れて立ち上がったのだが。
「じゃあ一緒に帰ろう。僕も今帰ろうと思っていたんだ。」
笑顔でそう返されるのに、開いた口が塞がらなかった。
…相手が嫌がっているのに、それが分からないとでも言うのだろうか?
シンは背が高い。立ち上がると、自分よりもはるかに上背がある。…はっきり言って、これもコンプレックスを刺激されて嫌なのだ。
そして、背が高いということは、当然コンパスも長い。早足で歩き去ろうと思っても、絶対に追いつかれてしまう。それなら…。
「…あなたに言っておきたいと思っていました。」
はっきり言ったほうが、後々面倒にならずに済む。それに、どうせこの人だって僕の前から去っていくのだから。
「何を?」
シンは笑顔のまま見下ろしてくる。
「こうやって付きまとわれるのは、迷惑です。もう二度と、僕に構わないでください。」
シンから視線を逸らさずにそう言ったのが。
「すまないが、僕は君に構いたい。君が嫌だと言ってもね。」
笑顔でそう返される。
…まるでストーカーだ…。
「ああ、そうだ。都合がなければ、付き合ってくれないか。コーヒーのおいしい店を知っている。」
まったく人の言うことを聞いてない…。
ここまでマイペースを貫かれると、怒りを通り越して呆れてしまう。
…そこまで言うのなら付き合ってやろう。嫌われればいいだけの話なんだから…!
ブルーはそう心に決めて、シンの提案にうなずいたのだった。
「静かでいいところだろう? ここは知り合いがやってる店でね。」
…こんなところにこんな喫茶店があるなんて…。
繁華街から一本路地を入った裏通り。落ち着いた色調の店構えと、穏やかで明るい店内。カウンターの奥では、スポーツで身体を鍛えたことのあるかのような体格のよい寡黙そうなマスターが、シンの顔を見るなり物も言わずコーヒーをいれ始めた。
「…生徒会長ともあろうものが、こんなところに出入りしているんですか?」
「まあね。たまに執行部の連中と来ることもある。」
…嫌味すら通じていない。
皮肉や当てこすりなどといったものは完全にスルーされるのだから、直球勝負しかない。
「あなたは…。」
「ああ、そうだ。ブルー、コーヒーの好みは?」
言いかけたところへ、シンが微笑みながら尋ねてくる。
「べ、別に…。」
「そう。なら、マスター自慢のブレンドでいいかな。」
シンはそう言いながらマスターに目配せして、奥のテーブル席へ歩いていった。仕方なく、ブルーもそれに続く。
「さっき何かを言いかけたね。僕がなんだって?」
二人で向かい合わせに座ったあと、シンはブルーを促した。
言いかけていたのだからちょうどいい。
「あなたに関する妙なうわさを聞きました。」
「妙なうわさ?」
シンが首を傾げるのに、思い切って口を開いた。
「あなたが、シンジケートの跡取りだっていう話です。だから、生徒会長にもなれたし、先生にも一目置かれているんだって。」
そんな侮辱した話はないだろう。
シンジケートの跡取りまでは許せても、それがために生徒会長になることができて、さらに教師にまで特別扱いされているというのは、失礼にもほどがあるだろう。しかし、これは噂話として実際に囁かれているものらしいのだが。
案の定、シンは呆気にとられたようで、目を丸くしてこちらを見ている。
「それに…、麻薬で巨万の富を得た華僑の末裔だとも。」
しかし、それはありえないだろうと思っている。
麻薬はどうでも、金髪に緑の瞳といった典型的な白色人種のシンは、どう見ても東洋の血が入っているとは思えない。
…もう嫌われたも同様なのだから、帰ろう。
ほんの少しの苦い気持ちを押し殺して、席を立とうと思ったのだが。
前の席からくっくっと笑いをかみ殺したような声が聞こえてくるのに、動作が止まった。見ると、シンが笑いたいのを堪えているようだった。
「…シン…?」
「やれやれ、どこで聞いたのかは知らないが、当たらずしも遠からずかな?」
そう言って顔を上げたシンは、怒りの色などまったくない。
「シンジケートと言うのは行きすぎだけど、似たようなものかもしれないね。
君は、中華系の組織の構造と言うものを知っているかな?西洋の組織とはまったく性質を異にする、ある意味絶対的な階級社会なんだ。だから、まっとうな会社であっても欧米人にとっては同じように感じるかもしれない。実は、僕はそういうところがあまり好きではないから、家には戻りたくないんだけどね。」
そういわれるのに、ブルーの目が見開かれる。まさか、肯定の返事が返るとは思わなかったのだ。
「トップの命令は絶対。こちらでするような多数決を取るまでもなく、長の決めたことに一族は服従する。」
「…でも、名前が…。それにあなたの容姿だって…。」
ジョミー・マーキス・シン…。中華系の名前ではないはずなのに…。
「僕の母は生粋のアングロ・サクソン人だし、父にも西洋の血は入っていたらしい。おまけに僕は母親似だからね。
聞いたことがあると思うけど、アジアでも欧米の植民地だったところは、英語名を持つ人が大半だ。もちろん僕だって中国名は持っている。でも使っていないし、使う予定もない。」
そう言われて。
『シン』という苗字が、中国大陸で使われる一般的なものであると思い至ると同時に、昔のことを思い出してぞくり、と寒気がした。
「でも、シンジケートほど学校に影響力は持たないと思うよ?何といっても…。」
「…用事を思い出しましたので…、これで失礼します…!」
もう何も耳に入ってこなかった。この場から逃げたい、その一心で慌てて立ち上がる。そして、ブルーはかばんを掴むと、シンが呼び止める間もなく、慌てて店を飛び出していった。
「ブルー!?」
しかし、当の本人はもうここにはおらず、ドアが開閉する音がその呼び声に応えただけだった。
「…逃げられたか。」
シンは悔しがる様子もなく、楽しそうに笑った。また掴まえる楽しみができた、と言わんばかりである。
「…どういうつもりですか…?」
マスターが苦りきったような表情でシンを伺う。
「どういうつもり、とは?」
「彼は、あのときの少年でしょう?彼を手懐けてどうするつもりで…?」
「ハーレイ。」
笑顔は浮かべているが、声は氷のように冷ややかになった。
「余計な口出しをするな。あれは僕のものだ、誰にも邪魔はさせない。」
そう言うと、ハーレイと呼ばれた男は静かに頭を下げた。
「申し訳ございません、差し出口を叩きまして…。」
そう謝罪しながら、コーヒーを運んできたハーレイに、シンはああ、とため息をついた。
「ひとり分、無駄になってしまったな。すまない。」
「いえ、お気になさらず…。」
「君のいれるコーヒーはおいしいから、僕が二人分…。」
と、不自然にシンが言葉を切った。そして、ふっと笑う。
「…どうなさいましたか?」
ハーレイがシンの見ている方向に目をやると。
「忘れ物だな、と思ってね。」
ブルーが座っていた椅子の下に、生徒手帳が落ちていた。
5へ
ちょっとだけ進みました!中華系とはびっくりですが、俺様のシンに似合うかなーと思いつつ…♪ |
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