どこかで言い争っている声が聞こえる。
ここはどこだろう…? ひどく身体が重くて…痛い。
そう思いつつ、重たいまぶたを上げれば、見たことのない天井が目に入ってきた。おまけに、遠くから聞こえているが、喧嘩腰とも思える声が響いてくる。片方がひどく興奮していて、片方がそれを懸命になだめているような…。詳細は分からないがそんなやり取りが聞こえてくる。
…何を…言い争っているんだろう。
重い身体を起こそうとベッドに手をついたとき。その手首にくっきりと浮き出た縛られた痕に、一気に記憶がよみがえってきた。
そうだ…僕は薬を打たれて…。
改めて自分の身体を確認する。ところどころ擦り傷が見えるが、大きな傷というものはない。それに、そのほとんどが手当てされている。誰かが拭いてくれたらしく、身体は清められ、こざっぱりとしたグレーのパジャマに着替えさせられていた。それでも、首や腕といったむき出しの部分にはうっ血した跡は生々しく散りばめられて残っており、あれからそう長い時間が経ったわけでもないということを教えてくれる。でも、あのときは夜だったが、今は日が差している。
…あれは…毒じゃなかったの…? どうして、ジョミーは僕を殺さなかったんだろう。
あのときに飲まされた錠剤。楽にするというからてっきり毒薬だとばかり思い込んでいたけれど…今こうして目覚めたのだからそうではなかったのだろう。そう考えて、もう一度パジャマを着ている自分を見下ろす。
じゃあ…ジョミーが介抱してくれたんだろうか。
ふとそんなことを考えて、かあっと頬を染めた。
あ、あんな愛撫の痕も生々しい、体液にまみれた身体を…? そ、そんなことあるはずがない…! そんなことになったら恥ずかしくてもう二度と彼の前には出られない…!!
…そう…、もう二度と彼の前に生きて立つことがないと思っていたのだから…。
そこまで考えて落ち込みそうになったところへ、どこからか聞こえてくる言い争いの中に、自分の名前が出てきたことにはっとしてドアを見つめた。しかも…おそらく怒鳴っているのはジョミーに間違いないだろう。
…何を…言っているんだろう…?
気になって、ベッドから起き上がろうとして、腕に力が入らずかくんと前のめりに倒れかけた。
…催淫剤の副作用だろうか?
ベッドから降りようとすると、足にも力が入らない。四つんばいになってようやくドアまでたどり着き、何とかドアノブを回すと、廊下に出た。そこは大きな洋館の2階だった。中央が吹きぬけになっている贅沢な造りで、言い争う声は階下の一室から聞こえてくる。
「…お待ちください、それではあなたは彼だけでなく、彼の家族までも…皆殺しにしようというのですか…!」
「当たり前だ。ブルーをあんな目にあわせたんだから。」
…シンの声だ…。
興奮しているせいか、彼らが喋る単語のひとつひとつがはっきり聞こえる。シンはそこで一旦言葉を切って、ふん、と鼻を鳴らした。
「ああ、いいことを思いついた。あいつの娘は8つだったか、9つだったか? それをブルーと同じように凌辱してやればいいだろう。」
「ジョミー…! それは…。」
あまりのおぞましさに、相手の男は絶句したようだった。
「それを奴に見せ付けてやればいい、奴の妻も娘と同様にして。そうすれば、奴も自分のしでかしたことの意味を理解する。」
「お…待ちください、そんな恐ろしいことを…。年端の行かぬ娘や別居中の妻にまで…。」
「奴はそれだけのことをしたんだ、何をためらう必要がある…?」
こともなげに恐ろしいことを言い放つ、シンの笑いを含んだ声。恐る恐る階段の手すりを伝って降りていたブルーも、その言葉に愕然とした。
だ…って、あの人はシンのお兄さんで…。その娘は…シンの姪、なんでしょう…?
「そんなこと…しちゃ、ダメ…。」
そのとき、手すりを掴んでいた手がずるりと滑り、あと3、4段で1階に到達というところで、ブルーは階段から落ちた。慌てて捕まろうとした、手すりの延長上にある展示台。その上に置いてあった花瓶にうっかり触れてしまい、花瓶は落下して大きな音を立てて壊れてしまった。
「ブルー!?」
その音に驚いたらしく、シンが慌てて飛び出してくる。まだ彼が制服姿だということに、初めて気がついた。
…もしかしたら、着替える間もなくずっと走り回っていたのかな…?
続いて、あの繁華街の裏通りにあった喫茶店のマスターが出てくるのに、不思議な気分になった。
この人って…シンのうちの人だったんだろうか…?
「まだ薬の効果が切れてないんだ、それなのに起き出すなんて…! 怪我は…?」
「ダメ…。」
階段の下に転がったブルーの身体を丁寧に抱き上げたシンは、ブルーの真剣な瞳に動きを止めた。
「ダメ…そんなことしちゃ…。」
そんな恐ろしいこと、しないで。まだ幼い子どもに、そんなひどいことをしないで。
「何を言っている…? すべて君がされたことと同じだろう。そんな仕打ちを受けたのに、その相手を楽に死なせることはない。」
シンは理解に苦しむとばかりに首を振った。
「死なせるって…。」
「君がこれだけのことをされたんだ。いくら命があったからといって、見過ごすわけにはいかない。だからといって司法に引き渡すなど生ぬるい。この僕が、自ら手を下してやる…!」
怒りと憎しみと。そんな感情に染まったシンの瞳。今のシンなら、相手が誰であろうが、何だろうが躊躇せずに斬罪する。そんな恐ろしさを持っていた。まさに、怒れる獅子である。
こんな恐ろしいシンを目の当たりにするのは初めてだ。しかし、呆けてばかりもいられなかった。
あなたにそんな罪は犯してほしくない。ましてや、僕のためにそんなことをしないで…。
「殺しちゃ…ダメ。お願い、殺さないで…。」
そうつぶやいた途端、シンの瞳がブルーを見据えた。視線を向けられただけで、射殺されそうなほど恐ろしく感じられた。
「君は…! 腹が立たないのか! こんなことをされて、こんな屈辱を味わわされて、悔しくないのか!!」
シンがこんな風に怒鳴ったことはただの一度もない。それゆえ、固まってしまってまったく反応ができなかった。その沈黙をどう取ったのか、シンは苛立たしげに顔を上げるとブルーを抱いたまま立ち上がった。そして階段を2段ほど飛ばして駆け上がっていった。
その間ブルーは、あまりに乱暴な仕草に落とされないかと力の入らない手でシンのシャツを掴んでいるよりほかがなかった。
バタン、と音がして、無意識に閉じていた目を開ける。再び先ほど寝かされていた部屋に戻ったことが分かった。ベッドに上に、少し乱暴な手つきでその身体を下ろされる。ベッドのスプリングがブルーの身体を受け止めたため衝撃はなかったが、いつもは優しいシンの怒りを肌で感じて呆然としてしまう。
「君の身体の痺れは。」
さっきまで激昂していたシンは、落ち着きを取り戻したかのように冷静に言葉を継いだ。しかし、未だ感情が荒ぶっているのは、怒りが支配するその緑の瞳を見れば一目瞭然だった。
「媚薬の効果を消そうと飲ませた作用の強い睡眠薬によるものだ。今日一日寝ていれば、動けるようになる。」
それだけ言うと、シンはきびすを返そうとした。
「ジョミー…、あの…。」
自分でも何を言おうとしたのか分からない。シンの兄やその家族の寛大な処置をもう一度お願いしようと思ったのか。それとも薬の効果とはいえこんないやらしい自分に対して呆れていないかと問いかけようと思ったのか…。
そこまで考えて、シンに助け出してくれた礼を言っていないことに気がついた。
「ジョミー、あの…助けてくれて…。」
ありがとう、と囁こうとした言葉はシンの鋭い眼光によって遮られた。
「君がそんなに奴の性癖が気に入っていたとは知らなかった。それなのに、邪魔をして悪かったな。」
その鋭い言葉に、ブルーは目を見開いた。
シンに罪を犯してほしくない、そんな思いから出た発言が、とんでもない勘違いを生んでいると。そう思ったときには、シンは大またで部屋を横切ってドアを開いて出て行くところだった。
「ジョミー、待って…! 違う…っ。」
その声に、シンは戸口で振り返った。だが、その瞳には恐ろしいほどの憎しみの炎が宿っていた。
「生憎だが、君の意見を聞き入れるわけにはいかない。僕はシン一族の長だ、一人の勝手を許しておいては後々に差し障る。…愛する男を殺されて、君は残念だろうが。」
「ちが…っ。」
泣きたい気分で首を振るが、シンに耳を傾ける気はさらさらなかったようだ。
「それから、僕が派手に動きすぎたせいだが、この一件は伏せておくことができなくなった。明日にでもハーレイに命じて監察局に送らせる。一連の事件について君に口止めをする気はない。好きに説明なり釈明なりするがいい。以上だ。」
一方的に喋ると、シンは手荒にドアを閉めた。
「ジョミー…!」
追いかけたくても満足に動けない今は、ただシンを見送るよりほかがなかった。いやそれよりも…。
監察局…? この一件が…知れた? じゃあ…もう、シンと会えない…?
「出掛ける、車を用意しろ。」
部屋の外では、シンが喫茶店のマスターと話をしているらしい。いや、喫茶店のマスターというのは仮の姿かもしれないが。
「兄上のことは…どうなさいますか…?」
「変更はない。ただし、殺すのは一番後にする。自分の愛娘と愛妻が嬲られるさまを見せてからだ。」
「ジョミー、お待ちください。どうかもう一度考え直して…!」
「再考の余地はない。」
だが、シンは無常にもその一言で切り捨て、階下に下りていった。その間も、シンが数日戻らないという伝達事項や、身体の具合がよくなったらブルーを監察局まで送り届けるようにという指示が聞こえてくる。
階段を降りる音に続き、玄関のドアが開き、それが閉じられ。車のエンジンのかかる音が聞こえて、初めてこれがシンとの最後の別れになってしまうのではないかということに気がついた。シンが数日間帰らず、その間に監察局に戻されたら、もう二度とシンに会うことは許されないだろう。
不自由な身体で窓を覗けば、シンの乗った黒いリムジンが屋敷を出発するところだった。
…シンに誤解されたまま…? あの…男と情を通じたと思われたまま、シンと別れる…?
『君がそんなに奴の性癖が気に入っていたとは知らなかった』
「ちがう…違う…っ。そうじゃ…ない…! そうじゃ、なくて…。」
本当は…嬉しかった。僕のために、身内を殺めることさえためらわないくらい…怒ってくれたということが、嬉しくて嬉しくてたまらなかったのに。
『愛する男を殺されて君は残念だろうが』
ちがう…のに…。
…そんなこと…思ってもいなかったのに…。
シンの言葉が再び心の中で響いた途端。ブルーの中で何かが音を立てて砕けた。
23へ
うーん、これも鬼畜の一種…? ひたすら受難のブルーで〜す。 ハーレイとの会話の中でシン様の「当たり前だ」という部分、思いっきり「あたり前田のクラッカ〜」という太古のギャグを思い出して入力してしまい、ひとりで笑っていました♪(一応シリアスシーンなんですけどね!) |
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