タクシー乗り場に着いたときには、息切れがひどかった。自宅からずっと走ってきたのだから、それも当然だったのだが、ぐずぐずしていたらいつハーレイやリオに捕まるかもしれない。
ブルーは前を向くと、先頭のタクシーへ駆け寄った。
「アタラクシア…総合病院までお願いします…!」
息せき切って運転手にそう告げると、中年の男はぽかんとしてブルーを見つめた。
こんな夜中になぜ幼い子どもが一人でこんなところにいるのか。そんな疑問が感じられる。
ヒッチハイクでは危険が多すぎる。だから、営業車に狙いをつけたのだけど、幼い子供一人を乗せてくれるタクシーなど普通はいない。だから、ちょっとした演技が必要になることは想定していた。
「お願いします、パパが…事故にあったって電話があって…。」
こんなときだというのに、先生の事故で動転して慌てているというのに、冷静な自分を自覚する。かわいそうな子どもを演じる、肉親が事故にあって恐れおののいている無力な存在であるということを見せつける。
自分の並外れてかわいらしい容姿と細い手足に、大人がどんな感情を煽られるか、嫌というほど分かっているからこそ。行動力も実行力も持たない非力な子どもだからこそ通じる作戦だ。
「パパ…って。ママはどうしたんだい、お嬢ちゃん?」
女の子と間違えられるのもいつものこと。そのほうが、より保護欲をかきたてられるからなおのこといい。それに。
…もしかするとハーレイたちの捜索の妨害になればと思ったが…。あまり期待できないだろう。
他のタクシー運転手も集まってくるのにはまずいな、と思ったけれど仕方がない。この状況を利用して精一杯同情をひくことに専念するしかない。
「ママは…いないの…。」
目にいっぱい涙を溜めて、首を振る。母親とは、生き別れとでも何とでも勝手に想像すればいい。
父一人、子一人の父子家庭。生活のためにいつも父親は夜遅くまで働き、その帰りをぽつんと待つ子ども。いつもはもう帰ってくるはずなのに、今日は帰りが遅い。どうしてだろうと時計を何度も見ていると電話が鳴って、大好きなパパが事故にあったと知らされる。
怪我の状況など細かいことは分からないが、たった一人の大切なパパがいなくなってしまうという恐怖、家でただ待っているなど不安で不安で仕方がない。
「だから…お願い、病院に連れて行って! お金は…持ってきたから。」
ポケットから小銭と紙幣数枚を出す。本来なら病院までこの金額で行くことは無理だが、こんな子どもにとっては大金。
案の定、まわりのタクシー運転手は困っている。けれど、多分一人くらいは…。
「分かった、とにかく乗りな。」
最初に声をかけた運転手が意を決したようにそう言った。
「でもお嬢ちゃん、金はいいよ。大切に取っておきな。」
「で、でも…。」
この展開は予想できた。でも、やっぱりこれは騙していることになるから受け取って欲しい気持ちはあったんだけど…。
「いいって。子どもが遠慮するものじゃないよ。」
笑いながら言われるのに、罪悪感を覚えたけれど…。でも、今は病院に着くことが最優先だ。そう思って、礼を言ってから後部座席に座った。
…先生…、どうか無事で…。
病院に到着して、付き添おうかという人のいい運転手を、看護師さんが待っていてくれるはずから大丈夫だからと帰らせて、時間外通用口を探したのだが。意外にも、正面出入り口が施錠されていなかったため、堂々と入り込めてしまった。
だが、受付には誰もおらず、先生がどこなのか訊くこともできない。
それでもブルーは受付カウンターの内側に回って、きょろきょろと周りを見渡した。すると、ふと受付に置かれているリストが目に入った。
7階…?
ジョミー・マーキス・シンの名が手書きで書かれている。それには、7階集中治療室の文字がある。
ICUに入らなければならないほど、ひどい状況なのだと思ったら、いても立ってもいられなくて、カウンターの向こうに見えたエレベーターへ走った。
エレベーターが1階まで降りてくる間がもどかしい。先生は本当に大丈夫なんだろうか? 頭からの出血に動揺して車から一歩も動けなかった自分自身が情けない。なぜあのとき、先生の傍に駆け寄って容態を確認しなかったのか。声をかけて、意識をつなぎとめるくらいできたかもしれないのに…!
チン、と音がして、エレベーターのドアが開く。乗り込んで、7階を押すと少しばかりの浮遊感とともにエレベーターが上昇する。
手遅れになっていたら、どうしよう…。そんな最悪のことばかりが頭に浮かんだ。
やがて、エレベーターは7階に止まり、ドアが開く。もう就寝時間らしく、患者の行き来はなく、なぜかナースステーションにも人がいない。そのナースステーションの近くに、集中治療室はあった。全部で3室。そのうちの1室の表札に、ジョミーの名が見えた。
…このドアの向こうに、先生がいる…。
どくんどくんと心臓が脈打つ音がうるさい。誰かに聞かれてしまうのではないだろうかと思ってしまうくらいだ。
『面会謝絶』という札の下がったドアをゆっくりと開き、ブルーはするりと中に入った。部屋の中は暗く、機械類だけがわずかな音を立てて点滅している。
その奥に、ベッドが見えた。そっと近づくと、頭や手足が包帯でぐるぐる巻きになった、痛々しい先生の姿があった。顔も傷ついているらしく、大きなガーゼが貼られており、口には酸素吸入器が取り付けられ、腕には2本のチューブが頭上に取り付けられた点滴瓶から伸びている。
…先生…。
しばらくブルーは呆然と先生を見つめていた。ポリグラフの定期的な機械音が、静かな部屋に響いている。
「…ごめん…なさい…。」
こんな目にあわせるつもりじゃなかったのに。
「ごめ…っ。」
先生が死んじゃったら、どうしよう…。そんな自分の考えに、ぞくっと寒気がした。
ダメだ、そんなの絶対嫌だ! 行かないで、僕の傍にいて…。これからは僕が先生を守るから…! だから…。
泣かないで。
そんな声が聞こえたようで、無意識のうちに閉じていた目を開いた。そのときに見た緑の色彩を、僕は一生忘れない。
先生の綺麗な緑色の瞳が、こちらを見ていた。怪我をして痛いだろうに、たくさんの機械に繋がれて辛いだろうに、その表情は穏やかで送ってくる視線も慈愛に満ちていた。
僕は大丈夫だよ。
酸素マスクを取り付けられた状態で先生が喋ることができたとは思えないけれど、それが空耳だなどとは絶対に思えなかった。
君を置いて逝ったりしないから…安心して?
チューブに繋がれた手がこちらに差し伸べられるのに、慌ててその手を握った。先生の手は冷たくて擦り傷もあったけれど、わずかに僕の手を握り返してくる力に感動して、泣かないでと言われたというのに涙が止まらなくなった。
…もうこの手を離さない。誰がなんと言おうと、絶対に…!
それから、1時間も経たないうちに僕はハーレイに見つかり家に連れ戻されてお説教を食らったけれど、その後先生の容態は安定したようで、1週間後には面会の許可が下りた。
待ちに待ったお見舞い。ハーレイはしぶしぶといった具合で付き添ってくれたが、それでもベッドで身体を起こして微笑みかけてくれる先生を見ることできて嬉しかった。
「二学期が始まるときには、一緒に遊べるようになるよ。」
笑いながらお菓子を手渡してくれる。その甘い匂いに、決意を新たにして先生の顔をきっと見据えた。
「僕、先生を守れるほど強くなる。だから先生、僕が大きくなるの、待ってて!」
誰よりも強くなる。トォニィよりも…いや、両親やほかの大人にだって負けないほど強くなる。
「大きくなって強くなったら…先生とずっと一緒にいたい。」
いいでしょう? と伺うと、先生は呆気に取られたあと、ふわりと微笑んだ。
「楽しみにしてるよ、ブルー。」
そう言われるのに、子どもの無邪気な笑顔を向けた。
…でもね、先生。子どもの戯言だと思っていたら、大違いだよ? だって、先生を傷ものにした責任は取らなきゃ。両親の反対なんかねじ伏せてしまえるほど強くなって、先生をお嫁さんに迎えるんだ。
だから。
あのとき、軽い気持ちでうなずいてしまっただけだなんて言い訳、通用しないから。覚悟しておいてね…?
おまけへ
黒園児、完結です♪ 十数年後、ブルーに惚れ直しているジョミーと、真っ青になっているハーレイがいることを希望! |
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