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    調子が狂う。これがジョミーといるときの感想だ。
 今までは、まわりで何が起ころうと、見ているだけだった。言ってみれば、ガラス越しに人の話を聞いたり動きを見たりしているだけで、それが自分自身に関わることは基本的になかった。いや、あったとしても、それに対して自分の考えを伝えるなどまったく考えたことがなかった。
 自身の身体はもちろん、心すら自分のものではなく、どう扱われようが自分はそれを離れた場所から冷めた目で見ていただけだった。だから、何も考える必要がなく、何も感じる必要がなかった。
 ただ見ていればよかった。それだけで、時間は過ぎて行ったのに。
 けれど、ジョミーはそれを許してくれない。
 だから戸惑う。ジョミーの言葉にどうしていいのか分からず、その対応に困窮する。
 あれからはずっと押し問答だった。
 スープだけでいいというのに、ジョミーは出かける間際まで絶対おいしいからもう一口、と繰り返していた。別にまずいから食べないというわけではないと言っているのに。
 『今日はこのあと地上まで行きますが、帰ったら一緒に夕食食べましょうね。
 今度は話ひとつにつき、パン二口とか。』
 さすがに自分でも分かった。不愉快を絵に描いたような表情になっていると。
 『そこまで嫌がることですか?』
 ジョミーは呆れた様子でそういう。
 『食べることは苦手だ。』
 『そんな話、初めて聞きました。食べるのが好きだという人は大勢知っていますが…。
 大体食べないと保たないでしょう。』
 『そんなことはない。』
 今まで何とか保ってきたんだから。
 すると、ジョミーは楽しそうに笑って言った。
 『もしかして、あなたって負けず嫌いなんじゃないですか?』
 …負けず嫌い…?
 そんなことはない、はずだ。自分で意識したことも、誰かから言われたこともない。
 『帰ったら一緒に夕食を…。』
 ジョミーの言葉を思い出して、外を眺める。
 しかし、今はもうとっくに夜中と言える時間になってしまっている。今日はもう帰らないのかもしれない。
 がっかりしたような、ほっとしたような。
 食べることが苦手だから、やはり固形物には手をつけていない。ジョミーが帰ったら、またこのことで何か言うのだろうか。
 そこまで考えたとき。
 ぞくり、と。
 急に寒気を感じた。
 気温は変わらない。それなのに、一瞬だけひどく冷たいものに触れたような感覚に陥った。そのあと寒気はひいたものの、今度は胸騒ぎがして仕方なかった。
 この感覚は、一体…。
 それからしばらく経って、急にまわりが騒がしくなった。夜中にもかかわらず、廊下を走る数人の足音と、何を言っているかよく分からないが話し声が聞こえる。
 何か、あったんだろうか…。
 ドアを開けて行き来している人をつかまえて聞けばいいのだろうが、戸口まで行って結局やめてしまった。
 所詮自分は部外者という意識があったせいと、このドアの外に出ていいものか躊躇したせいと。明日、ジョミーが帰ったら聞けばいいと思って引き返した。
 だが、もう日付が変わるような時間になっているにもかかわらず、喧騒は止まない。いや、もっと騒がしくなっている気さえする。
 ベッドには入ったが、眠れない。喧騒のせいというだけではなく、何か落ち着かない。こんな気分は初めてだ。
 そんな風に思っていたとき、控えめにドアがノックされた。
 顔を出したのは、初日ジョミーの朝食を運んできた女性だった。
 「あの、フィシス様がお呼びなのですが…。」
 何だろう…?
 人を使って呼びにやらせるなど、彼女にしては初めてだ。そう思ったが、自分がここに来たのはほんの昨日のことなのだから、初めても何もないだろうとも思った。
 案内します、という彼女のあとについて歩き出したが、途中に上り階段があるのを見てため息が出た。
 体力がないから、平坦な道でさえ長く歩くことができないのに、この階段を上りきれるのか分からない。
 「この階段を上った突き当りです。」
 階下でフィシスの部屋を尋ねると、彼女はそう答えた。
 上りきれるかではなく、上らなければいけないようだ。
 「ではあとは一人で行く。」
 「でも…。」
 「僕に付き合っていると時間がかかる。皆忙しそうだし、君にだってやることがあるんだろう。」
 彼女は不思議そうな顔をしたけれど、そうですか、ではと一礼して去って行った。
 手すりに掴まって一段一段上って行く。途中で休むと立てなくなりそうだったから、息が乱れても止まろうとは思わなかった。こんなに歩いたことは、過去にない。
 そういえば、初日はジョミーが抱いて連れてきてくれたんだった。それが随分前のことに思えてしまう。そのくらい自分自身も自分のまわりも大きく変化しているのだろう。
 上りきったときには、疲労のあまり座り込みそうになった。たかだか十数段上っただけ、1階から2階へ移動しただけのこと。普通の人には、ここまで体力を消耗するとは考えられまい。
 …ジョミーに笑われるだろうな。それに、食べろといういい口実にされるかもしれない。
 フィシスには黙っていてくれるように頼んでおこうか。
 「ああ、ごめんなさい。こんな時間に呼び出したりして。私はここを離れられないものですから。人づてに伝言して誤解でも生んだから困ると思いまして…。
 あら、大丈夫ですの?随分と息が上がっているようですけど。」
 ノックもいい加減に、ドアにもたれるようにして部屋の中に入ると、フィシスが慌てて立ち上がった。
 いつも優雅な物腰の彼女が乱れている…?
 そう思う自分のほうが息切れによる頭痛がひどくて倒れそうなのだから、人のことを心配している余裕などないが。
 「そうでしたわね、あなたはあまり長く歩くことができないという話でしたのに、すっかり忘れていましたわ!ごめんなさい。
 これからは、三度の食事はきちんと取ってくださいね。
 ああいえ、そんなことを言おうと思ってあなたを呼んだわけではないのです。とにかく座ってください。」
 倒れこむようにソファに座って、フィシスから水の入ったコップを受け取った。
 一口飲むと、少しは落ち着いた。
 落ち着いてくると、余計にフィシスの取り乱しようが気になってきた。多分、僕を呼び出したことと関係があるのだろう。
 「…用があると聞いたが。」
 「ええ、ジョミーのことなのですが…。」
 ジョミー…?
 言いかけたところに、けたたましくノックの音がした。
 「フィシス様!」
 「まあ、なんですか、みんな揃って。後にしてくださいな、先客がありますのよ?」
 先客とは僕のことなのだろうけど。
 入ってきたのは7人。代表であろう一人がこちらをちらりと見たが、すぐにフィシスに向かって話しかける。
 「こちらも急ぎの用なのです。
 フィシス様、お願いです。次の指導者がどこにいらっしゃるのか占っていただけませんか?」
 次の指導者というと…、ジョミーの次ということか…?
 なぜ急にそんな話になっているのかさっぱり分からない。ただ、ジョミーに何かあったということだけは何となく分かった。
 「今そんなことを言っていられるときなのか、考えてから相談にいらしてください!」
 フィシスは不快を隠そうともせず、一同に向かってぴしゃりと言った。しかし、相手はそんなことはまったく意に介していないらしい。
 「ジョミーが亡くなったら、誰が指導者になるのか、大事な問題です。」
 「そうです、このまま彼が死んでしまうようなことになれば、我々は大きな守りを失って魔物の脅威にさらされるのです!」
 ジョミーが、死んだら…?
 にわかに信じがたいことを聞いて、頭痛などすっかり吹き飛んでしまった。しかし、やはりまったく状況が分からない。
 「ジョミーは怪我をしただけですよ。」
 「だが、傷は深くて出血が止まらないんでしょう?」
 ジョミーが、怪我…?しかも、生死を心配されるほどの…?
 パンを食べる食べないで、ジョミーが人をからかっていたのは今日の昼下がりだった。そのときは元気でにこにこしていたのに…?
 そんなことがあるのだろうか…?君はあのとき、帰ったら一緒に夕食を食べようと言ったのに。
 その君が、死ぬ…?
 ふと、あの家の中で血だらけになって動かなくなっていた、人間だったモノを思い出した。その顔が、ジョミーのものに摩り替わった途端、言い知れぬ焦燥感が襲ってきた。
 待って。
 行かないで。
 帰ってくるんだろう?
 もっと訊きたいことだってあったのに。
 まだ伝えなきゃいけないことだってあったのに。
 君に聞いてほしいことが…。
 「ジョミーがもともと張っている結界には綻びはないと聞いています。まだジョミーには余力があるものと思っていますわ。」
 凛としたフィシスの声が聞こえたのに、はっとした。
 …話の流れから察するに、ジョミーはひどい怪我をしたらしいということは分かった。でも、彼女の言うとおり死んだわけじゃない。
 めまぐるしい情報の錯綜に、頭が混乱しそうになる。おかげで、家族の死骸に対して何の感慨も持たなかったのに、それがジョミーのものだと思った瞬間感じた焦りについては、深く考えている余裕がなかった。
 「しかし、歴代の指導者の中には死してなお結界を維持した例もあります。綻びがないからといってジョミーに余力があるとは限らんでしょう。」
 すでに彼らの中では、ジョミーが死んだものとして話が進んでいるらしい。それが先を見据えるために必要なことだということならば、残酷以外何者でもないだろう。
 「あなたたちは…。」
 地を這うようなフィシスの声に彼らが身構えたとき。
 「ジョミーがまだ生きているうちから次の指導者の心配か。」
 感情が抜け切ったような乾いた響きに、全員が一斉にこちらを振り向く。
 言うつもりがなかったのに、また口をついて出てしまった。ジョミーに関わると、どうも普段どおりではいられないらしい。
 ひどく冷たい響きになって聞こえたが、それについて釈明しようなどという考えは浮かばなかった。
 「わ、われわれは一族のことを思って…!」
 「ジョミーは一族のひとりではないのか?」
 「指導者ともなると、立場が違う!」
 「その理屈で言うと、一族を擁護するのが指導者の役割なら、指導者を補助するのが一族の役割だと思うが。」
 一族のほうがその役割を放棄していると、暗に告げている。淡々とした口調が、さらに冷ややかさを増した。
 さすがに、それ以上は言えなくなったようで、彼らは顔を見合わせて気まずそうに退出を申し出た。
 廊下に出た彼らが、あれは誰だ?話しているのが聞こえた。
 「お見事ですわ、すごい迫力でした!」
 彼らが出て行ってしまった後、フィシスが手を叩いて嬉しそうに言った。
 「私自身、どう言ってやろうかしらと思っていたところでしたから。
 ああ、気分がいいこと!」
 あれはうっかり口に出してしまっただけで…、と思ったが、そんなことはどうでもいいかと思って黙っていた。
 それよりも。
 「ジョミーの怪我の具合は…?」
 その部分については詳しくは語られなかったので、聞かなければいけない。
 「そうでしたわ、それをお話しようと思っていたのです。
 確かに、彼らの言うとおり予断は許さない状況のようです。致命傷となっているのは、腰から腹に貫通する傷で、内臓を傷つけているようで出血は止まりませんし、今は本人の意識もないそうです。」
 打撲とか骨折とか、そんなレベルではないと思っていたが、予想以上に怪我の程度がひどいと分かって、焦燥感は切迫感へと変わる。
 ここにいるだけというのは落ち着かない。
 「…ジョミーのところに行くことはできないのか…?」
 何もできないのだろうが、それくらいはと思ったのだが。
 しかし、フィシスは首を振った。
 「それはいけません。魔物の跋扈する場所へ行けば、あなたであっても私であっても、無事には済みません。まず死ぬことになるでしょう。」
 それに、と続ける。
 「ジョミーは頼りなさそうに見えて、実は戦いにおいてはかなり強いのです。少なくとも、一族の中でジョミーに敵うものはいません。
 そのジョミーが深手を負ったのですから、魔物の強さも相当のものなのでしょう。」
 …結局、ここで待っているしかない。
 じっとしていることが、こんなにもどかしいことだと思ったのは初めてだった。
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