あれからブルーに別れを告げて、帰途についている。
ぽっかりと開いてしまった午後、何をして過ごそうか。ブルーのおじさんとやらの説得に、どのくらい時間がかかるか分からなかったから、完全に手が空いてしまった…。
そんなことを考えながら歩いていると、ぽつぽつと顔に水滴が当たった。
「…ああ、雨か」
午前中は晴れていたのにと思い、ぼんやりとまわりを見渡した。突然の雨に、慌てて帰途につく子どもや、手をつないで走っていく恋人と思しき男女の姿が目に入る。
…早く帰っても仕方ないし。
ジョミーは走るわけでもなく、雨宿りするわけでもなく再びゆっくりと歩き出した。
…何を落ち込む必要があるんだろう。ブルーと僕は生徒と教師で、その間にはどんな感情であろうとはさむ余地はない。近寄りがたいイメージはあるものの、女子生徒や女性教師にまで人気のあった彼のこと、これからいくらでも相手が見つかる。
「…ああ、もう婚約者がいたんだっけ…」
盲目ではあるが、美しい少女だった。ブルーも、彼女は優しい女の子だと言っていたから、心配はないだろうし。
ジョミーの足が止まった。
じゃあ…本当に、これが最後だったんだ。
雨は激しさを増して、アスファルトを叩きつけるように降りしきる。空を見上げれば、薄暗い空から大粒の雨が落ちてきている。
と、そのとき。その視界がさっと暗くなった。
「…やっぱり。傘を持ってなかったと思ったら」
その声に、首を回して後ろを見ると、ブルーが傘をさしかけてきているのが分かった。彼は少しばかり自分よりも背が低い。こうしていると、それがよく分かる。
「いくら健康な君でも風邪をひくよ? 何もこんなところで突っ立ってなくても…」
渋い顔で言いかけて、ふと何かに気がついたように言葉を止め。
「…ジョミー、泣いてるの?」
そう言われるのに、ジョミーははっとして頬に手をやった。
「な、何で泣くんだよ! これは雨だろ!」
今や滝のように降る雨。どんなに濡れていたとしても、すべて雨のせい。
ブルーは何か言いかけたが、結局口を閉ざしてからくすっと笑った。
「…そう。でも、濡れたままじゃ身体に毒だよ。わざわざ風邪ひくようなまねはよくないと思うけどね」
「わ…分かってるよ!」
年下の、しかも教え子からそんなことを言われなくても!…ブルーは自分のクラスの子じゃないけど…。
そう考えて、ふとブルーはなぜここにいるのだろうと思って…。
「…僕を、追いかけてきたの?」
「それ以外あるかい? 急に降りだしたから、ジョミーが困ってるんじゃないかと思って。ああ、でも」
ブルーは今さしかけている紺色の傘を見た。
「傘、ひとつしか持ってこなかったな。このままじゃ君も風邪をひくし、いったん僕の部屋に戻ってシャワーでも浴びたらいい」
「…え…?」
もう二度と会うこともないし、会ったとしても言葉など交わすこともないだろうとさえ思っていたから、こうして追いかけてきてくれただけでも、十分驚きなのに…。
そのまま腕を引っ張られ、もと来た道を戻り始めたのだが…。
「い…いいよ、ブルー…! 僕は走って帰るから!」
「君は走ってなかったし、走ったとしても距離がありすぎる。タクシーを拾おうという気もなかったんだろう?」
「…そう、だけど…」
ずるずると引っ張られるように歩いていたジョミーだったけれど、はっとしてブルーの手を払った。
「こ、これじゃ君が濡れてしまうだろ! 君は身体が弱いのに…!」
「確かに虚弱体質だったけどね、それは子どものころの話だ。体育の授業に出なかったのは、主に弱視のせいでね」
そう言われてびっくりした。そう言えば、僕は彼のこと、何も知らないんだと。だが。
「色素がなく、光に弱い目だからね。ましてや体育は外で活動することが多い。加えて、僕の場合動くものを見極めることが苦手でね。球技なんかは特に嫌いだったから、サボってたところもあるな」
次にはそう悪びれずに言われるのに、呆気にとられた。その様子にブルーはふっと笑う。
「『悪ガキ』って言わないのかい? それとも、もう卒業だから大目に見てくれるのかな?」
そう言われるのに…ただ黙ってブルーの顔を見つめることしかできなかった。
「こんなにぼんやりしているジョミーは初めてだな。いつもはしっかりしていて、頼りになる先生を地で行っているのに」
とにかく早く、といわれるのに、ジョミーは引きずられるようにしてブルーとともに雨の中歩き出した。
「早くシャワーを浴びたほうがいい。春先は風邪をひきやすいんだから」
そう言ってシャワールームに押し込められる。生徒のうちで、シャワーなんか浴びていいものだろうかと思いつつも、せっかくブルーが追ってきてくれたんだからと思い、息を吐いてから服を脱いだ。
…なんだかほっとしている。
なぜだか分からない。けれど、もうブルーとはサヨナラなんだと思いながら歩いていたときよりも、はるかに気が楽だったことは確かだ。
暖かい湯が肌に降り注ぐのに、ぶるりと身体を震わせる。それほど身体が冷え切っていたのだと、このとき実感した。
「…物好き…」
ぽつりともれた、言葉。
何も男の、しかも僕になんてプロポーズしなくったっていいだろうに。単に教師として叱りつけただけで、どうしてそこまで僕を気にするのか…。
シャワーを浴びているせいだろうか、頭がぼうっとして妙にふわふわした気分になった。
だって…そうだよね? たったそれだけのことが彼の気を引いたと知ったら、作戦を間違えたと嘆く女の子もいるだろう。
そう思ったら、急におかしくなった。
やっぱり…ブルーって変わってる…。
脱衣場に出ようとして、ふっと思った。
そういえば…着替えなんか持ってきてない。
当然だ、もともとこんな予定じゃなかったのだから。雨が降るかどうかなんて考えてもいなかったし、シャワーをすすめられたときも、あとのことなんか考えてもいなかった。
どうしようと思ってしばらくシャワールームで悩んでいたが、こんなところにいても仕方ないと思ってドアを開けた。すると、バスタオルの隣に真新しいシャツとジーンズがおいてあるのに気がついた。
これって…。
まさかと思いながらも、ジョミーはバスタオルを腰に巻くと、部屋に続くドアを開けた。明るい室内。もう雨はやんだらしい。
「落ち着いた?」
ソファに座っていたブルーは、ジョミーを振り返るとにこやかに笑ってから小首を傾げた。
「着替え、置いておいたと思うけどね」
「あれって…」
「サイズは合ってると思うよ。君好みにデザインもシンプルだし」
そういわれても、ジョミーはぼんやりとブルーを見つめているだけだ。その様子に、ブルーはくすっと笑った。
「いつまでもそんな格好でいると、いたずらしたくなるよ?」
いいの? とばかりに微笑みながら立ち上がり、ぼけっとしているジョミーの前で止まる。けれど、そのジョミーはきょとんとしていたかと思ったら、突然ぷっと吹き出した。
「…ジョミー…?」
驚いたのはブルーのほうだ。何も笑う場面ではないだろうと訝しげにジョミーを見つめている。
「…君ってやっぱり変な人だ…」
肩を震わせながら涙目になって、ジョミーはつぶやいた。その様子を紅い目を見開いて見守っていたブルーだったが、やがてふっと笑った。
「失礼だな」
けれどその言葉は優しく響く。
「でも、君が笑ってくれるのなら変な人で構わないよ。さっき雨の中で立ち尽くしている君は、ひどく寂しげだったからね」
そういわれて…ジョミーは笑みを消してから今度は諦めたように笑った。
「…そう…」
「それは、僕のせいだと思っても構わない?」
そういわれるのに、今度は少しばかり目を見開いてブルーを見つめていたが、やがておかしくてたまらないとばかりに笑った。
「そういううぬぼれの強いとこ、君らしい…」
「否定しないんだね」
笑顔は浮かべているが、目は笑っていない。ジョミーは再び笑みを消してそんなブルーを見つめ、「そうだね」とつぶやいた。
「…否定は…しない」
ジョミーの言葉にブルーはほっと息を吐いて手を伸ばしたの、だが…。
「ダメ!」
しかし。その手をぱしっと払われた。
「…ジョミー…?」
その表情は、今さっきまで雨の中ぼんやりしていた人物とは同一だとは思えないほど、しっかりしたものだった。払われた手は痛くはなかったが、突然のことにブルーは目を丸くしてジョミーを見つめた。
「否定はしないけど、それとこれとは別だ」
そして、はっきりとそういわれる。あまりにもきっぱりとした口調で、ブルーは呆気にとられて黙り込んでしまったくらいだった。そのさまに、ジョミーはにこりと笑う。
「だって、君はこれから大学生になるんだろ? 卒業するまでは、まだ半人前だよ」
今のジョミーの表情は、教師の顔のような、そうでないような…。そんな変化に戸惑って、ブルーは眉を寄せた。
「…ジョミー?」
呼びかけると、ジョミーはふっと表情を緩めた。
「待ってる…からさ」
君が、卒業するまで。
その言葉の意味を理解するまで、少しかかったらしい。やがて、ブルーは見開いた瞳を細めてあでやかに笑った。
「じゃあ、それまではお預け?」
こんなおいしい状況なのに。
そう言うと、ジョミーはむっとしたようにふんとそっぽを向いた。
「当然だろ、まだ半人前なんだから!」
「じゃあ、卒業したら一人前と認めてくれるんだ?」
そう畳み掛けるように言うと、一瞬詰まったようなジョミーだったが…。
「…卒業して、立派な大人になったら、ね」
ささやくようなジョミーの声。けれど、次には照れ隠しのように慌てて首を振った。
「だ、大体それまで君の気が変わらないなんて保障はどこにもない。4年間もあれば君だってかわいい恋人が…」
「できるわけがない。僕には君だけなんだから」
そう断言されるのに…ジョミーは黙り込んだ。ブルーはふっと笑うと、愛しげにジョミーを見つめた。
「話はゆっくりするとして、いい加減に服を着てくれないか? 仮にも教師なら、健全な青少年を誘惑しないでほしいものだ」
「こ…っ、こんなんで誘惑されるなんて、君くらいのものだろっ!」
いいながら、さすがに身の危険を感じたのか、ジョミーは慌てて脱衣所に戻ってドアを閉めた。その様子を楽しそうに見ていたブルーだったが、やがて紅い瞳を伏せてからため息をついて、「仕方ない」と嬉しそうに笑った。
「…4年間くらい待とうか。せっかく君がその気になってくれたんだから」
優しそうに見えて、意思が強い君が相手なんだから。
脱衣所では、ジョミーが急いで服を着ている様子が分かる。
「…何もしないよ、今はね」
そのつぶやき声は、幸いなことにジョミーには届かなかった。
おわり
「その気になった」んじゃなく、「その気にさせた」が正しい〜。
完結まですっかり時間を取ってしまったこの話! ヒロさまには大変申し訳なく…! おまけにリクエストを外しまくったような気がひしひしと…。本当に、スミマセンでした…! |
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