のどが…渇いた。
そう言葉にしたかどうかは分からなかったが、傍らの存在は分かったといって身体を抱き上げた。続いて、口に何かを差し込まれ、そこから広がる液体を夢中になってむさぼって。
ふっと目を開けると、緑の瞳がこちらを見つめているのが分かった。
「気がついた?」
目を細めたシンの笑顔に目を奪われる。この人は、なぜこんなに優しく微笑むことができるのだろう? とてつもなく恐ろしいことだって、こともなげに言い切ってしまえるのに…。
そう考えて、はっと我に返った。
監察局の男が来た一件ののち、シンと言葉を交わしたが、その後の記憶がない。ということは、おそらく眠ってしまったのだろう。どのくらい、眠っていたのかは分からない、けれど…。
…シンは、ずっとついていてくれたんだろうか?
「何か食べられるようなら、ここに運ばせようか。」
微笑みながら返事を促されたが…返事ができなかった。
「…じゃあ、スープのような軽いものでも。今、内線で指示するから待っていて。」
シンは返事がないのを不快に思った様子もなくそう言うと、空になった水差しをベッドサイドのテーブルに置いた。そして、ブルーの身体をベッドに横たえてから、電話に向かう。今度は置いていかれるという焦燥感はなかった。
…今、何時だろう?
電話に向かって話すシンの姿を見ながら、再びまわりを伺う。
もう昼に近いのだろうか、太陽は随分と高いところにある。しかし、数時間寝ただけという感覚ではない、ということは…。
「…僕はどのくらい…寝てたの?」
受話器を置いて戻ってきたシンは、その言葉に心持ち目線を上げた。
「そうだね。一日と2,3時間、といったところかな。」
シンはそう微笑んだ。
「よく眠っていたからね、たまに寝息を確認しないと、死んでいるんじゃないかと思ったくらいだ。どこか痛いところはある?」
そう言われて、試しに腕を上げてみた。傷は痛むが、特に問題はなさそうだったので、首を振って応えた。
「よかった。学校には一週間の休暇を申し出てあるから、ゆっくり身体を治せばいい。君の勉強が遅れないように、僕が責任を持って教えてあげるから。」
「えっ…!?」
勉強を見る、ということに、ついあのホテルでの出来事が思い出され、身構えてしまった。シンとするのがイヤかどうかと訊かれれば、実はよく分からないのだが、あんなひどい暴行を受けたあとでは、どうしても恐怖が先に立ってしまう。
「そんなにびっくりことはない。罰ゲームはなしだから。」
そうなだめるように言われて…肩の力が抜けた。
「僕はそんなに極悪人じゃないよ。それに、今は身体を戻すことのほうが大切だから、勉強は後回しだ。なに、遅れたとしても君ならすぐに追いつける。」
ブルーの慌てようが面白かったのか、シンは笑顔でそういうと外を眺めた。
「今日は大事を取ってベッドに入っていたほうがいいが、明日は昼食のあとこの近くを一緒に散歩しないか? 明日も天気がいいらしい。」
「…あなたは…学校に行っているでしょう。」
僕が怪我のために学校を休んでいたとしても、シンには休む理由がないはず。それに、シンは高等部の3年生で受験を控えた身の上だ。
…そう考えた途端、嫌な可能性に行き当たった。
…シンは、多分進学するだろう。成績優秀との誉れも高い彼のこと、有名大学を目指していることだろう。学歴は低いよりも高いほうがいいに決まっている。
「僕も休むよ。別に、学校に行かなければ勉強ができないわけでもあるまいし。気になるのは生徒会だが、これもしっかり者の副会長がいてくれるから大丈夫だ。」
「…出席日数が足りなければ、単位を落とすという可能性もあるでしょう。」
「それは試験の点数でカバーする。何も心配することはない。」
「あなたがいないと困る人が大勢いるでしょう!?」
…叫んでからはっとした。
「…ブルー?」
訝しげにジョミーが覗き込んでくる。それさえ今は疎ましい。
「僕は…知らなかったけれど、あなたは会社の社長なんでしょう。それに、受験を控えた高等部3年で、しかも生徒会長。それなら、やるべきことも多いし、僕なんかに構っている暇はないはずだ。僕はもう…大丈夫です、ひとりでも平気…。」
だから放っておいてください、と伝えた声が、ひどく情けないものとなったことに…動揺した。
「…そう、か。」
シンはしばらく沈黙していたが、やがて息を吐いてからつぶやいた。
「もし、君が僕を見ているのは辛いと、そう言うのなら仕方がない。それだけ苦しい思いをさせてしまったのは、確かに僕の失態だ。」
そうじゃない…けれど、そう思われてもいい。あとからシンに見捨てられるくらいなら、ここで別れたほうが悲しい思いをしなくても済む。
「だから…ぜひ償う場がほしい。」
「心配しなくても、訴えるつもりなんかありません。」
シンに償いなど必要ない。そんなことをさせるつもりで言っているわけじゃない。だが、シンは真顔になって首を振った。
「それは困る。君や監察局が起訴を取り下げたとしたら、僕が兄を訴えるよ。」
あながち冗談とも思えないシンの様子に、ブルーは次にいうべき言葉を見つけられなかった。
「…なぜ、僕と距離を置こうとする? 僕の顔を見ているのが不愉快だというのなら、兄のことも憎いはずだ。それなのに、彼を不起訴にするなどということはないだろう?」
「き…っ、起訴して長引くのがイヤなんですっ! その間ずっとこの事件のことを考えていなければいけないから…!」
「でもそれは…。」
「忘れたいんです…! あなたに振り回されたことなんか忘れて、そっと暮らしたいだけなのに…。どうして邪魔しようと…。」
「ブルー。」
みっともなく。語尾が震えた。視界がぼやけて、涙が溢れてくる。
「あなたなんか…だいきらい…。」
しゃくりあげて、そのあとが続かない。その様子にシンはふっと笑った。
「昨日、うっかり勘違いしてしまって、君に返事をしていなかった。」
そういいながら、シンは子どもにするようにブルーの頭を撫でた。
「欲しがるまでもない。僕は、君のものだよ。」
そう言われてきょとんとした後、かあっと顔が熱くなった。
シンが、おそらくは飲食物を想定して何が欲しいかと訊いてきたときに、「ジョミー」と答えてしまったことを思い出した。だが、彼には分からなかったようで、これは何もなかったことにしようと。シンを自分のものにしたいだなんて身の程知らずだ、彼に悟られなくてよかったのだと。そう、思い込もうとしていたのだが…。
「な、何のことか…分かりません。」
「それで怒っていたんじゃないのか?」
「怒ってません…!」
「ブルー。」
シンの真剣な表情に反論を封じられる。
「何が不安なんだ? はっきり言ってくれれば、きちんと答えるから。」
「だ…から、あなたのことは忘れたいと…。」
「忘れたいほど僕が好きだ、と理解していいのか?」
「ど…どうして…!」
「そういうことじゃないのか? 僕のことが欲しいけれど忘れたいというのは。」
「それはあなたの勝手な解釈だ…! 僕はその身勝手さに振り回された上に、あなたはどこかの有名大学に行ってしまうんだか…ら…。」
…言葉が止まった。
「…有名大学?」
シンも目を見開いてこちらを見つめていた。
「…僕が有名大学に進学する?」
シンは驚いた表情のまま、おうむ返しにつぶやいた。
「…そう、なんでしょ? だって、ジョミーは頭がいいし…。有名大学に進学するなら、都市部になるだろうから…。」
「なんだ、そんなことを考えて、僕のことを忘れたいと言っていたのか。確かに、好きな相手と別れるのは辛いからね。」
ため息混じりのシンの嬉しそうな台詞に、ブルーはむっとしてシンをにらんだ。
「だ、誰もそんなこと言ってない…! 大体、あなたにとっては僕なんてあなたの周りにいる大勢の人たちの中のひとりでしょうけど、あなたは僕にとってただひとりの…。」
そういいかけた自分の口を、慌てて押さえる。シンの楽しそうな表情に、また頬が熱くなるのを感じた。
「悪態をつきながら告白されるというのは初めてだけど、相手が君なら嬉しいものだね。」
「だから、誰も告白なんて…!」
「分かったよ、君のは告白じゃない、僕に対するただの苦情だ。」
…なんか腹が立つ…!
これでいいかい? と笑いながら訊いてくるシンをにらんでから、ふんとそっぽを向く。それさえシンにとってはおかしかったらしい。
「ブルー、いい加減に機嫌を直して。君は大勢の中のひとりなんかじゃない。それに、僕はこの近くにあるアタラクシア大学を第一志望としているんだよ? もし、君が別の土地に移るというのなら、その近くを探すことになるだろうね。」
その言葉に驚いてシンを見つめた。
アタラクシア大学は、偏差値のレベルとしては中堅どころだ。シンには物足りないのではないだろうか…?
「君がいないのであれば、どんなに素晴らしい最高学府であっても色あせて見える。」
そう続けられるのに、呆然としてシンを見つめた。
「それで…話は戻るが、僕に償いをさせてもらえないだろうか。どんなに謝っても許されることではないと分かってはいるが…僕は君に許されて君の傍にいたい。」
これは夢じゃないだろうか? 自分の望む世界、自分の望む応答をする思い人を描く、夢の中。
「だから、何でも言って?」
そう言われるのに…どきんと心臓が脈打った。
…もし夢なら…ちょっとくらいワガママを言ってもいいんだろうか…?
「…何でも、いい…の?」
そう言えば、シンは困ったように笑った。
「あまり無茶なものは遠慮してもらいたいのが本音だけどね。何でもいいよ。」
「…あの遊園地…で…。」
「遊園地?」
「前に…僕が頭につけてたあのカチューシャつけて、歩ける…?」
その言葉に、シンはぽかんと口を開けた。だが、それもほんの一瞬のことで、シンはふわりと微笑んだ。
「君も一緒に歩いてくれるんだろう? 僕が途中で取ったりしないか見張っていなければいけないからね。」
え…? とシンを見つめた。
「ほかにリクエストはある? 着ぐるみを着て歩けとか、逆立ちして歩けとか。」
…シンはあの遊園地の出資者のひとりで有名人なんだから、てっきり困ると思っていたんだけど…なんだかもっと悪乗りしそうな勢いで嬉しそうに訊いてくる。
「…恥ずかしく…ないの?」
「恥ずかしくなんかないよ。君と遊園地を歩けるんだ、これほど嬉しいことはない。それで? カチューシャだけというのは軽すぎると思うが。」
そう、にこにこしてこちらを覗きこんでくる…けど…。
つい、現実にカチューシャつけて着ぐるみを着て、逆立ちしたシンの隣を歩くことを考えると、本人よりも恥ずかしいような気がしてきて…。
「…それだけで…いい。」
なんだか想像だけで無性に恥ずかしくなって、ついそう答えていた。
「じゃあ決まりだ。君の体調が元に戻ったら、行こうか。」
だから、と続けられる。
「これからは、ずっと一緒にいよう。」
おわり
終了でーす。で、これが20万HITになれば、未発表エピは@このあとの2度目の遊園地デート、Aブルー7歳のときの事件、です〜。 |
|